「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 初段
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平惟茂凱陣紅葉
〈序詞〉いにしへ今も日の本の、史を記せしつかさとや、紫式部の筆の花、五十四帖に咲き匂ひ、人の教への鑑とも、なりて和らぐ巻々の、若菜の巻をかりそめの、世の諺に及びなき、筆にやつせしその頃は、人皇六十二代村上天皇のしろしめす〈ヲロシ〉代々の御嗣の国富みて、
〈地〉詩歌の道を好ませ給ひ、蹴鞠の御慰み、執政は関白忠平公、君を重んじ奉り、民を憐れみ給ひければ、動かぬ国に支へなく、〈フシ〉げに治まれる御代とかや。
月卿雲客連綿と並みゐ給ひ、庭上には宝殿の御鑰預かり、柏木将監幸久とて、その身は武家に生まれながら、蹴鞠に鍛錬し、鞠に名誉得たればとて、天子を始め奉り、堂上地下に至るまで、師範と崇むる家の規模。また西国の探題、太宰大弐阿曇諸任が弟、判官諸純、奸佞邪智の生まれつき、おのれと我意を立烏帽子、大紋の袖の角菱も〈フシ〉いかめしげにぞ控へゐる。
関白忠平公笏取り直し、「〈詞〉いかに将監。その方が一子左衛門幸保、未だ若輩とてこれまで勤番せざれども、向後改め父子替りがはりに、宝殿守護の役目滞りなく勤むべし。〈地〉ことさら鞠の師範の将監、一つは老人の助けともならん。その旨心得よ」との給へば、はっと頭を地につけて「〈詞〉コハありがたき仰せを蒙り、冥加に余る家の誉れ、老いが身の面目。立ち帰り倅左衛門にも仰せの趣、〈地〉きっと申し渡したく候へば、御暇申し上げん」と、判官に黙礼遂げ、〈フシ〉しづしづ御前を退出す。
後に進んで阿曇判官手をつかへ、「〈詞〉さても当秋、信州戸隠山に悪鬼棲んで、民百姓を取り食らひ悩ます由訴へによって帝都の驚き、急ぎ鬼神退治の宣旨下り、討手として上総介平惟茂、後陣は我が兄諸任打っ立ち、ことごとく鬼神退治仕る趣、早打をもって注進仕れば、もはや今日凱陣あらん。御心安くおはしませ」と訴ふるに、〈地〉主上を始め奉り、堂上堂下もろともに、安堵の思ひをなし給ひ、〈フシ〉御喜びは限りなし。
かゝるところへ滝口の官人罷り出で、「〈詞〉只今戸隠山討手の両将、〈地〉凱陣の参内」と、〈ヲクリ〉知らせに「続いて出で来る、
討手の大将、上総介平惟茂、一際優れし兵具の出立ち。後陣の大将、阿曇諸任、肌に腹巻物の具固め陣羽織、後に控へて立ち出づる。庭上の先に進みし上総介平惟茂、烏帽子引き立て頭を下げ、「〈詞〉忝くも勅命を被り奉り、戸隠山に立ち越え候ところ、武運に叶ひ悪鬼残らず討ち滅ぼし、帰洛の参内仕り候へども、まったく私の手柄ならず、ひとへに平国の御剣の威徳によって討ちおほせる仕合せ、悪鬼の首領と見えし者の首を刎ね、穢れを憚り洛外の大路に晒し置き候。まったこれなる阿曇諸任、後陣の備へかたがたもっての凱陣にてこそ候へ」と、〈地〉勝ちに誇らぬ言上に乗って我慢の諸任、携へし御剣を御階に捧げ置き進み出で、「〈詞〉只今惟茂申さるゝ通り、第一それがし手は下ろさねど、後陣に控へ様々との采配心を配り、駆け引きをもって討ち取らせるこの度の手柄、〈地〉抜群の御褒美御沙汰給はるべし」と恐れげもなく言ひ放せば、関白始め諸卿の面々、自賛の高言興醒めて、答へる人もなかりしが、諸任重ねて、「〈詞〉イヤ手短にこの方から一口の御願ひ。かれこれ御心遣はれんより、武家相応のこの御剣、預かる者は半分の主といふ下世話、すぐさま頂戴仕る。〈地〉天奏願ひ奉る」と、非礼の雑言、ほとんど関白あぐませ給ひ、「〈詞〉ホヽこの度汝ら両人が高名、俸禄の儀は近々御沙汰あるべきなり。まったこれなる御剣の儀は、代々に伝はる天子の御宝、なかなか申すもおろか、叶はざる願ひなり。さに心得よ。ひとまづ両将退出とげ、休息すべし」との給へば、〈地〉諸任しきって御階の下にずっと寄り、「〈詞〉コハ関白公の仰せとも覚えず。然らば御剣はたって是非とも願ふまじ。当今の姉君女三の宮、容儀優れておはする由、かねがね懇望。この鼻が恋君、我が宿の妻女に下し賜るべし。〈地〉よろしく奏達願ひ奉る」と、言はせも果てず「いやとよ諸任。〈詞〉人として礼を知らずんば禽獣に等しと、そのほど知らぬ我儘。もったいなくも天子御はらからの姉姫君女三の宮、武家の妻女なんどに下し賜る例はなし。言ひ聞かするに及ばねど、この度の手柄に免じ、過言一等を許す条、そこ立ち帰れ」とありければ、〈地〉諸任くゎっと気色をかへ、「〈詞〉ムゥよしよし、只今に限るまじ。二色の我が願ひ、御返答あるまでは、まづ平国の御剣、この方に預かり置く。女三の宮をいよいよ我が妻女に賜るものか、一つ二つの御返答、何時でも引きがへにいたさん」と、〈地〉ずっと立って御階の御剣引っ掴み小脇にかい込み、「イザ退出仕らふ。判官来れ」と緩怠面、惟茂を尻目にかけ、庭上蹴立て立ち帰れば、忠平公諸卿と御目を見合して、〈フシ〉黙して詞もなき折節、
