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あのときあり得た世界線
バラ色のキャンパスライフを夢に大学へ入学し、3年後の現在、灰色のキャンパスライフを過ごしている。
自分がもし、あのときあの選択をしたら今頃はもっと人生が華やいでいたかもしれないと、無駄に空想にふける時間が稀にやってくる。
今の生活にそこそこに満足しているのに、それらの「あり得た自分の人生」を、パラレルワールドを、ひとたび考えてしまっただけで自己嫌悪が膨張して、胸の奥が嫌な痛み方をする。
先日、大学近くのスーパーを利用していたら、同世代の大学生らしき男が3人組でなにやら楽しげに食材を物色していた。
少し経って、レジでお会計を済ませ、野菜やら消耗品を鞄に詰め終わると、入れ違いで先ほどの3人組がやってきた。
控えめに彼らのカゴに視線を向けると、白菜やら肉やらが見えた。おそらく鍋だ。このあと鍋パでもするのだろう。
いいなあ。
スーパーから駅までの道のりを歩きながら、ああいう大学生になりたかったのにな、でもなれなかったな、と自己憐憫の時間が始まった。
ありえた世界線を妄想するとき、一番に心が苦しくなるのは、「ありえた人との出会い、思い出」ではないかと僕は思う。
大学生活は4年もある。中高より長く、小学生の時より深くて濃い。
これは極端な思考だが、他人の記憶に自分が存在していなかったら自分という人間はこの世に存在しなかったも同然、だと思っている。
それが4年もある。
もう虚無しかない。
自分がどれだけ自己満足した生活を送ろうが、その時間を共に共有した仲間がいないのだ。
「そういやあんとき、こんなことあったよな」
「え?何それ。おれ知らんねんけど」
「まじ?1203事件やで!?通称はっしー脱糞事件な」
「あーっ!はっしーのやつか!覚えてる、覚えてる。ん?なんで1203なん?」
「それはな、12月3日のクッソさぶい真夜中にな・・・・・」
という会話がこの先、生まれようもないということ。
楽しい時間を共に過ごした仲間も辛い経験を一緒に乗り越えた仲間もいない。
ウマの合う人との出会いは結局、「運」ではないかと僕は思う。
気の合う人間にアホダースほど出会えることも、1人も出会えないということも。
数打ちゃ当たる、自分から行動してないだけ、そう言う人もいる。
しかし、本当にそうだろうか。
運いい奴が運悪い奴に何を言っても響かない。
所詮、生存者バイアスなのだから。
運がいい人はどうか誇って欲しい。
世の中には、灰色のキャンパスライフを送っている大学生がごまんといることを知っている。
同じように灰色であることをネガティブに捉えているかは知らないが。
その人たちはどうやって、この「ありえた世界線、ありえた思い出」に負けず、戦い、克服しているのだろうか。
僕はその乗り越え方を知らない。
知りたい。
その点でいうと、noteを始めとするネット世界は救いだなと思う。
一生のうちに交差しなかったはずの人々に見つけてもらえ、また、覗かせていただけるのだから。