畿内班田制崩壊の真相
(国立国会図書館所蔵自著「律令社会の崩壊」第一章の概説)
一部内容を修正
口分田不足の真相
延暦11年(792)10月28日、山城国長岡京遷都後、最初の造籍に基づいた班田に際し、口分田の班給方針が出された。
まず、男分を班給し、残りを女分とし、奴婢には班給せず。
(類聚国史 延暦11年10月庚戌条 巻159口分田)
→口分田不足が原因であると考えられる。
元慶班田(山城国)の例
(A)土戸男子授口数・・・・・・・24349人(1)
(B)土戸男子一人当たり授田額・・1段180歩(1)
(C)土戸男子授田総額・・・・・・3652町3段180歩
【(A)×(B)】(2)
(D)京戸男子授口数・・・・・・・10000人(推定)(3)
(E)京戸男子一人当たり授田額・・1段100歩(1)
(F)京戸男子授田総額・・・・・・1277町7段240歩
【(D)×(E)】
(G)土戸女子授口数・・・・・・・25000人(推定)(4)
(H)土戸女子一人当たり授田額・・20歩(5)
(I)土戸女子授田総額・・・・・・138町8段320歩
【(G)×(H)】
(J)京戸女子授口数・・・・・・・10000人(推定)(3)
(K)京戸女子一人当たり授田額・・0歩(5)
(L)京戸女子授田総額・・・・・・0歩【(J)×(K)】
(M)官田田積・・・・・・・・・・800町(6)
(N)公田総田積・・・・・・・・・5869町20歩(7)
【(C)+(F)+(I)+(L)+(M)】
天長班田(山城国)の例
(A)土戸男子授口数・・・・・・・・24349人
(推定:元慶期と同数)
(B)土戸男子一人当たりの授田額・・1段180歩
(推定:元慶期と同程)(8)
(C)土戸男子授田総額・・・・・・・3652町3段180歩
【(A)×(B)】
(D)京戸男子授口数・・・・・・・・10000人
(推定:元慶期と同数)
(E)京戸男子一人当たりの授田額・・2段(田令口分条の規定通り)
(F)京戸男子授田総額・・・・・・・2000町【(D)×(E)】
(G)土戸女子授口数・・・・・・・・25000人
(推定:元慶期と同数)
(H)土戸女子一人当たりの授田額・・30歩(5)
(I)土戸女子授田総額・・・・・・・208町3段120歩
【(G)×(H)】
(J)京戸女子授口数・・・・・・・・10000人
(推定:元慶期と同数)
(K)京戸女子一人当たりの授田額・・30歩(5)
(L)京戸女子授田総額・・・・・・・83町3段120歩
【(J)×(K)】
(M)公田総田積・・・・・・・・・・5944町60歩(7)
【(C)+(F)+(I)+(L)】
天長期から元慶期にかけて公田の総田積(乗田は除く)は、殆ど変わらなかったと考えられる。和名類聚抄では山城国の田積はは8961町7段290歩なので、公田以外の田積は約3千町前後であったと推計される。
延暦11年(山城国)の班田
(A)土戸男子授口数・・・・・・・・20000人
(推定:元慶期の8割)(9)
(B)土戸男子一人当たりの授田額・・1段180歩
(推定:元慶期と同程度)
(C)土戸男子授田総額・・・・・・・3000町【(A)×(B)】
(D)京戸男子授口数・・・・・・・・8000人
(推定:元慶期の8割)(9)
(E)京戸男子一人当たりの授田額・・2段(田令口分条の規定通り)
(F)京戸男子授田総額・・・・・・・1600町【(D)×(E)】
(G)土戸女子授口数・・・・・・・・20000人
(推定:元慶期の8割)(9)
(H)土戸女子一人当たりの授田額・・1段(土戸男子の3分の2)
(I)土戸女子授田総額・・・・・・・2000町【(G)×(H)】
(J)京戸女子授口数・・・・・・・・8000人
(推定:元慶期の8割)(9)
(K)京戸女子一人当たりの授田額・・1段120歩
(京戸男子の3分の2)
(L)京戸女子総授田額・・・・・・・1066町6段240歩
【(J)×(K)】
(M)公田総田積・・・・・・・・・・7666町6段240歩(7)
【(C)+(F)+(I)+(L)】