さと薫りくる玉簾の、内より洩れてそれぞとは、女三の宮の御裾に、ざれつもつれつ唐猫の、綱にそばゆるその風情、絵に写せしもこれならん。檜扇覆ひ気高くも、忠平に向かはせ給ひ、「〈詞〉こすの隙洩る言の葉を、聞くもうるさく疎ましき、〈地〉諸任とやらんがむくつけなる願ひの品、必ず取り上げ給ひそ」と、〈フシ〉褥につかせ給ひければ、
忠平正笏ましまして、「〈詞〉たとへ御仰せなきとて、悪しくや計らひ申しなん。御心安く思し召し、〈地〉たゞ何事も臣らに御任せ申すべし」と、惟茂に差し向かひ給ひ、「〈詞〉その方が神妙の働き叡感ある。たゞいぶかしきは最前よりの諸任が振舞。上を侮る狼藉の有様、言語には述べがたし。いかゞや思ふ」との給へば、〈地〉御階間近く声を潜め、「〈詞〉かゝる不敵の諸任、謀反の萌し疑ふところなけれども、こと急に御咎めあっては、一味徒党の輩も詮議なりがたく、かへって帝都の御騒ぎ。〈地〉恐れながらこの儀につき、惟茂が胸中に存ずる仔細も候へば、折をもって密かに御館へ伺候を遂げん。〈詞〉申すは恐れ多けれど、それなる猫の毛色も、その時々の天気を受けて生まれ出で、毛色三つに分かつ時は三毛と呼ぶ。また天地人の三才、天は陽なり地は陰なり。その中に出生の人間、〈地〉これもすなはち天気を受けて晴れ曇る。善悪すなはち陰陽たり。〈詞〉眠れる猫も鼠を捕らん謀、彼式に御心痛めさせ給ふな。〈地〉イザ御暇」と惟茂の、智謀は胸に戸隠山、武名は今にもてはやす、〈謡〉紅葉の錦の凱陣と〈ナヲス大三重〉雲井の庭を「出でゝ行く。
京極通り御幸町、歌で指折るものゝふや、富に柳を目印に、こゝ柏木の館ぞと、いきせき北の小門口。帯刀太郎広房は、勘当の身の面伏せ、都は人目せき笠の紐もとくとく窺へば、〈フシ〉内賑はしく聞こえけり。
「ムヽさては将監様のお好きの鞠、かゝりも丁度このずんど。お詰には若旦那左衛門様、誰そ取り次いでくれぬか」と、行きつ戻りつ裏門口、聞き耳立つる戸をぐゎったり、門番と思しきが、「〈詞〉御門先何者ぢゃ。〈地〉道通りなら通った」と、言ふを幸ひ差し寄って、「〈詞〉このお館へ御訴訟の儀について参った者。〈地〉卒爾ながらお取り次ぎ」と皆まで聞かず「何さなにさ。〈詞〉訴訟の者なら表門へなぜ参らぬ。今日は鞠の御会、上客は関白様、阿曇判官諸純様もお入り。外の者は出入り叶はぬ。〈地〉重ねて来やれ」ともぎどふに、言ひ捨てばったり門の戸を、帯刀とほんと「コリャもっとも。こっちの身に卑下をして、こゝから言ふは不調法。表御門へ廻らん」と、引き返す向ふより、薫りが先へ衣被きは、上総介惟茂の妹姫、柏木左衛門に、こがれ落葉と名もゆかし。けふは女三の宮様へ、召さるも嬉しいそいそと、道の案内は権内とて、家に久しき妼の、親なればとて御供に、目を配るうち見合す顔。「〈詞〉これはこれは舅殿」「そちは聟の帯刀太郎。〈地〉何故こゝに」と尋ぬれば、「〈詞〉さればされば、主人柏木将監様へ、勘当の詫びの筋、手がゝりもあらんかと参りしところ、折しもけふは鞠の会、余人は一人も入れぬ由。〈地〉せっかく参ったことなれば、せめて左衛門様なりとも、お目にかゝれば重畳。どふぞ思案はござるまいか」と、語るを聞いて落葉姫、「〈詞〉権内の噂しやった、梅の井の夫、帯刀太郎とはあの人か」「なるほど左様でござります。イヤもふ互に若気の至り、二人ながらこの親を頼みに、在所へきたはもふ三年。〈地〉情ある惟茂様、この権内には祟りもなく、昔に変はらずお出入り申せば、娘のお梅も陰ながら、喜んでをりまする。〈詞〉帯刀が主の将監様は、物堅い館の掟、未だ御免の詞も出ねば、刀をやめて浪人暮らし。貧しい中にも夫婦が楽しみ、冬松といふて、初孫もできました。いつぞは孫めも引き連れて、お詫び申しに行きたいと、ひたもの申してをりまする。〈地〉落葉様良い様に、お取りなし頼み上げます」と、帯刀もろとも手をつけば、「〈詞〉ヲヽそりゃ気遣ひしやんな。ことに近々女三の宮様、阿曇諸任へ御婚礼なさるげな。そのことにつき兄上も御殿へお上り、この落葉もあとから参れとの仰せ。何やかやめでたいことの折なれば、兄惟茂様の機嫌を見てお詫び申そふ。〈地〉帯刀も良い骨柄、元の侍になる様に、将監様は堅くとも、御子息の左衛門様、見かけからやはらかな、物の聞き分けもあるお方。自らもお頼み申さねばならぬ品あって、ありやうはこの裏門へ廻ったもその心。〈詞〉左衛門様に逢ひましたら、次手にお詫び申してみよ」と、〈地〉心に思ふ恋しさを、詞の端々聞き取る権内、「〈詞〉いか様ともかくもよろしくお頼み申します。御所へお出では今しばし。私めはお先へ参り、〈地〉良い程にお迎ひがてら、聟殿頼む」と権内は、〈フシ〉わざとこの場を外しけり。
