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【短編小説】横断歩道を渡る時の痛み

 友人の友人が自殺した。

という話を友人の倉田から聞いた。だから僕から見れば、友人の友人の、そのまた友人が自殺した。

「本当にそんなことがあるんだな」

と、悲しげに、しかし興奮気味な口調で彼は言う。夜通しビールを浴びるように飲んだ僕達は、徐々に理性を失い、新宿の閑散とした大衆居酒屋店に大きな声を響かせていた。
 空が白み始めているのが、窓ガラス越しに感じられた。終電の時間が過ぎたあたりから、客は急速に減っていき、ついに残ったのは僕達だけになってしまった。
 店員は「早く帰れ」とも言いたげな顔で、追加の枝豆をテーブルに置いた。僕もそろそろ帰ろうと思っていたのだが、どうやら用を足している間に倉田が注文していたらしい。

「まだ若いのにな」

 枝豆を口に放り込みながら倉田は言う。それから彼は、友人から聞いた友人の友人の死について話した。

 しかしいちいち倉田の友人の友人と言うのはあまりに煩わしいので、「K君」とでもしようか。倉田は「そいつ」と言っていたが、それは少し不道徳な気がする。
 K君は僕達と同じ27歳だった。名門大学を卒業し、大手企業に入社。トントン拍子に出世街道を駆け上がり、入社3年目の頃には会社の主力メンバーとして扱われるようになる。
 しかし、K君は死んだ。27歳の誕生日に、彼は新宿の雑居ビルの屋上から飛び降りた。アジアのエスニック料理店とオーセンティックバーと、大衆ソープが併設されたビルだった。残された全ての欲求を取り除くように、彼の金と性欲と食欲と理性は一夜にして搾り取られ、空っぽになった肉体を暗い路地へとほうり出した。
 原因は過労であると推測された。

 僕は吐き出した煙を目で追った。揺蕩う煙はやがて、古びた換気扇へと吸い込まれる。カタカタと音を立てながら、弱々しく回るプロペラの奥の闇へと吸い込まれていく。
 僕は想像した。深い闇へと吸い込まれるK君の姿を。煌びやかな新宿の光は、路地裏の闇を一層暗くする。K君は落ちる。高い所から低い方へと。恐怖と悲哀の汗と涙を追い越して、自分の肉体が先に落ちていく。彼が最期に観たのは、地面だろうか、夜空だろうか。星空なら良いな、と思う。地面は最期に観るには、あまりに狭すぎる。

「おい」

 倉田の声がした。

「お前病んでるのか」
「病んでないよ」

 苦笑混じりに僕は言う。
 湿気たフライドポテトを口に詰め込んだが、そのせいで治りかけの口内炎を噛み潰して後悔した。血の味がして、目が潤んだ。

 僕は病んでいない。そういった類の病院に行ったことは無いし、大きな不安や悩みも特に抱えていないつもりだ。
 しかしなんだろう。顔も知らないK君の死は、思いのほか胸に応えた。(倉田もK君に会ったことは無いのだが、少なくとも僕よりは)身近な人間の死を非日常の出来事と捉え、少々得意気に語る倉田に苛立ちを覚えるほど、K君の死は僕になんらかの作用を起こしている。

「小説の方はどうなんだ」
「まあ、あんまりかな」

 僕は4年前に文学賞で入賞してから、一応の担当編集が付き、一時は躍起になって創作活動に励んでいたが、未だうだつの上がらない生活を続けている。たった1度の受賞歴の効力は徐々に薄れて、筆の速さは明らかに落ちていた。今となっては、自分の実力が評価されていないことよりも、週5日アルバイトとして働いている本屋の売り上げの方が気がかりだ。
 しかし倉田は僕とは真反対の人間で、次から次へと目標が生まれ、さらに有言実行してしまうほどの気概を持っている。
 彼はかなり酔っていた。空になった枝豆を口に運んで、僕に言った。

「死ぬ気でやりゃあいいんだよ。死ぬ気でやりゃあ、弱っても誰かが助けてくれる」
「それで本当に死んだら?」
「死ぬ気がないのに死ぬよりマシだろ?」

 倉田の言葉は強くて、いい加減で、やっぱり好きだった。

***

 店を出ると、5時になっていた。
 早朝の新宿は静謐さを纏い、しかし駅が近づくにつれて昨日の余熱を感じるようになる。明日を迎えた者と、昨日に取り残された者が入り乱れ、混沌としている駅構内で、僕は倉田と別れ、山手線に乗った。
 西日暮里で降りて、常磐線に乗り換える。うつらうつらとしながら、車窓の外を眺めた。パラパラ漫画のように建物はだんだん低くなり、見慣れた光景へと変形していく。
 30分後。イヤホンからくるりの「東京」が流れて、電車は松戸駅に止まった。時刻は6時を過ぎていた。電車を降りると、10月の冷たい風が頬を撫でる。ここから10分ほど歩いたところに、僕の家がある。

 コンビニに寄った。僕は今日も朝からニキビ飯を貪り食う。量の多さを売りにしたカップ麺と、缶チューハイを買って店を出た。
 このコンビニの前には、横断歩道がある。片側二車線の道路を跨ぐ、少し大きな横断歩道。
 店を出た時、信号は青く点滅していた。走る気力が無いので、僕は点字ブロックの上で立ち止まる。青信号が点滅している間、人々は各々の足取りで横断歩道を渡る。後ろめたそうに小走りで渡る者、何の気なしに堂々と歩く者、時間に追われて走る者。僕はコンビニのレジ袋を片手に、立ち止まっている。
 信号は赤に変わる。すると僕の後ろから、サッカーのユニフォームを身に纏った少年が車道に飛び出した。突然大きな音が響き渡る。静かな朝には不釣り合いな轟音。大きなトラックがクラクションを鳴らしていた。

「バカ野郎!!」

 運転手は窓から片腕を垂らして、少年に向かって怒鳴った。少年は少し立ち止まってから、逃げるようにその場を去った。
 僕はその光景を、脳内で繰り返し再生する。突然飛び出してきた少年のその生命力に、得も言われぬ感動を覚えたのだ。
 トラックに危うく轢かれそうになったあの子よりも、ずっと前から立ち止まっていた僕の方が、より「死」に近いではないか。

 そして、僕の右目が濡れていることに気づいた時、カメラは僕の前へと回り込み、右目めがけて思い切りクローズアップするのであった!

 雨が降って来た。
 僕は口内炎を舌で舐めて、せめて肉体的な痛みを感じてから、青に染まった横断歩道を渡る。

~完~

ご覧いただきありがとうございました。

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