公田総田積(奴婢分を除いた口分田の総額)は、山城国の総田積より約1300町少ない額であるが、天長期に班給対象外の田積が約3000町であったことを考えれば、逆に少なくとも1000町以上足りなかったと考えられる。よって、女子に田令口分条で決められた額を満額支給するのは不可能であったと考えられる。
奈良時代末期の班田(大和国)の例
(A)土戸男子授口数・・・・・・・・25000人
(推定:元慶期の山城国のそれと同程度)
(B)土戸男子一人当たりの授田額・・2段(田令口分条の規定通り)
(C)土戸男子授田総額・・・・・・・5000町【(A)×(B)】
(D)京戸男子授口数・・・・・・・・15000人(10)
(E)京戸男子一人当たりの授田額・・2段(田令口分条の規定通り)
(F)京戸男子授田総額・・・・・・・3000町【(D)×(E)】
(G)土戸女子授口数・・・・・・・・25000人
(H)土戸女子一人当たりの授田額・・1段120歩
(I)土戸女子授田総額・・・・・・・3333町3段120歩
【(G)×(H)】
(J)京戸女子授口数・・・・・・・・15000人(10)
(K)京戸女子一人当たりの授田額・・1段120歩
(L)京戸女子授田総額・・・・・・・2000町【(J)×(K)】
(M)公田総田積・・・・・・・・・・13333町3段120
【(C)+(F)+(I)+(L)】
大和国の総田積は17500町(11)であるから、4167町程の余裕があったと考えられる。当時の大和国の公田田積は不明なので、口分田が足りていたとは断言はできない。
遷都が無かったとしても山城国と同様、大和国でも口分田不足に陥っていた可能性は否定できないものの、冒頭での口分田不足の状況は山城国一国で起きていた事象であることは、ほぼ間違いないと考える。
注
(1)日本三代実録 元慶4年3月16日己巳条
(2)1段:360歩、1町:10段
(3)村井康彦氏は「内裏にかかわる官人の数がおよそ8、9千から1万人
それらの多くが家族を構成していたとして、7、8万から10万とい
ったところか。」とし、上限でも15万人と述べられている。
(「古京年代記―飛鳥から平安へ―」角川書店 1973年)
当時の人口はその大体の中間値をとり、10万人強と考える。
また、山城国の京戸の割り当てを元慶の官田の負担率と同じ5分の1
とし、男女の人口をほぼ同数として概算した。
(4)土戸男子の口数とほぼ同数と考えた。
(5)日本三代実録 元慶3年12月4日己丑条 藤原冬緒 奏状其一
(6)日本三代実録 元慶3年12月4日己丑条 藤原冬緒 奏状其二
(7)乗田の田積は不明だが、ここでは無視出来るほど少なかったと考え
る。
(8)残180歩は陸田により支給と推定。
(9)村井氏の見解(注(3))より、長岡京の人口を8万人と考え、
それは天長・元慶期の平安京の人口の8割に当たるので、山城国の京
外の人口も同程度と考えた。
(10)平城京の人口を10万人と考え、大和国の京戸の負担率を元慶官田
のそれと同じとすれば、京戸の割り当ては30000人と考えられ
る。ここでも男女の人口を同数であるとした。
(11)日本後記 大同3年9月乙巳条
「大和国言、此国水田一万七千五百余町、」
和泉国における田地の減少
日本後記 大同3年(808)9月乙巳条によると河内・和泉両国の田積の合計値は17000余町であるが、930年頃成立したとされる和名類聚抄によると、河内国の田積は11338町4段、和泉国のそれは4160町6段(歩以下は省略)で、合計15499町である。その差は約1500町である。即ち、808年から930年頃にかけて、両国の田積は合わせて、
1500町も減少したということになる。
元慶官田では、和泉国400町に対し、河内、摂津両国は800町となっており(1)、和名類聚抄によると摂津国の田積は12525町である。元慶期の和泉国と河内・摂津国の田積比は官田と同じ1:2であるならば、当時の和泉国の田積は5670町~6260町と算出できる。前出の河内・和泉両国の田積の合計値より、和泉国の田積は5670町前後と推定される。
和名類聚抄の記載との差は約1500町である。即ち、1500町もの田地の減少の殆どは和泉国分となる。