後に姫君、妼ども、「どふぞ首尾して左衛門様へ、お文が届けて上げたい」と見やる塀越し、始まる鞠、上がるを見つけて落葉姫、心飛び立つうつほ鞠、「ありやありや」の声々も、聞きはまがへぬ左衛門様と、思へば上がる鞠さへも、「可愛らしいぢゃないかいの」「ほんに左様でござります。どふぞこなたへそれてこば、恋人様の人質に、取っていのふぢゃあるまいか」と、思ふも言ふも塀一重、心は幾重の封じ文、〈フシ〉散って落葉の袖の隙、
石拾ふふり取り上げて、案内覚えし帯刀太郎、姫のためには恋しの小石、投げるはづみに鞠掛かり、〈フシ〉音もひっそと静まりけり。
「〈詞〉アヽアヽひょんな礫を打つ。もふ鞠が上がらぬはいのふ。〈地〉こゝへねだりにこまいか」と、気遣ふ姫君「イヱイヱイヱ、〈詞〉ちっとも気遣ひし給ふな。コレ申し、この文を拾ふた故、左衛門様を釣り出すてだて。〈地〉それそれ誰やら扉が鳴る。シィシィ」とめまぜに立ち忍ばせ、太郎一人が待つぞとも、〈フシ〉白洲へ礫は知らせの小石。
思ひ身にある柏木左衛門、鞠装束をそのまゝに、しづしづ出づる小門口。見廻し見廻し、「〈詞〉今の礫はそちなるか。今日の蹴鞠は殿下をもてなす晴の鞠、〈地〉礫を打ったは狼藉なり。仔細申せ」とありければ、「〈詞〉ハッそのお咎めを便りにて御訴訟を申さんため、〈地〉無礼は御免くださるべし」と振り上ぐる顔つくづく見て、「〈詞〉汝は帯刀太郎よな」「コハ若旦那左衛門様。まづは御勇健の体を拝し、恐悦はいかばかり。お館の掟を背く不忠者、先非を悔ゆるこの年月、何とぞ勘気赦免の願ひ、〈地〉憚り多きことながら、親旦那へお取りなし、ひとへに願ひ奉る」と額を土にひれふせば、「〈詞〉ヲヽ悔やみはもっとも。さりながら、総じて武家に仕へる身は、女も男もその家々の掟を守り、奉公するを忠義といふ。〈地〉不忠不義は武士の戒め、切腹にも及ぶところ、ゆるがせにせしは当座の情。常々堅き将監殿、〈詞〉今日は禁庭御番の留守。〈地〉帰れかへれ」と言ひ捨てずっと引き返す、裾に縋って「アヽしばらく。〈詞〉仰せを返すに似たれども、例の気質の親旦那、〈地〉とかく頼みは左衛門様、一応も再応も身の誤りの願ひごと、したゝめて候へば、ぜひお取り次ぎくださるべし」と、差し出すを取り上げて、上書き見れば「様参る、焦がるゝ身より」は覚えある姫の手跡、どふしてこゝへと思へども、問はれもせん方当惑の、胸を鎮めて「ヤイ帯刀、〈詞〉勘当訴訟のその方が、詞に相違のこの一通、いかなることにて手に入りしぞ」「げに御不審は御もっとも。〈地〉まだまだ申し上げんより、お文の主の直訴訟。姫君こゝへ」と呼ぶ声に、〈フシ〉としや遅しと走り寄り、
「帯刀太郎のいやらずば、けふの逢瀬はあるまいに、御勘当のお詫びとや、どふぞ許してしんぜてたべ。そのついでに自らが、積もる思ひも叶へて」と、じっとしめたる手をすぐに、抱きつきたふもあたりの人目、恥じらふ気色見てとって、「〈詞〉イヤ申しお姫様、あなたのお家は大分堅い。お名からして柏木様。この帯刀も不義から起こった御勘当、濡れごとの御訴訟から、〈地〉和らげてくださって、あとで我らが御詫び言、おまへを頼み上げます」と、木陰へはづす帯刀に、粋通さるゝ術なさに、左衛門は汗ひったり、「〈詞〉落葉殿も落葉殿、けふに限って何事ぞ。度々の文ごとに、返事と思へど何やかや、〈地〉こちらに逃れぬこともあり、それでおのづとこの言ひ訳」「〈詞〉ムヽ何とおしゃんする。こちらに逃れぬことあるとは、わたしをのけてまだ他に、いとしぼがりてがござんすか」「ハァテそふぢゃなけれども、こっちにもきっとした二人の親、そっちにはまた兄貴の手前、武士が一旦言ひかはし、今さら何のかはりはせぬ」「〈地〉サァそふおっしゃればそふなれど、わたしが心が解けぬ故」「〈詞〉アヽ聞こえた、まだ枕交はさぬ故心が解けぬと言ふことか。〈地〉もっともはもっともぢゃが、首尾せうにもどふせふにも、〈詞〉阿曇判官、犬島隼人がきてゐれば、見つけられては互の恥。けふのところは辛抱して、ナ合点か。〈地〉そこをじっとこらへるが、恋のせつない肝心かんもん」「アヽ無粋な、とは言ふものの道理ぢゃもの」と引き寄せて、抱きしめ合ふばかりにて、〈中フシ〉心と心やるせなし。
