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常識を超えた奇跡ちゃん



今日は 

もうすぐ16歳を迎える長女の妊娠中

共に命の危険を乗り越えてきたことについて書いてみようと思います。



私には二人の息子と二人の娘がいます。

長女を妊娠した時、女の子と分かったときは

まわりも私も本当に大喜びでした。


産まれるまで、ほんとに女の子かな?と
半ば半信半疑でした。性別はどちらでも良いから無事に産まれてきてほしい。
無事に出産を迎えたい。と それだけを切に願っていました。



その気持ちは、二回も「命の危険」があり

二人で一緒に、乗り越えてきたから

ただただ 無事に産まれてきてほしい。と願う気持ちは、

人一倍も何万倍も大きかったのです。




▶️一度目の試練、妊娠4か月の時 急性髄膜炎

妊娠4か月、子育てとパートに疲れていた頃
風邪のような症状が悪化。
立てないほどの首と全身の痛み、高熱が続き緊急入院。二人の小さな息子たちと会えなくなり、集中治療となりました。


赤ちゃんの様子を確認するため
心音を聴く機械で

私に宿る、小さな命の鼓動はドクドク

どくどく。動いていました。


娘の心拍の音は


生きてるよ ママ。

大丈夫だよママ。

安心してね ママ。


そんな風に 聴こえていました。



全身を襲う痛みと意識が遠のいていきそうな高熱の状態。何をどう会話したのか、ハッキリ覚えていないのですが、わたしは医師と看護士さんに、薬も検査も拒否する気持ちを伝えていました。


それは、髄液を調べる検査を看護学生の時に観ていたので、どんなもので、どんな薬を使ってするのか当時の記憶で思い出されたので、麻酔薬を使うリスクや痛み、赤ちゃんの命に少しでも影響を及ぼす可能性がゼロではないことを考えて、検査を拒否したのです。


頭全体から首の強烈な全身を襲う痛みと高熱を抑える為、医師からお薬を使いましょう。と何度も説得されましたが、赤ちゃんに障害が残るかもしれない、副作用が出る可能性が1%でもあるなら、私は使いません。と 完全拒否をしました。


確固たる母の想いでした。

とにかく全身に味わったことのない痛みと高熱。意識はもうろうとしていました。

それでも、私は娘の命に少しでも マイナスとなることを回避するために、体内に薬を入れない選択をすることが、私にとって その時 出来ることの精一杯でした。


母として 絶対この子を守る。
ベッドにうずくるまるように激痛と意識もうろうとする中、そんな想いで耐えていました。


そうして
時間は経過していきました。


娘も私も、最強の運の持ち主だと思います。
しばらくすると、少しずつ痛みが和らいでいき、
峠を超えて 症状は落ち着いていきました。


髄膜炎には細菌性と無菌性があるのですが 細菌性であれば、脳に細菌がまわりさらに重篤な状態となり、 回復しても 障害が残る可能性もあるといわています。

これ以上、重篤にならずに回復したのは
本当に神様が助けてくれたと思っています。


そしてしばらく入院してから
母子共に、危機を乗り越え無事に退院を迎えました。この子のためにも、仕事をやめて、育児に専念してゆっくり過ごそうと決めたのもこの時でした。


