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【短編小説】半透明少年

教室が濁っている。
濁った言葉で空気が振動している。
その振動が耳に届くと不快だった。

僕の高校の日本史は騒々しい。授業中にイヤホンをつけているのがバレたようで、生徒が一人立たされていた。彼はサッカー部のキャプテンで、全身が浅黒く日焼けしている。
「ちょっと待って下さいよ~」と、彼は今日売れようとしている芸人みたいに、大袈裟なリアクションを披露していた。
先生も怒っているようには見えなかった。怒っているというよりは、ツッコミをしているという感じ。きっと教師としてのプライドよりも、生徒からの人気を守ることの方が大事なんだと思う。
「ちゃんと話聞いとけよ」
「聞いてますって」
「じゃあさっき俺が憶えとくように言ったところ。分かるか?」
「享保の改革ですか」
「いや聞いてたのかよ」
漫才みたいだった。どちらかが声を発する度、大きな笑い声が教室中に反響する。みんな笑っている。そうすることが正解みたいに。

そんなノイズを僕は消去した。
僕は「俺は授業中に堂々と音楽を聴いています」と言わんばかりに、有線イヤホンを耳からぶら下げるような馬鹿ではない。だからなるべく小型で、外部に音が漏れにくいワイヤレスイヤホンを使用している。
ノイズキャンセリングを使うと、突然世界が小さくなったように思える。
僕と音楽だけの世界。
いや、この世界にはもう一人……。

僕は頬杖をついているふりをして、イヤホンを手で隠した。そして、イヤホンを手で隠すふりをして、前から三列目にある窓際の席を見つめた。
生田絹香(いくたきぬか)が僕と同じように頬杖をついて座っている。
2年3組の教室は西校舎の二階に位置している。窓からグラウンドを一望できるはずが、成長しすぎたモミジの木が邪魔をして、誰も外を見ようとはしなかった。しかし彼女は窓の外を見つめ、うっすらと笑みを浮かべていた。若手芸人の単独ライブみたいな教室で、独り微笑む彼女は、異質だった。


1ヶ月ほど前。

僕は学校から二駅離れたカラオケ店へと向かった。学校近くの店舗には、同じ学校の生徒がいるような気がしたので、少し離れた場所を選んだ。
数カ月ぶりのカラオケ。家族や友人に誘われない限り、無縁だと思っていた施設だが、この日は無性に歌いたくなったのである。

駅前商店街の中に、見覚えのあるネコの看板が見えた。急に緊張してきて、店の手前で5分ほど立ち止まって、スマホを眺めた。
いつもこうして時間を浪費する自分に嫌気がさしたところで、僕はようやく入口の自動ドアを開けた。

料金表の見方がいまいち分からなかったので、店員に言われた通りのプランを選んだ。一時間程で帰るつもりだったのに、フリータイムになってしまった。

部屋に入ると、突然恥ずかしさが込み上げてきた。あの店員は「一人のくせにめっちゃ歌うな」とか思っているだろうか。フリータイムなのに一時間で帰ったら、「注文ミスったんだな」とか思われるんだろうな。
思考がどんどんマイナス方向に傾いていく。
何のために来たんだ、と僕は両頬をパシンと叩いて、デンモクの操作を始める。家族や友人と来た時には歌えない曲がある。「キモイ」とか言われそうだから。でも今日はそれが歌いたかった。予約ボタンを押すと、モニターに曲名が映し出された。

『透明少女/NUMBER GIRL』

突如鳴り響くギターっぽい異音。それがあまりにも安っぽくて、僕は思わず吹き出しそうになる。画面に歌詞が表れて、慌ててマイクを握った。
歌い出しは大失敗だった。高いところから落とされた蛙みたいな声が出た。するともう何もかもどうでもよくなって、音程など気にせずに歌うことにした。歌というよりは叫びに近い声。でもこの曲はそれくらいの方がちょうどいいんだ、と自分の歌唱スキルを誤魔化した。
夢中で歌っていると、突然ドアが開いた。びっくりして、今度は踏まれた蛙みたいな声が出た。

「ロシアンたこやきでーす。」

そんなものは頼んでいない。いや、頼むわけがなかった。

「いや、僕頼んでな……」
「あ、すいません!!」と、勢いよくドアを閉める。

最悪の気分だった。ちょうど歌声に勢いがついてきたところで水を差された。
ソファに片足を乗せていたことに今更気づいて、羞恥心がぶり返してきた。
何より最悪だったのは、あの店員が同じクラスの奴だったということだ。苗字は生田。下の名前は憶えていなかった。うるさいタイプの女ではないから、学校で言いふらすようなことはしないだろうけど……。

いや、そもそもアイツは、僕が同じクラスの生徒だって気付いているだろうか。普段は空気みたいな僕だから、顔も名前も覚えてないだろうな。相変わらずのマイナス思考。でも今はそう思っていた方が、幾分か気が楽だ。

さすがに歌う気も失せて、僕は店から出ることにした。初めての一人カラオケ大会は、1曲も歌いきれずに幕を閉じた。ドリンクバーのアイスも食べてみたかったけど、タイミングを見失ってしまうと一生ここから出られないような気がした。
会計へ向かう途中、同じ歳くらいのグループとすれ違った。すれ違いざまに、「ンン!」と咳払いをして、喉が痛いフリをした。1曲すら歌ってないのに。
会計はセルフだった。この状況で店員と顔を合わせずに済むのは、なによりの幸運だった。現代文明最高。手際よく会計を済まして、入口の自動ドアへと向かう。