折も戸口に耳寄せて、始終を見る目嗅ぐ鼻の、犬島隼人がぬっと出る。はっと驚き逃げ退くを、「〈詞〉これさこれさ大事ない。良いことには寸善尺魔、見ぬふりせうと思ふほど、刀の柄が三本まで。ハヽヽヽヽ、恋路は相身互のこと。今聞けば新枕が済まぬとな。ハテ延引、知っての通りこの隼人は、大内御門の太鼓の番。何が堂上方、局たち、なんぼの出合ひも呑み込んで、うまいことの取り持ちした。〈地〉どふぞ二人も今夜のうち、〈詞〉ヲヽ幸ひさいはひ。今晩はかの女三の宮、諸任殿へ嫁入りの下ごしらへ。そのどさくさが良いはづみ。遠慮なしの新枕、うまい法会の豊年草。〈地〉八の字があるからは、いつも七つに開ける門、今夜は八つの刻限に、七つの太鼓を打てといふ。〈詞ノリ〉天の知らせ、その刻限を違へぬ様に、何と嬉しいかうれしいか」と、〈地〉背中叩いてほのめかせば、二人も渡りに稲舟の、いなにはあらぬ恋の淵。「〈詞〉そんなら頼む隼人殿。この左衛門も暮れ六つより、父に代はって御蔵の御番。七つの太鼓を数へて待つ。落葉殿も合点か。さりながらこの二人がこのことを、必ず外へ洩れぬやう」「それをぬかって良いものか。侍冥利この刀、但し金打して見しょか」「〈地〉何のそれに及ばぬこと。忝い」と拝むやら、〈フシ〉そゞろ心ぞ若気なる。
「いよいよ晩に待つぞや」と、約束固め門の内、隼人が入れば出る帯刀、「時刻よろしう候」と、姫の迎ひに権内が、出合ひ頭に柏木左衛門、そらさぬふりして勘当の、「詫びは重ねて、重ねて」の詞に帯刀喜びて、立ち別るれば左衛門が、尻目使ひにうなづく落葉、今宵の逢瀬嬉しげに、妼呼び連れ伴ひて〈フシ〉女三の御所へ別れ行く。
引き違へて阿曇判官諸純、隼人を先へ「〈詞〉シテシテ後は何となんと」「まんまと二人が恋慕れゝつ、取り持つ顔でふはと乗せ、八つを七つに打つ工面。太鼓を合図にかの宝殿」「ヲヽ出来たできた。この判官が忍び込み、太政官の御判を盗み、諸国の軍勢催促せば、兄諸任の願ひのまゝ、〈地〉一天下は両の手に。それよそれよ、〈詞〉時の太鼓を打ち違へ、宝蔵の盗人も、不義も一つに左衛門に、ぬすればこっちに障りなし。〈地〉うまいうまい」と目と目を見合せ、「〈詞〉判官ござれ」「犬島来れ」と〈地〉いっさんに、〈三重〉大内さして「行く空の、
十二単も振袖も、同じ娘と言ひながら、月日の種の恋盛り、女三の宮、阿曇諸任に御縁辺定まり、明日より武家の嫁御寮、お側女中も弓取りを〈フシ〉殿にすべしの下稽古。
上総介惟茂の妻、世継御前を師匠にて、俄かにしなへ、居合抜き、中にも落葉は一の弟子、真向けさから夜までも、秘術を尽くす柳腰、負けじと争ふ桜色、めったに強い顔つきで、〈フシ〉睨み合ふのがかはいらし。
「〈詞〉なふなふ、落葉様には叶はぬ。サァこれからさっきの小太刀の受け流し、先生様見てくださんせ」「ヲヽそふぢゃそふぢゃ。まづ身構へ良し、互に目色に気をつけて」「アイアイ合点、滝津殿いざ参らふでござんする」「アイお八千殿、尋常に勝負なさんせ」と、〈地〉仕合詞も稽古の一つ。「ヤァ」とかけたる鶯声、裾の空焚き梅が香や、太刀風追風ひらひらひら、開けば付け込む〈ウコハリ〉目の配り、左もぢり右もぢり、〈フシ〉顔に火花を散らし合ふ。
二人の稽古を待ち兼ねて、ぬっと突き出す五月が長刀、裾にひらりと「アヽめっそふな。大事のところを、すでのことこけふとした」と、あとは笑ひに紅葉する、〈フシ〉御所こそ色の盛りなれ。
御簾をすかせしおはな紙、女三の宮は御慈愛の、猫の綱手の色深き、袴蹴散らし出で給ひ、「〈詞〉つゐに見慣れぬ戦とやらの学びごと、ついまつ・へんつぎとはこと変はり、珍しい遊び。定めて世継の思ひつき、〈地〉自らもよそながら良い慰み」とありければ、「〈詞〉これはこれはおはもじや。これも夫惟茂が指図。明日より諸任の妻となり給へば、歌の香のと今までの優しいことは取り置いて、武家の行儀をお見習ひなさるゝため、あられもないをなごの生兵法、下々の娘には上つ方のお身持ちを見習はそふと、お末の勤めも願ふてさするに、〈地〉先帝の姫宮様にふつゝかな武家の作法、お教へ申すも世の有様、さぞ口惜しふ思さふ」と涙もろきは女の常。女房たちも投げ首し、「ほんにまた果報拙き姫宮様。上様の御威勢なら、〈詞〉日本国の男を集めて、その中でいっち良いのを選り取りになされても、点の打ち手はありそむないこと。〈地〉天が下はしろしめしても、しろしめさぬは男の肌。あるが中にも阿曇諸任、節会の晩に見ておいた。〈詞〉それは意地の悪そふな、むく犬の様な顔。そのくせ悋気深いげな。この三毛も今までの様にお姫様に抱かれて寝たら、確かに色ぢゃと言ふであろ。手水もさいさい使やんな。名を立てられてたもんな」と〈地〉言ひ聞かしてもきょろりくゎん、〈フシ〉けがなにゃんとも言はざりし。