こうして、娘と奇跡の命を体験していくこととなります。



▶️二度目の試練 、妊娠7か月半の時 切迫早産。

家族四人で夕飯を囲んでいるとき、

突然 お腹に激痛。そして大量出血。


今でも覚えています。

あの時の夕飯は、カレイのバター焼き

久しぶりに、夜勤続きだった元旦那さんもいて

家族で囲む久しぶりの団らんの時でした。



かかりつけだった産科に電話をすると

「入院準備をして急いで病院へ来てください。」と


私は何がなんだか、状況をつかめないまま

いつでも、何があっても良いように

入院準備をしていたので、荷物を持ってもらい病院へ。



病院で検査をしました。

そのあと 先生に呼ばれてお話がありました。




先生から、


「今回はとても残念ですが、、、


赤ちゃんは  もうきびしい状況です。
あきらめてください。

明日 手術をするのでこのまま入院されて下さい。」





、、、、

、、、、、





しばらく

先生の言葉が

入ってきませんでした。



そして

ようやく言葉の意味が  おりてきた時、

私は涙で目の前が、ぐちゃぐちゃでした。




目の前の景色が

しばらく 

ずっと大雨 のしずく


目が腫れるほどに

夜通し泣き崩れていました。


カレイのバター焼きのいい香りの

幸せで、温かい時間が


一気に

嵐の冷たい大粒の雨の中

真っ暗な外に、突然 放り出されたような気持ちでした。



なんで

こうなったの

なんで、なんで。なんで、、、


状況をのみこめないまま

夜通し、自分を責めていました。



そして

翌朝 手術をする前に

検査をすると



娘の心拍数がかすかに

聴こえる。


どくん

どくん、、どくん、、、



え、



動いてる


生きてる


まだ生きてる!!!!!!!




どくん

どくん、どくん。って


小さいけど

動いてる。



ママ 生きたいよ。

ママ まだ生きたいよ。

ママ 助けて。

ママ 。


って 私には聴こえました。



あれほど出血し、子宮口まで下がっていたのに

娘はまだ生きたい!って




がんばって、生きようとしている。





先生は

心拍数が聴こえていることに

とても驚いていて、


とりあえず このまま手術はせず

少し様子をみてみましょう。

絶対安静にして

ベッドから動かないで下さい。と





生きてる!!

娘はまだ生きてる!!

生きようとがんばってる!!




ママも動かないことを

がんばるから

がんばって!!


まだ死なないで。

ママにお顔をみせて

お願いだから。お願いだから

無事でママのお腹にいて。おねがい。




そんな想いで

1日 、1日、そして今日も無事でいてくれてることを、毎日心音を確認する度に、ホッとしてお腹を撫でていました。



今日も心拍数が聴こえてる。

今日も生きてくれてる。



そんな娘の鼓動を

毎日毎日、確認して

今日も生きてくれてて

ありがとう。

ありがとう。





娘の無事を毎瞬 毎日確認して

時を指折り数えながら

絶対安静の中、一ヶ月ほど過ぎていきました。




あの日、先生から
「もうあきらめてください。」と

言われた命は、 一ヶ月無事に生きてくれました。

産まれたい! と強く願って

あきらめずに

ママの中に居てくれていました。



この一ヶ月程のあいだ

私は初めての絶対安静の入院生活

そして、毎日 娘の命の神秘と力強い温もりに
励まされ命の重みを感じる日々でした。



家族もみんな 一度はあきらめかけた

小さな娘の命は、「 奇跡の命」へと
生まれ変わりました。



私は、退院を迎えられるなんて

奇跡奇跡奇跡しかない!

この子は 奇跡ちゃんにしよう!って

本気で思っていたほどです。


元旦那さんや母にも話しましたが

それはあんまりだ、、と却下でしたが




でも、私の中では

一度目の入院に続いて

二度目の入院で、あきらめてください。とまでいわれた、娘の命は
「奇跡」としか言い様のないほどの体験を、一緒に乗り越えました。




退院する日

先生から、


「これまで30年以上産科医をしてきましたが、
研修医からもふまえて、こんなにまれなケースは初めてです。とても医学的にはありえないことが起きました、大変驚いています。」というようなお話をしてくれました。



その後 娘は予定日より少し遅く

元気に産まれてきてくれました。



娘はもうすぐ16歳になります
命を助ける看護師さんになりたい。と看護学生を頑張っています。

毎年お誕生日には、この奇跡ストーリーを話しています。
娘いわく「もう耳にタコできたわぁ~」って笑いながら聴いていますが、
私は娘が無事に産まれてきてくれたことで、
いのちの偉大さ 神秘のちからを沢山体験させてもらいました。

長女の生きたい!って強い想いと、真なる力のようなものを、今でもいつも感じています。

これからも、大切に子供たちのいのちと向き合い親子で紡いでいきたいと思っています。

すべのいのちに感謝。


今日はここまで読んでくださり
ありがとうございます。

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