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【短編小説】Mr. Blue Sky
雲一つない青空というものに、形容しがたい恐怖を感じるのは私だけだろうか。
例えば、ジョン・ケージの『4分33秒』のような、「さあ、ここから何か感じ取ってくれ! 君ならできるはずだ!」といった、「無」ゆえの圧を感じないだろうか。あるいは、中身が白紙の文庫本を閉じると、表紙に「あなたの本」なんて言葉が書かれていた時のような、そんな空虚さを感じないだろうか。無論、それは日記帳のようなものであって、「あなたの人生をここに書き記していきましょう」というコンセプトのアイデアグッズに過ぎないのだが。
私はいつからか、「無」というものに恐怖を感じるようになった。普通の人間ならば、眼前に広がるこの青空に、どこか心地良さを感じるに違いない。その青さをなるべく全身で感じ取るために、両手を大きく広げ、そしてきっと深呼吸をしたくなるはずだ。
しかし、私は思う。雲が足りない。雲があってこその空だと言うのに。
なぜかこれが本来の姿であるかのように、人々はこの風景を「快晴」と呼んでいる。
私は今、ある人物を待っている。城崎雄也という男だ。城崎は俳優である。10代の頃から天才子役として注目され、その端正な顔立ちと、類い稀なる演技力によって、多くのファンを獲得した。26歳となった現在、彼の人気は絶頂期を迎えている。あらゆるメディアに出演しては、トレンドをいくつも生み出してしまう。まさにスター俳優となったのだ。
そんな城崎の甘いマスクを引き剥がすべく、多くの週刊誌が躍起になって動いていたのだが、これが驚くことに、やましい事柄は何一つ見つからなかった。やれコンビニで何を買っていただの、居酒屋で何を注文していただのと、箸にも棒にも掛からない記事が増えるだけで、女の影など微塵も感じさせないのである。これは決して、城崎が金の力で口封じをしたとか、そういうわけではない。それは私が保証する。私は彼のマネージャーだからだ。
幼い頃からテレビに夢中であった私は、一時はディレクターやプロデューサーといったクリエイティブな職業に憧れていた。しかしどうやら、0から1を生み出す才能は持ち合わせていなかったようで、大学3年生の秋、とある番組制作会社の企業説明会にて、その夢は見事に打ち砕かれたのだった。参加者は皆、社員に自ら考案した分厚い企画書をここぞとばかりに見せつけ、「添削お願いします」と言うその眼光たるや、今にでも俺が革命を起こしてやるとでも言わんばかりの狂気を孕んでいた。社員も社員で、今年の学生は凄いぞと唸るものだから、私はうすら寒い茶番劇を見させられた気分になって、(その空気に気圧されて、)このテレビ業界というものからは距離を置いてやろうと決心したのである。しかし結局、大した距離を空けることもできず、私はマネージャーという現在の職に就くこととなり、ひょんなことから、あの城崎雄也の担当となったのだ。
現状、城崎を最も近くで拝むことができるのはこの私であろうが、私の目をもってしても、彼は完全無欠の潔白男なのである。まさに「雲一つない快晴」のような人間だ。
しかし一度だけ、彼はほんの僅かな翳りを私に見せたことがある。
テレビドラマの撮影がクランクアップした後の飲み会。私と城崎は二人で喫煙所へと向かった。
城崎はまだ火がついていない煙草を咥えながら、もごもごと喋り出した。
「こんなに長く、僕のマネージャーを担当してくれたのは、あなただけですよ」
「え?」
ここで火をつける。徐に息を吸うと、誰もいない方向へと、長く細い煙を吐き出す。完璧な所作である。
「僕のマネージャーって。すぐに辞めていく人が多いんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。もともとファンだった方が、マネージャーになることが多くて。みんな緊張してしまうんですかね……」
「それで、ミスが多くなる」
城崎は頷いた。
「自分で思い詰めちゃって、辞めちゃうんですよ。僕は大して気にしてないんですけどね、ミスとか」
まるで私が全くミスをしない人間であるような口ぶりだが、つい1週間前、私はこの飲み会の日付を彼に伝達し忘れるという大ミスを犯している。
「僕もミスしますけど」
「うん」
それだけ言って、再び沈黙が流れた。
この会話の主導権は城崎が握っている。こちらから話を切り出すのは無礼である。という圧を感じるが、きっと城崎自身にそういった意図は無い。
「なんというかこう、みんな僕を神格化しすぎるんです。そんな大層な人間じゃないのに。メディアがあまりに持ち上げるから。いやー、プレッシャーですよ」
「そういうもんですか……」
「その分、あなたは本当に接しやすい」
突然、私と目が合う。相変わらず顔が整っている。穢れを一切感じない。神秘的だ。
「ほんとですか」
「だって僕のこと苦手でしょ」
「え?」