対の屋の妻戸を開け、上総介惟茂、置き花生けに赤白の菊二本入ったるを御前に直し置き、「〈詞〉密々に啓すべき仔細あり。女房たちは次の間へ、とくとく」と座を立たせ、「これは関白忠平公より、明日の御祝言を寿かれし送りもの、御上覧候べし。さて姫宮への礼儀はこれまで、明日よりは惟茂が妹となし、諸任が宿の妻、御装束も改めさせ申すべし。〈地〉いざこなたへ」と申すにぞ、「それよそれよ、自らは妹、そもじは今より兄様ぞや」と、早御詞も改まり、けふ天さがる月の影、雲の表着を脱ぎ取りて、「恐れながら平人に下りさせ給ふ印に」と、落葉が脱ぎ置く襠を、仮の袿と奉れば、「コハもったいな」と押し止むる、妹が手を取って、はるか上座に押し直し、「〈詞〉今日より女三の宮」と、〈地〉烏帽子を畳に擦り付くる。「兄上何を遊ばすぞ。〈詞〉わたしを俄かに女三の宮の、すっきりと合点が行かぬ。〈地〉マァ気をしっかりと遊ばせ」と興さめ顔。「〈詞〉ヲヽおことを女三の宮とは、しっかりと分別をすへて、兄が頼む一大事。おこともまた胸をすへて承れ。そもそも諸任、戸隠山鬼神退治の大将を承って打っ立つ時、平国の御剣を借り受けしは、一応のことならず。きゃつ兼ねてより反逆の企て、この度の恩賞に御剣を賜らずんば、女三の宮を宿の妻に申し受けんと願ひしは、疑ひもなく一天の君の聟となり、手も濡らさず天下を呑まんとの謀。〈地〉たとへさはなきとて、朱雀天皇の御姫宮、男みこおはしまさずば、六十二代の帝位にも備はり給ふべき御身をば、いやしき武士の妻なんどゝは、戯れに申すももったいなし。〈詞〉とあって宮を渡さねば御剣を返さず、ことに関西三十三ヶ国を従へたる諸任、否と言はゞ天下の乱れ、民の煩ひ。こゝを謀って惟茂が妹となして遣はさんと請け合ひしは、〈地〉おことを女三の宮に仕立て、嫁入りの祝儀事故なく相済め、御剣を取り返せし上は、何事も心のまゝ。〈詞〉おことも惟茂が妹、諸任に枕を交はし、肌と肌は合はすとも、心の肌を必ず合はすな。気を許させて折良くば討って捨てよ。然れば天下太平の大功この上やあるべき。〈地〉この頃早業剣術を教へしもその心、嫁入りとばし思ふな。朝敵追討の大将軍、関白より賜ったる、〈詞〉これこの菊のはなむけ。置きまどはせると詠みたる、かの躬恒が歌の心、色変ったる二本は、二人の宮を拵へて、敵の眼をまどはせよと、忠平公の御賢慮。惟茂が胸中、割符を合せたるごとし。〈地〉いよいよ女三の宮なるぞ、違背はあらじ妹」と、〈フシ〉ことを分けたる物語。
もっともなほど増す辛さ、言ひかはしたる人ありとは、明けて言はれぬ柏木の、森の下露木隠れし、思ひは同じ女三の宮、互に詞あらざれば、「落葉様聞いてかへ。〈詞〉仮初ならぬ大事の役、とっくりと合点さしゃんしたか」「サァ合点は合点ぢゃが、嫁入りして祝言して、一とところに寝るのかへ」「ハテ祝言するからは、一つに寝いで済むものか。それほどに心許さするがてだての第一、新枕の駆け引きは、わたしが御伝授申しませう。たゞの嫁入りも大事のもの、取り分けこれは姫宮様に随分似せるが肝心」「げにそれよ。明日の輿入れ、女房は御帳台にて、五つ衣緋の袴、御装束整へよ。〈地〉我も御車駕輿丁の用意言ひつけん」と、〈フシ〉夫婦は立って入りにけり。
聞けば聞くほどうっとりと、力落葉の露涙、側にもかゝる義理の闇、「そんならそもじは自らになっていてたもるかや」「〈詞〉アイ参らねばなりませぬ」「ハァ忝い、惟茂といひそなた衆、自らを武家の手へ渡すまいと、様々心を尽くしてたもる、志は嬉しいが、結句それがわしゃ悲しい。やっぱり自らは武家の妻になりたいはいの」「ヱイ何とおっしゃる。そんならおまへは、諸任に添ひたいと思し召すか」「イヤ諸任に何の添ひたかろ。恥しながら自らが添ひたいといふ恋男は、〈地〉柏木左衛門ぢゃはいの」「〈詞〉ヱヽあの柏木に。ア良い加減なことおっしゃれ。あの様なようもない男、どこを見込みに。イヤイヤそりゃおいつはり」「何の空言言ふものぞ。幼いから歌には詠めど、真実恋といふものを知ったはあの柏木から。衣装の色は許されても、誠の色はまゝならず。文やっても返事もない、つれないほどなほ増す思ひ。〈地〉これほどに思ふもの、武家へやることならぬとの、その詞が気がゝりな。左衛門にさへ添ふことなら、武家はおろか屏風の絵にある、賤がふせやの住居でも、自らは本望ぞ」と、〈フシ〉思ひつめたる御詞。
聞くよりくゎっとせきのぼし、「〈詞〉アヽお嗜みあそばせ。誰あらふぞ一天の姫宮様、男に惚れるといふことがあるものかいな」「アヽこれ、姫宮々々言ふてたもんな。わしゃ姫宮に飽き果てた。マァそして、そのあとを聞いてたも」「いやでござります。わたしは柏木が大嫌ひ。言ひたくばそこで一人おっしゃれ。ヱヽあほうらしい姫宮様」と、〈地〉塵灰つかぬ繧繝の〈フシ〉畳蹴立てゝ入りければ、
