『鶴梁文鈔』巻八 訳
四得録
安政五年、わたくしは遠州から羽州に転任し、八月二十九日に入国し、年貢米のことを検分し終わって、九月十三日に下役人三人、従者十数人とともに幸生銅山に向かった。これより先、この山は数十年銅を産し、官吏を置いていたが、銅は久しく出なかった。このたびわたくしは銅山を視察するよう命じられていた。わたくしは、久しく銅が尽きているのは人力ではどうすることもできないのではないかと考えた。しかし命を辞退するわけにもゆかなかった。さらにわたくし自身奥羽の素晴らしい山水を探索したいと思っていたので、これはじつに運が良いと思った。やがて幸生の境に入ると、左右に高さの不揃いな山々が向かい合って立っており、非常に高い石壁があり、また奇怪な形の峰がそびえ立っていた。そして銅の気が山に満ち、山も石も皆赤かった。その下に小川が流れ、淵は深く水をたたえており、水は極めて清らかであった。さらに新雪の装いと美しい樹木とが加わって、見事な景色が広がっており、目を驚かす素晴らしさであった。わたくしは驚きと喜びで気も狂わんばかりになった。そしてこのたびの目的は銅を探すことにあるが、先に絶景の広がる場所を得られたのは、じつに幸いなことではないかと考えた。わたくしは中国の呉の章山や蜀の銅山の風景がすぐれていると聞いたことがあるが、この幸生もまたしかりであった。おそらくそこに銅気があるからであろう。あぁ、古人が「銅臭」を嫌い、山の精がこれを好むのは、まったく不思議なことではないか。
奥羽の地は早くから寒い。昨日白岩村に着いてから、まもなく新雪に遭った。幸生の風景はもともと美しいものであるが、雪が降るといよいよますます美しさを増す。ちょうど毛嬙 や西施といった美女が、化粧するようなことであろう。わたくしは遠州に六年間いたが、土地は暖かく冬の三ヶ月間は雪が降らなかっ た。いまこの素晴らしい景観を目にしたのは、なんたる楽しさであったろう。そこで乗物から出て杖をついて歩き回った。坂道は峻険で、非常に疲れたので雪をすくって口に含み、勇を鼓して歩き続けた。この日は険しい崖、静かな谷を上り下りして、どこまで行ったかわからないほどであった。柳宗元が「地脈が断たれたかと思うばかりの断崖で、天にはしごをかけて登るかのように思える」とうたったのと同じ情景であろう。やがて橡木山を通り過ぎると、銅山の坑道があった。これが銅山の最初の坑道である。
幸生の銅山の坑道は全部で二十六ある。奥沼沢・元渋沢・大起平・朝日山・本数・金場口・背負方・中切・本数沢・四番・中樋山・大平・梵字・上高口・前樋・ 中高樋・下高樋・新口・大切・仙太郎・橡木・下橡木・牛道・白河原・稲荷山・ 助小家という。そして坑道は皆狭く、やっと人が入れるていどで、深さは各々異なっている。深いものは数百尋もある。地面は高低曲折がある。わたくしは従者十余人と、各々燭をもち、一列になって入った。これがいわゆる橡木坑である。入って数歩進んでから、しずくが落ちて燭は消え始め、数百歩進むと皆消えてしまった。そこで手探りで進み、高くなるとはしごを伝うようによじ登り、折れ曲がった道は這うようにして蛇行した。こうして心身ともに疲れ果て、倒れるかと思うほどであった。身をかがめて細い水の流れのあるところで休み、ようやく元気を取り戻した。このようなことを数回繰り返して、ついに銅源に達した。しかしまだ銅が現れていなかった。石を見ると、斧を入れた跡があり、かすかに銅の匂いがした。わたくしが坑夫に命じて鉄槌で一撃させると、鉱石がいくつか得られた。それでよかろうとわたくしは言って、まず先導者に後ろ向きに出させ、一同がこれに続いた。坑道の形は同じではないが、他の坑道もたいていはこのようであった。それゆえ詳しくは述べない。この日、雪が山いっぱいに積もり、寒さはことに厳しいが、坑道の中は春のように暖かいというのも、ひとつの不思議 であった。
坑道の外には小屋があり、汰銅所と呼ばれている。山民は坑道で鉱石を採り、背負ってきてこの小屋に置く。そして婦人たちが、鉱石を槌で細かく砕く。はじめは土石が混じったまま、竹盆や木盤に入れ、水中に入れてふるう。これを数十回繰り返すと、軽いものは流れ、重いものは残る。こうしてついに純銅を得るのである。
この日は、朝から切り立った峰々や静かな泉、石の間を歩き続けた。一行は 皆疲れ切っていた。しかし素晴らしい風景が現れると䣍、たちまち元気が溢れ、道の遠さが気にならなかった。わたくしはかつて甲州に出向していたとき、その山の新しい道を歩いたことがあったが、その風光はこの幸生の地とそっくりであった。そもそもこの地と甲州の新路とは、同様の山道である。しかし甲州では、左右の山が近接していて道ははなはだ細く、その土地があまりに狭いのが残念であった。この土地は山は近接しており、道も細いが、森林や山谷のすぐれた景色があちこちにあり、それらがちょうど良いところにあって、人々もその土地の狭さが気にならなくなるのである。ただし甲州は江戸からわずか三十余里で、江戸の詩人たちで甲州に遊ぶ者は、多くこの地を大々的に宣伝して、天下に冠たる山であるという。これはけっして正確な論ではない。試みにこの人々に、幸生の風景を見せたら非常に驚くであろう。しかし幸生は都会人が山水を楽しむような場所ではない。そしてわたくしは幸い自らこの地を踏み、その風景に出会った。残念なのは、柳宗元のようなすぐれた文章力を持っておらず、天下の奇景を片田舎に埋没させてしまうことである。古人が、山水にも幸不幸がある、といったのは真実ではあるまいか。