この田地の大幅な減少は、大同3年(808)から930年頃までに起こったものであるが、筆者はぞの殆どは元慶年間から930年までの比較的短期間に起こった事とみる。それに至った契機は2度あったと考えられる。1度目は元慶の班田で、2度目は延喜の御厨整理令(2)であろう。
和泉国はもともと上田が無く(3)、畿内にあって地力の低い土地であった。その上、元慶の班田では中田の殆どが官田として接収された(4)ので、官田の営田に直接加われなかった一般農民(5)は農業に従事するメリットが低減した。
また、和泉国には延喜式に見える内膳司所轄の網曵御厨が置かれおり(6)、もともと海水漁業の盛んな地域であった。延喜の御厨整理令で多くの御厨の廃止命令が下ったが、網曵御厨は内膳司領ということもあって志摩、筑摩、江とともに存続が許された。更に筑摩、江は淡水漁撈(7)、志摩は畿外ということで、畿内唯一の海水漁撈である網曵御厨への依存度が高まったと考えられる。かくして和泉国では網曵御厨を中心に海水漁業が盛んになり、農業と並ぶ基幹産業に発展したものとみられる。
寛弘9年(1012)正月22日和泉国符案(8)は同国の田の荒廃ぶりを伝える史料である。そこには「爰此国所部雖狭、居民有数、半宗漁釣之事」とあり、和泉国の居住民は前述の通り、農業だけでなく漁業も主な生業としていたことが伺い知れる。続いて「無好耕耘之業、浮浪之者適有其心」とあり、そこの住民は農耕を好まず、(漁業の方に関心を持ち)、特に本貫地を離れて浮浪となる者は適ってその心を持っていた。そのため「則依無作手不便奇作」とあり、(浮浪民を作手として頼ってきた)富豪の輩の領田の荒廃が特に問題となっていたが、これは私領ではなく公田とされた。また、律令体制の弛緩に伴い、浮浪民が増え続け、その多くが漁撈専従民となっていったため、口分田も荒廃していったであろうことは言うまでもあるまい。
寛弘8年(1011)12月26日、摂津国で班田のための授口帳が太政官に提出された(9)が、畿内では京戸の割り当てがあり、五カ国一斉に班田をしなければならず、他の四カ国も同じ手続きをとる必要があった。その史料が残存していないからその手続きがとられなかったとは言えないが、少なくとも和泉国では荒廃田の再開発が急務であり、それどころではなかったとみられる。また、荒廃田の再開発に期待したのは、一般農民ではなく、田堵と呼ばれる富農層であり、もはや一般農民のための班田収授の必要性も失われていたのである。
なお、少し時代が下っての事であるが、小右記の万寿2年(1025)7月18日条に次の記事がある。「章信云、和泉所作田三千餘町、而所焼遣今只八百町許云々、」八百町は少々極端な数値であるが、所作田三千餘町は、和名類聚抄記載の田積よりも更に千町以上少なく、当時の和泉国の亡弊ぶりを物語るものである。
注釈
(1)日本三代実録 元慶3年12月4日己丑条 藤原冬緒奏状其二
(2)類聚三代格 巻10 供御事 延喜2年3月13日 官符
(3)延喜式 第22 民部式上 官田条によると、官田(元慶以前からの
国営田)1町当たりの採稲高が他国は上田相当の5百束であるのに対
し、和泉国のみ中田相当の4百束である。優先的に上質田が割り当て
られるべき国営田でさえも上田が割り当てられておらず、和泉国内に
は上田は存在しなかったと思われる。
(4)元慶5年2月8日官符の官田営料事に「不論上中」、同田獲稲時に上
田と中田の稲束数のみの記載となっているので、各国の上質田が官田
として接収されたのであろう。
(類聚三代格 巻15 易田并公営田事)
(5)元慶の官田の営田には力田之輩という富農が正長として用いられた。
(類聚三代格 巻15 易田并公営田事 元慶5年2月8日官符)
(6)延喜式 巻39 内膳司式 造味塩魚条
(7)江御厨は河内平野北部の低湿地帯(越智勇介 文献史料から見た古
代「茅渟海」の漁撈集団ー網曵御厨成立の源流をめぐる考察ー「おほ
つ研究VOL12」 和泉大津教育委員会 泉大津市立織編館編
2019年 3月)、筑摩御厨は琵琶湖東端(近江国坂田郡 現米原
市)に存在した。
(8)平安遺文 第2巻462号
(9)類聚符官抄
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