「〈詞〉ハテ心得ぬ、柏木のこと言ひ出すと俄かにきつい腹立ちは、もしかの人に恋あるか」〈地〉それかあらぬか庭の面、忍ぶ足音追風も、気を通せかし柏木が、「落葉やゐる」と尋ぬる声。それと見るより姫宮は、飛び立つ夏の虫ならで、灯火ふっと消し給へば、「そこにゐるは落葉でないか」といふにさてはとうなづく姫百合、「こゝへこゝへ」と招かれて、人顔見えぬ星月夜、互にじっと抱きしめ、兼ねてしたゝめ持ち給ふ、文懐に押し入れて、立って行くを引きとゞめ、「〈詞〉文とは口で言はれぬことか。御蔵の御番つとめてゐても、心ならねばちょっと逢ふに、首尾はどふぞ」と〈地〉尋ぬる耳に口差し寄せ、「〈詞〉コレ言ひ聞かすことがある。女三様がおまへにたんと焦がれてござんすが、〈地〉おまへはいやか」とせな叩けば、「〈詞〉けもないこと。そなたといふ大事の人をのけて何のそんなこと。たとへそふないとてもったいない、神様も同然の姫宮、あの仰山な装束で、微塵も色気があるものか。〈地〉疑ふてたもんな」と、たんなふさする間違ひに、〈フシ〉愛想つかして入り給ふ。
唐衣装束改めて、心に染まぬ緋の袴、脂燭持つ手も落葉の前、柏木と見るよりも、そのまゝ膝に抱きつき、わっとばかりに伏し沈む。「〈詞〉申し申し女三の宮様、人が見ます、まづお放し。お恨みは御もっとも、さらさらおまへがいやでなけれど、あっと言はれぬその訳は」と〈地〉言ふ胸ぐらをしっかと取り、「〈詞〉何ぢゃ、いやでないとは、女三様と夫婦になる心ぢゃの」「ヤァ落葉か、こりゃどふぢゃ。そんなら今のこの文は、ヤァ女三様」「ソレソレそんな文持って、訳があるとは何のこと。〈地〉サァ聞かふ」と腹立ち声。「〈詞〉こっちの訳より合点の行かぬこのなりは、まづ何の真似」「何の真似どころかい、わしゃ悲しうてならぬはいな。女三様は諸任へやられず、代はりにわたしを宮様に仕立てゝやると、兄さんのどふよく、とは言ひながら〈地〉おまへと訳のあることは、知らしゃんせねば無理とも言はれず。おまへと別れて諸任と、肌触れて寝ること、いやぢゃいやぢゃ、わしゃいやぢゃ。サァサァ急に思案してくださんせ。〈詞〉それさへあるに、女三様がおまへに惚れたのいとしいのと、腹の立つことばっかり。〈地〉ほんにおまへも悪性な、良い思案はないかいな」と、談合悋気取り混ぜて、十二単もしどけなく〈ノル中フシ〉はらはら涙かこち泣き。
「〈詞〉ヲヽ様子を聞いて驚き入る。嫁入とても明日、こと急なり何とせん」「何とゝいふて外はない、連れて退いてくださんせ。ハテ、この装束を着るからは、もふわたしは女三の宮。姫宮は落ちていたに極まって、嫁入は済みそなもの。〈地〉よし諸任が詮議強くば、その時はおまへもわたしも覚悟の前。サァサァちゃっと」と気をいらつ。「〈詞〉ムヽなるほど、連れて退くはやすけれども、おことを女三の宮に仕立てる惟茂の心底、深き思案あってのことと思はるれば、粗忽には落ちられまい。〈地〉いかゞはせん」と当惑顔。「〈詞〉ムヽ聞こえた。わたしを諸任へやっておいて、女三様と夫婦にならふといふことか。ヱヽつれなやどふよくや、もふ思ひ切った、これまで」と、〈地〉差添喉に突き詰めた、「これは短気な、マァ待った」「イヤイヤ待たぬ、死ぬる死ぬる」と血の涙。「サァサァサァいかにも連れて退く。まぁまぁまぁ待ちや」とやうやうに引ったくり、「〈詞〉この上は力なし。そなたを殺せば惟茂の存念も水の泡」「そんなら落ちてくださんすか。ヱヽ忝い。幸ひ権内も侍部屋に詰めてゐる。あれに頼んで身を隠さふ」「イヤイヤ彼に言はゞ、とゞむるは治定、ことの破れ。約束の通り隼人が七つの太鼓を合図、〈地〉外門の開き次第、坊門通りを落ち行かん。こふ心がすはったれば、見咎めらるゝ気遣ひなし。足音しやんな、静かにしづかに。これはしたり、何おどおど、気をしっかりとすへてゐや」「〈詞〉サァわたしが気は確かなれど、この足が震ふふるふ。アレ誰やら首筋へ、アヽかうろぎでござんした」と、〈地〉女心の夜半の露、〈ヲクリ〉葉隠れ「忍び入りにけり。
太宰大弐諸任は、明日の嫁入を待ち兼ねて、鼻いからして入り来る、あとからうろうろつけ廻る、諸任が手飼ひの犬島隼人。「〈詞〉何となんと首尾はどふぢゃ」「お気遣ひなさるゝな。判官様ととっくりと、示し合した上分別、追っつけお手に入りまする」「でかしたでかした。我はまた女三の宮、未だ顔を見知らねば、今宵密かに窺ひ見て、もし渡さねば理不尽に引っ立てゝ帰る合点。何もかも手番ひ良し、〈地〉必ずかならずし損ずな」「なるほどぬかりは仕らぬ」と、畜生仲間の犬島が〈フシ〉四足門へ急ぎ行く。
