見出し画像

【短編小説】コンビニ弁当と一緒に轢かれた

 7月の真っ昼間、太陽が一番高くある時、僕はコンビニ弁当と一緒に轢かれた。

 僕は「スクールゾーン」と大きく書かれた地面の上に横たわる。子供たちは今頃学校で勉強中だ。轢かれたのが僕で良かった。なんてヒーロー気取りのセリフを並べてみる。

 体を動かそうとするたびに、全身に鋭い痛みが響く。骨に直接トンカチを当てるような痛み。血液があらぬ方向に流れていくのがわかる。内出血だ。
 嫌だ。死にたくない。
 このままでは、僕は屈辱的な死を迎えてしまう。

 今から10分ほど前、僕は昼食を買うため、コンビニに入った。
 消費者心理を巧みに利用した陳列には目もくれず、レジの前を突っ切り、弁当コーナーへと向かった。冷え切った弁当の数々からは、作り手の愛情など微塵も感じられない。しかしここまで美味しく見えるのは、やはりそれなりの企業努力があるからなのだろう。
 恋人へのプレゼントを選ぶときのような眼差しで、僕は商品を眺め回す。有名店とコラボした期間限定のキーマカレーか、のり弁のどちらかにしようと思った。
 心の中でこう唱える。

「ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な、か、み、さ、ま、の、い、う、と、お、り」

 僕は知っている。二択の場合は、最初に指した方が選ばれる。神様の意見など、当てにするつもりはなかったのだ。ただ、選択に自信が持てない時は、こうやっておまじないをして、自分の意見を補強した気分になる。昔からの癖だ。
 僕はのり弁を手に取り、レジへと向かった。

「レジ袋はご利用ですか?」
「大丈夫です」
「お弁当温めますか?」
「お願いします」

 店員が電子レンジに弁当を入れると、気まずい沈黙が流れた。
 沈黙は雑念を生み出すから厄介だ。「キーマカレーにしとけば良かった」なんて、余計な一言が頭の中で反響する。10分後、その一言は単なる雑念では済まされなくなる。

 僕は会計を終えて、のり弁と割り箸を片手にコンビニを出た。
 着古したバンドTにカーキのハーフパンツ、片方の手には、裸の弁当。僕は、おそらくこの国で最も無防備な姿で歩く。後ろから襲われたら終わり。だから、怪しい足音があれば、すぐに全速力で逃げられるよう注意を払う。
 しかし、後ろから来るものが人間だけとは限らない。
 恐ろしく速いスピードの鉄の塊が僕の腰骨を砕く。宙を舞うのり弁。僕はボンネットの上で1回転してから、地面にゴロゴロと転がる。スローモーションにはならない。
 それから僕は、しばらくこうやって、一人地面にべったりと横たわっている。

 おお 〇〇! しんでしまうとはなさけない...。

 僕は子どもの頃にプレイしたゲームのセリフを、ふと思い出した。
 情けない。なんと情けない死だろう。コンビニ弁当を持ちながら死んでしまうとは。しかも、のり弁。僕は今、猛烈に後悔している。なぜ、キーマカレーにしなかったのだろう。

 キーマカレーと一緒に轢かれた場合を想像してみる。
 容器は瞬く間に変形し、カレーのほとんどが地面に飛び散る。さっき温めたばかりのルーはスパイシーな香りを漂わせて、野次馬たちの食欲をそそる。そして、

「今、あそこのコンビニで、期間限定のキーマカレーが売ってるんだ」

と、彼らは気づくはずだ。
 そうなれば、僕は少しでもあのコンビニの売り上げに貢献できたはずで、こんな惨めな死にも意味があったのだと合点がいく。
 しかしあの時、僕は「のり弁」という無難な選択をしたことで、この無様な死をさらに彩りのないものへと変えてしまった。

 首元に何かが乗っていることに気づく。僕は精一杯首を動かして、その感触を肌で確かめる。ちくわの磯辺揚げだ。僕の大好物である。そうだ、これを食べるために、のり弁を買ったんだ。首元に落ちたものがちくわの磯辺揚げであるというのは、不幸中の幸いといったところだろうか。いや、それはおかしいだろ。不幸に対して、幸いが小さすぎる。
 首にちくわが乗っている。ああ、恥ずかしい。