山道が終わると平地となり、すこぶる気分が良い。小屋がいくつも連なり、 ひとつの小村落のようであった。これは銅山の諸役人が居住するところである。またひとつ亭があり、元役所と呼ばれ、かつての代官の官舎である。わたくしは、申の刻すぎであったのでここに宿をとった。前には谷川があり、滝が激しく流れて床下に響いていた。谷川には橋がかかっており、樵夫や田舎の老人が往来する様子は、絵になりそうな趣があった。ふり仰ぐと、四方を山が囲み、その峰は堂々として美しかった。このとき新雪が降り、林は透き通るように白く、山もやの景色が水に映り、霧がたちこめて、詩心に訴えるものがあった。幸生の山や水の景色が、この亭の周囲に集まっているのは、じつに素晴らしいといえよう。古人がここを役所とした風流心が思われる。ちょうど諸役人があいさつにやってきて、公務で忙しくなり、間もなく暗くなったので、従者を呼んで、燭をともさせ 戸を閉じさせた。
夜半、就寝した。急に肌を刺すように寒くなった。綿入れの布団を重ねるさまは冬の末のようであった。とつぜん窓の外にものすごい大雨の音が聞こえたので、驚いて起き、戸を開けてみると、月が美しく照っており、少しも雨の降ったあとはなかった。ひとつの滝が、数百尋もの山の上から流れ落ちてきて、庭すれすれのところに注ぎ込んだのである。そこで寒さを冒して庭を歩き回った。山水、雪や月の素晴らしい景観が、このとき特に清らかに思えた。そのためわたくしは、九月十三日が気持ちの良い時節となるだろうと思った。雪見は宇多上皇の御幸から始まったが、この新雪の素晴らしさがないのが残念である。九月に雪を愛でるのは、奥羽の地といえどもたやすくはできない。わたくしがこれに出会えたのも、造物者の賜物といえよう。
亭の北、数十歩先に、いくつかの小屋があった。銅を鋳造するところであった。鉱石をあぶる竃が六つ、ふいごで風を送る炉が二つあった。銅を鋳造するには、まず鉱石を薪の束の中に入れて、静かにこれを燃やす。十日間経って、これを取り上げ、炉の中に入れて、ふいごで風を送って溶かすと、銅が鋳造されるのである 。
十四日の昼間に、亭を出て以前の道を通り、谷川の流れに沿って行き、数里 して辺栗(原注「地は幸生に属している」)を過ぎた。道の左に冷たい泉があり、石の間から水が湧き出ている。その石は浅黒く、会津の黒鴨石に似ていた。紫色を帯びたものもあり、皆固くしっかりしていて、硯を作ることができる。また奇石であった。そこでいくつかを持ち帰って、米芾 の風字硯にならって図を描き、細工師に命じて、新たに硯をひとつ作らせた。その硯が出来上がると、形は古雅で、風字硯には劣らないであろうと思えた。その珍奇さは風字硯に似ているであろう。しかし恥じるのは、硯は米芾のものと似ているが、書は米芾のようにいかないことである。
わたくしは、銅山の坑道のあちこちを見回ったので、銅はすでに尽きたと言っても、まだ少し残っており、土地の人々が採取に力を尽くさないから出ないのではないか、と考えた。幸生の山民はもともと一定の産業を持っていない。そこで銅を採って生業としている。銅が出ないと飢餓を免れない。そこでつねに山神に祈り、「大直利(読み方未詳、オオアタリか)」というのである。大直利というのは山民の方言で、銅が多く出ることをいう。そこでわたくしは一計を案じ、人心を奮いたたせようと思い立った。まず染師に命じて、大小の布に大直利の三字を書かせた。そして大きいのは赤布に白で書き、小さいのは白布に青で書き(青布に白とすべきか)、赤布で大幟をひとつ作らせ、青布で手巾三百を作らせ、坑夫にそれぞれ青布を頭に巻かせ、赤幟を山中に立てさせ、酒や肉を与え「この酒を飲み、この肉を食い、この青布を巻き、この赤幟を立て、奮い 立ってこの山に力を尽くせば、きっと『大直利』を得るであろう」と人々に告げた。坑夫は感じて泣き、皆懸命に従事した。まる五日で銅二千九百五十斤を得た。皆額の汗を拭きながら大いに喜び、互いにお代官と山神のおかげだと語り合っていた。
わたくしはこの旅で、奇景を得、良日を得、銅を得、民の歓心を得た。皆思いもかけない幸いであった。そして銅を得、民の歓心を得たのはもっとも意外な幸いであった。なぜならば、山水・景物を見ることを得るのは、もともとそれほどのことではない。金銀銅鉄を得ることができれば、国家の宝を得ることになるのである。そして国家の宝とすべきもので、金銀銅鉄より大きなものを得ることができたとなれば、国家で長となる者で、わたくしほど幸福な者がいるであろうか 。
跋文の代わりに、和歌一首を記しておく。
書きとめし心のうちは出羽 なる 幸生の山の月のみぞ知る