「うましうまし。姫宮の寝殿はこゝなんめり」と、差し覗き差し覗き、御簾の隙洩る唐猫を、こいこい恋の仲立ちと、顔に似合はぬ猫撫で声。「〈詞〉とてものことに猫好きの姫宮を抱かふか」と、〈地〉御簾引き上ぐれば平惟茂、綱かい取って静々と立ち出で、「〈詞〉珍しき御来駕。何事やらん」とありければ、「イヤ何、ものでござる。さてさて面目もない、この年月見ぬ恋に焦がれし女三の宮、明日輿入れとは存ずれども、ちっとも早く顔が見たさ。今晩滝口に相詰めし故、密かに推参致したは、無礼とは存ずれども、そこが恋は切ないもの、正真の妻恋ふ唐猫。三毛よわれと同じこと、〈地〉とかく大目に見てたべ」と、〈フシ〉面を赤めて迷惑顔。
「これはこれは、御挨拶却って痛み入る。〈詞〉しかし色は分別の外と申すが、貴公の色ばかりは分別の内。かの昔よりの絵にも書く、牡丹の下に眠る猫。人目には優しく見ゆれども、猫の心は花に飛び交ふ蝶を捕らんと空眠り、斑の猫と書いて斑猫と読む。然ればきゃつも油断のならぬ爪の長い唐猫、一物がなふては叶はぬ。げに恋は曲者。ナ曲者、天下といふ恋人は、一応では手に入りにくい」と、〈地〉星をさゝれてぎょっとせしが、「ハヽヽヽヽ。〈詞〉何の諸任づれ、とても及ばぬ恋なれば、とっく思ひ切ってゐ申す」「サレバそこのこと。その及ばぬ恋なりとも、惟茂などが媒致さば、従へまいものでもない」「ムヽ、さては御辺が媒する気か」「いかにも、御手に入る頼みの印、〈地〉これ御覧ぜ」と花生けの、菊の一本おっ取って、「〈詞〉この菊は天が下、天下は早手に握ったり。赤きは平家、惟茂が花の血判」〈地〉胸中知らす白菊を同じくおっ取り「〈詞〉それは一重、これは八重。二つを合せて九重を、まっこのごとく」と落花微塵。「ムヽさては御辺も我が心も」「あなかしこ猫にも知らさぬ一大事」「シィ」〈地〉示し合ひたる折こそあれ、〈コハリ〉寅の刻の開門の太鼓〈フシ〉どうどうどうと聞こゆれば、
諸任指折って「あら心得ず。〈詞〉空の気色はまだ丑三つ、七つの太鼓は一と時早し」「〈地〉げにもげにも、禁中の時を違へしは只事ならず。誰かある、松明疾く」と呼ばゝる間もなく、松明振り立て仕丁ども、「〈詞〉申し申し一大事。太政官の御蔵の錠、何者か捻ぢ切って、御判の御箱紛失致し候」と、〈地〉黄色になって訴ふれば、陽明門の方より朱になったる隼人が死骸、戸板にかき乗せ、「〈詞〉只今柏木左衛門殿、女三の宮の御手を引き、御門を通られ候ところ、犬島隼人生け捕らんと支へしが、思ひの外、かくのごとく斬り殺し、〈地〉落ち行かれ候」と、申すもあへずせき立つ諸任、「〈詞〉さてこそさてこそ、御判の盗人は左衛門め。隼人を頼んで太鼓の時を打ち違へさせ、己が悪事を洩らさじと、殺したるに疑ひなし。ことに女三を連れ行きしとは、密通に極まったり。〈地〉重々の科人、追っかけて搦め捕れ」とひしめく声々。遠侍宵より詰めし権内も、一腰ぼっこみ飛んで出で「〈詞〉何番人を殺したは、柏木左衛門様か。〈地〉南無三宝」と駆け出すを、惟茂声かけ「コリャ待てまて。〈詞〉汝は元我が家来、左衛門と聞いて駆け出すが、その方ゆかりはあるまいがな。かけも構はぬところへ出て、不審受けるか、うろたへ者」と叱りつけ、「イヤ諸任殿、左衛門はもはや追手をかけいでも苦しうない」「なぜなぜ、大切の御判を奪ひし科人」「イヤイヤその御判は、かやうのこともあらんかと、先立って関白殿預かり置かれ、恙なく御座あれば、今宵の騒動静まらば、〈地〉再び御蔵に納まるべし」と、聞いてびっくり、具合違ひし〈フシ〉仏頂面。
弟判官のさばり出で、「〈詞〉ヱヽ素早い関白殿で、御判は恙なけれども、女三の宮と不義の科人。両人とも探し出して縛り首」「ムヽ柏木左衛門と女三の宮と、不義といふ証拠ありや」「ヲヽその証拠は死骸の側に落ちてあった、コレこの文、『柏木様参る、女三の宮』。確かな手跡、逃れぬのがれぬ。ソレ家来ども、〈地〉ほどは行くまじ、ぼっかけよ」と下知する声、洩れて悲しき女三の宮、駆け出で給ふを押さゆる世継、「コレコレおまへの命に虚事あると、夫の心が無になるが、おどうよくな」とばかりにて、とゞむる中も惟茂の〈中フシ〉心を思ひやるせなき。
「〈詞〉判官せくな。左衛門めは天下の科人、引っつかまへて逆磔。女三の宮は不義の科人、惟茂詮議して首討って渡されよ」「ヲヽ憤りはもっともなれども、十善万乗の御姫宮、よし誠の密通にもせよ、御首を賜らんは天下の聞こえ」「イヤサ悪い合点。女三は姫宮でない。一旦惟茂が妹にして、諸任が女房に貰ふた上は、位もへちまもない女郎。御辺が妹の首斬って出せといふが誤りか」「ヲヽそふぢゃそふぢゃ。不義した女房生けておいて、兄諸任が武士が立たふか。捜し出し首討って出し召され」と、〈地〉放逸無慚も差し当たる、当座の理屈に惟茂も、〈スヱ〉返答胸を痛める風情。