 僕は幼い頃、「なぜ人は生きるのか」という普遍的な問いに悩んだことがある。
 当時、近所の川で釣ったザリガニを飼っていた。動物嫌いの母親は「部屋が臭くなるから、飼うなら自分の部屋で飼って」と冷たく言い放ち、僕は泣く泣く虫かごに入れて飼うことにした。ホームセンターで見かけたミズガメの水槽を模したその虫かごは、ザリガニが暮らすにはあまりに狭く、頼りない。夜になると、カタカタとプラスチックが擦れる音が聞こえた。
 ザリガニを見て僕は思う。この子はもともと何者だったんだろう。もしかすると、亡くなった人間の生まれ変わりなのかもしれない。もしそうなら、きっと悪人だったのだろう。人間の時に貯めた「善いこと貯金」が足りなかったから、ザリガニなんかに生まれ変わるんだ。
 そもそも人間って生まれ変わるの? 死んだ後は? もしかして無になる? いや、それはあんまりだ。無は怖い。きっと僕たちには、魂が宿っていて、亡くなったら魂だけが残る。魂だけになってふわふわ彷徨う。生まれ変わるも、そこら辺を彷徨うも自由。そう、自由。
 じゃあ、魂に寿命はあるの?
 考えれば考えるほど問いは生まれ、頭がくらくらした。自分一人の考えでは、収拾がつかないと思い、僕はリビングで韓ドラを見ている母親に「死んだらどうなるか」について尋ねてみた。しかし、結局曖昧な答えが返ってきただけであった。それは、僕よりも知識があって、自由で、偉そうな母親にも答えられない問いなのだと分かり、心臓がバクバクした。

 その後どうなるか一生分からないまま、いきなり死んじゃうの?

 僕は考えるのをやめた。きっと、その答えを知っている人はどこにもいない。考えるだけ無駄だ。
 自分の部屋に戻ると、虫かごの蓋が開いていることに気づいた。恐る恐る近づくと、その横に仰向けになったザリガニがいた。もう動かない。僕はその姿を見て、胸が熱くなるのを感じた。

 かっこいい。

 ザリガニは自力で脱走を試み、成功した直後に息絶えてしまったのだ。僕はその死に様に感動した。
 ああ、そうか。かっこよく死ぬために生きるんだ。

 それから僕は、理想の死に様を求めて生きるようになった。「いつ死んでもいいように、一秒一秒を大切に生きよう!」とか、そういうことではない。もし犬や子供が車に轢かれそうになったら、真っ先に飛び込む。それで死んでも構わない。だってそれは、かっこいい死だからだ。

 そんなことより、ちょっと待ってくれ。僕、轢き逃げされてないか?
 一向に運転手が来ない。ブレーキの音すら聞こえなかった。
 最期に人の顔を拝むことすらできないのか。
 いや、轢き逃げとなれば、それはもうショッキングな事件だ。きっと僕の死は新聞に載るだろう。そして読者への何らかの啓発になるだろう。「許せない! 高齢者ドライバーは免許返納すべき!」「高級車に乗ってる連中はやっぱり運転が荒い」みたいなコメントが、インターネット上に溢れかえるはずだ。
 大丈夫。恥ずかしい死だ。でも、無意味じゃない。


 おお ◯◯! しんでしまうとは なさけない…。

 そなたに もういちど きかいをあたえよう。

 ふたたび このようなことが ないようにな。

 では ゆけ! ◯◯よ!


 目を開けると、清潔感のある無機質な天井。ここは、病院だ。

「はあ、良かった…」

 突然、母が抱きついてきた。がっしりと肩を掴まれ、体を揺さぶられる。全身が鈍く痛む。
 隣のベットから、中年の男がこちらを覗いていた。

「ちょ、ちょっと。恥ずかしいからやめて。痛いし」

 こうして、恥辱にまみれた僕の人生は2フェーズ目に突入する。


 神のご加護があらんことを。


~完~

ご覧いただきありがとうございます。

いいなと思ったら応援しよう!