全くもって苦手と感じたことは無いのだが、彼に恐怖を感じていることは否めない。
「そんなことはないですけど」
「もっと正確に言うと、『メディアが作りあげた僕』が苦手でしょ」
妙に引っかかる言い回しだ。
「苦手では無いですよ。ただ、怖いなあって」
「怖い……」
城崎の表情が曇る。慌てて私は付け加える。
「濁り、というかなんというか、普段からそういったものを一切感じさせないでしょ。いつも完璧で、無垢すぎて怖い時があります」
最後の一言はいらなかったな、と思う。
「なるほどね。無垢すぎて……。無垢、ね」
いらなかったな、と思う。
「だから苦手ではないですよ」
「なら良かったです。……まあとにかく、それくらいの距離間の方が心地良いんです。懐に入り込まれるわけでもなく、変に崇拝されるわけでもなく。ちょっと素っ気ないくらいがちょうどいい」
「そういうもんですか」
「ええ」
その時の城崎の表情には、妙な翳りがあった。神とはほど遠い、とても人間らしい表情だった。
もしかすると彼は、常に城崎雄也を演じ続けているだけなのかもしれない。雲一つない快晴のような人間を演じ続けなければならい。そんな呪いをかけられているのかもしれない。
空を見上げながらそんなことを考えていると、マスクとサングラスを身に付けた明らかに怪しい男がこちらに駆け寄ってきた。城崎だ。彼は基本的に街中では声を出さない。その美声が周囲に響いた途端、静謐な空間でさえも、瞬く間に喧騒へと変わってしまうからだ。彼は忙しなく手足を動かして、おそらく(僕の、家に、行きましょう)と言っている。私は軽く頷いて、彼の後を追った。
城崎の自宅に訪れるのは、初めてである。屹立するビル群を横目に見ながら、一体どんな豪邸が持ち受けているのか、と想像してみる。例えば、地上30階の3LDK、コンシェルジュ付きの超高級マンションだったり。あるいは、ドッグランができる庭と、5台以上収納可能なビルトインガレージが備わった、100坪以上の広さを誇る大豪邸だったり。そんな妄想に耽っていると、城崎は私を一瞥して、ある建物を指さした。新築のまあまあなマンション。あまりに稚拙な言い回しで申し訳ないが、「まあまあ」なマンションである。
エレベーターに乗り込むと、城崎は「6」という何とも言えない数字を押して、「期待外れだったでしょ」と漸く口を開いた。
「きっとこんな大豪邸に住んでるだろう、みたいなこたつ記事ばっかりで困っちゃいます。僕の根城はこんなもんです」
数分前の妄想がフラッシュバックして、私は顔を赤らめる。
部屋の前に着くと、城崎はドアを開錠し、「どうぞ」と私を招き入れた。非常に清潔感のある室内。所々に観葉植物が置かれていて、しっかりと手入れが行き届いている。しかし、かなり素朴な住宅だ。城崎らしいといえば城崎らしいが。
「すみません。突然呼んじゃって。どうぞ」
城崎は、ここに座ってくださいというように、ソファの前のテーブルにコーヒーを置いた。私がソファに腰掛けると、城崎は向かい側の小さな座椅子に座った。
「あの、相談事があってですね。それが、かなりプライベートな相談でして」
ほう。
「外でやるにはあまりに危険な相談だなと思い、今回こうやって自宅にお呼びしたんです」
ほうほう。
「まあその内容なんですけど」
なんだろう、この胸騒ぎは。
「あのー」
彼は今、かなり危険な箱をこじ開けようとしている気がする。パンドラの箱でなければいいのだが。
「好きな人がですね。できまして」
なるほど。
「なるほど」
「あの、ある劇場のね。スタッフの方なんですけど。前の公演の時に凄い仲良くなって、連絡先とかはまだ知らないんですけど、あれ、あの時連絡先聞いといた方が良かったのかな。まあ僕こんな感じで、あんまり自分でアタックとか、そういう経験無くて。映画とかドラマとかは別ですよ。あれは演技ですから。とにかくあの、アドバイスが欲しいんですよ。正直俳優って人気商売だし、こういう、なんて言うんですか、スキャンダルみたいのも怖いし、どうやるのが正解なんだろうと。こういう相談できるはあなたしかいないんですよ。ですから新田さん。お願いします。」
初めて私の名前が新田であるということが明かされたが、そんなことはどうでも良い。
そうか。そういうことだったのか。彼は演技をしていたわけではなかったんだ。本当に無垢すぎるだけなんだ。子役の頃から世間の注目を浴び、一切の濁りも許されないというプレッシャーに苛まれながら生きてきた彼の人生は、まだ白紙のままだ。
彼は憧れていたのだろう。人並みの人生というものに。恋というものに。しかしそれは決して不純なものではない。彼の人生を構成する立派な色彩だ。
かつて私の中に封じ込めていた欲求が滾ってくる。
美しく染めてみせよう。彼の人生を。
私はポケットからメモ帳とペンを取り出した。
「さあ、作戦を立てましょう」
嗚呼、今日はなんて心地の良い快晴なんだ。
~完~
ご覧いただきありがとうございました。