始終とっくと聞いたる権内、思案を極めずんど立ち、伏したる猫を抱き上げ、「〈詞〉恐れながこの御詮議は、我らに御諚くだされば、請け合ふてしおふする、印はこの猫〈地〉拝領仰せつけらるべし」と伺へば、「〈詞〉ムヽ、この惟茂になりかはり、詮議したしと願ふには分別あらん。シテその猫をしおふする、〈地〉印と言ふ仔細はいかに」「〈詞〉ハァ諸任公へ定まりし身をもって、柏木左衛門殿と不義なされた、女三の宮はもったいながら、申さば猫同然の御身持ち。この猫をおとりにして、妻恋ふ声を聞くならば、〈地〉呼ばずして焦がれ寄る、姫宮の雌猫、行方知るゝは案のうち。〈詞〉もとより猫は時々に目のうち変はる。これぞ心定まらぬ証拠。女の身として二張の弓を引き給ふ天罰、猫の目の弓張になる時刻を合図に、御首討って差し上げませう。細工は流々、仕上げは親父がこの胸に。ハテ恩を知らねば犬猫、猫の目も変はる時節に変はらねば、鼠にも劣る忠義の魂、追っつけ御目にかくべし」と、〈地〉猫に隠せし詰め開き、〈フシ〉誠に侍一匹なり。
「〈詞〉ムヽ天晴れ聞きどころある一言。いかにも汝に申しつけん。ガつくづく思へば女三の宮の落ちはも大方外へは行かじ。とても枯れたる〈地〉冬の落葉、再び青葉の春はあらじ。〈詞〉必ず必ずいたはらずとも、宮のお首を落葉、ナ心得たるか。その心底を見る上は、今一匹残ったる、あの御簾の内の唐猫も、毛色を人に見られぬうち、そちに預ける、合点か」と、〈地〉二筋三筋を一筋に頼み置くとは知らざる諸任、「〈詞〉大切の太刀取り、親父め見事しおふするか。惟からは左衛門めが詮議一段、御宝は盗まいでも、親将監めは宝蔵の鍵預かり、錠捻ぢ切ったはきゃつに極まる。大方親子相談づく。第一太鼓の番人を殺し、禁中の時を違へし大罪、大内は天下の鑑、大内の時が違へば、天下の四時も皆暗闇。さるによって、代々の御位譲りに、漏刻の箱を渡さるゝもそれ故。〈地〉大切の太鼓、諸任が預かって、将監めを拷問せん。判官向かって引っ立て来たれ」「ヲヽ合点」と駆け出だす。「しばらくしばらく。〈詞〉宝蔵の鍵を預かる将監、御宝を取らんずならば、錠捻ぢ切るには及ぶまじ。その太鼓は惟茂預かり、とくと詮議仕らん。〈地〉よしそれはともあれ、これほどの一大事、天聴に達せずんばあるべからず。〈詞〉いざ給へ諸任殿」と、〈地〉事を納むる武将の詞、先に進んで出で給へば、諸任兄弟いかつ顔、肩で風切る長廊下、〈フシ〉踏み散らしてぞ立ち帰る。
跡には大息世継御前、「さてもひやいや、コレ権内、〈詞〉夫の詞を聞く上は、片時もこゝには置きまされぬ」「合点々々。拙者が在所大和の小泉、すぐに御供」「出来たできた。最前の詞の端、心かゝりは落葉様。お命恙ない様に」「アヽおっしゃるに及ばぬこと。人の見ぬうち姫宮様、裏の垣からこっそりと」〈地〉一人呑み込み行く間もなく、
判官が手の者茨丹平、大勢引き具し「〈詞〉まだ詮議は残ってある。気ふさいなこの寝殿、〈地〉皆込み入れ」と下知すれば、世継すかさず立ちふさがり、「〈詞〉コレコレ、姫宮の御局は殿上も同じこと。足踏ん込めば切り折らん」と〈フシ〉長刀おっ取り待ちかけたり。
「〈詞〉ヤァ駆け落ち者の明屋敷、家探しするは天下の大法。そこ退け」と立ちかゝる、〈地〉向ふへばらばら女房たち、めいめい一腰かいがいしく、皆剣術の門弟衆、「〈詞ノリ〉師匠に引けは取らされぬ。滝津様、五月様、サァお出でへ」と会釈して、〈地〉真っ向かざしの花かひらぎ、蝶の群れ入るごとくにて、あしらひ兼ねて家来ども、逃げ足しどろに「卑怯者、〈フシ〉返しや戻しや」と追ふて行く。
権内は女三の宮、御手を引いて落ち行く先、人目に恋と白髪の親父、「それ逃すな」と支ゆる家来、主人の大事聞くより早く、せきにせきくる帯刀太郎、片端張り退け投げ散らし、「〈詞〉宮にお怪我は舅殿」「聟殿様子は」「ヲヽ聞いた聞いた。こゝ構はずと裏門口、早ふはやふ」と見送って、「主人を持たぬ身のきさんじ、にっくい阿曇が手下ども、〈地〉一人も残らず打ち殺さん」と、御簾の真紅を玉襷、尻ひっからげ立ったるところに、〈詞〉丹平急に取って返し、「しゃつ科人のきっぱしめ。ソレ逃すな」とおっ取り巻く。「〈地〉心得たり」と渡殿の、勾欄ゑいと引っ外し、群がる中へ割って入り、こゝに顕れかしこに潜む、主人に勝る利き足早足、閃く刃を受け流す、鞠より軽き軽捷早業、飛鳥のごとく飛び違ふ。虫に等しき木の葉武者、両えだ残らず踏み折られ、主人と頼む茨垣、屈むところもあらばこそ、当たるを幸ひ〈フシ〉薙ぎ立てられ、
命抱へて逃げ行く丹平、頭ぐっさり御簾の鉤、唐紅の秋の宮、御壺の草花踏み散らす、落花狼藉大内の、恐れもよしやこれぎりこれぎり、桐壺箒木柏木の、主人の行方知れざれば、気は空蝉の音を隠し、広言夕顔おめぬ顔、若紫の藤壺や、梅壺梨壺踊り越え、やがて出世の日の御門、尊み拝し立ち出づる。
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