「ちょっと待って。」

後ろから聞き覚えのある声がした。多分、生田の声だった。振り返って答え合わせをする前に、腕を掴まれて店の外まで連れていかれた。

「あのさ。私がここで働いてることは秘密にしといてね。ほら、うちの高校バイト禁止でしょ。バレたらヤバいから。」

まくしたてるように喋った後、「じゃあね。」とひとこと言って、店の方へと戻っていった。
僕はしばらく店内を眺めていた。忙しなく働く彼女が、自分と同じ年齢のようには見えなかった。
なぜここで働いているんだろう。
家が貧乏だから自ら働かないと学費が払えないとか、病に伏せる母親の治療費を稼ぐために働いているとか、僕は頭の中で彼女を“悲劇のヒロイン”に仕立て上げる。
妄想にふけていると、センサーが反応して自動ドアが開いた。僕は自分の変質者度合に気が付いて、逃げるようにその場を去った。

それから僕は、あのカラオケ店へ何度も通うようになった。「通う」と言っても、カラオケを楽しむわけではなくて、働いている生田絹香の姿を店の外から一瞥して、通り過ぎるだけである。
学校の授業が全て終わると、一時間ほど図書室で過ごしてから、店へと向かう。彼女が店に到着する時間を見計らって、学校を出るようにした。尾行をする勇気は無かった。
僕が店を訪れると、彼女はいつも働いていた。


教室はすっかり静かになって、先生がお経みたいに教科書を読み上げていた。
開いた窓から風が吹いて、一日分のほこりが宙を舞った。鋭角に差し込まれた日光が、舞い上がった粒子を一つ一つ照らして、それがあまりに綺麗で、白昼夢を見ているような気分になった。
僕は相変わらず彼女を見ている。あの茶色い髪は地毛なのに、頭髪検査の度に呼び止められ、教師と口論になっているところを何度か見た事がある。そういう彼女の不憫な姿を見れば見る程、僕はますます魅了された。

突然、先程から行き所不明だった彼女の視線が僕に向けられた。
彼女は「ひ、み、つ」とゆっくり口を動かした。すると、僕の全身の血液が上昇してきて、頭がぱんっぱんに膨れ上がる。パキパキと頭蓋骨にヒビが入って、それでも膨張は止まらず、やがて耐えきれなくなって、
パン!
と、頭が弾け飛んだ。

チャイムが鳴った。

白昼夢どころか夢を見ていたようだ。それにしても気色の悪い夢だった。僕の頭が弾けたことよりも、彼女の艶かしい視線や仕草を夢の中で再現してしまったことの方が、よっぽどグロテスクで気色が悪かった。

帰りのHRが始まった。
担任が気だるそうな声で、報告事項を読み上げる。そんな声を出されると、また眠くなる。
HRが終わると、瞬く間に教室から人が減っていく。生田絹香も退室したことを確認すると、僕はいつものように図書館へと向かった。
彼女が今日も働いているという確証は無かった。それでも僕が店に訪れた日はいつも、必ず仕事着姿の彼女が現れたから、と根拠のない期待を抱いている。

一時間ほど時間を潰してから、駅へと向かった。時刻は18時を回ろうとしている。
電車に揺られて、スマホを眺める。電車に乗っている時は目線の置き所が分からないから、いつもとりあえずスマホを見ている。
”見ること”が怖い。”聞くこと”も怖い。だからSNSを見ながら、爆音で好きな音楽を聴く。そうやって頭の中を、自分にとって都合の良い情報でいっぱいにする。

西の空はまだ明るい。

耳をつんざくようなテレキャスターの音が心地良かった。良い音楽は、鼓膜に突き刺さって抜けなくなる。例えば、ゆら帝とか、くるりとか、ミッシェルとか、あと、ナンバガ。

気が付けば、電車が目的の駅に到着していた。
帰宅ラッシュで、駅が混んでいた。雑踏をかき分けながら、きっと今日は大変だろう、と働いている彼女のことを気の毒に思う。
飲み屋街を抜けると、例のカラオケ店が見えた。向かい側の歩道まで行って、店の中を眺めた。入口がガラス張りになっているから、中の様子は筒抜けだ。

彼女の姿は見当たらなかった。
でも、いつも受付以外の仕事も担当しているみたいだし、今日は厨房で調理をしているのかもしれない。

20分経った。

さすがに帰ろうと思った。
きっと今日は休みなんだろう。今までは運が良かっただけだ。こういう日もあるだろうと思っていたから、ダメージは少ない。


本当は凄く虚しい。
いや、このカラオケ店に来るときはいつでも、背徳感や虚しさがあった。それでも彼女の働く姿を見ていると気が和らいだし、恍惚としている間にそういった雑念は消えていくものだった。
しかし今は、ただ虚しさと後悔が膨れ上がって、ストーカーみたいなことをしている自分がキモくてキモくて仕方がなかった。

もうこういうことはやめよう。
僕は踵を返して、駅へと向かった。
嫌なことを考えていると、喉が渇く。道中に自販機を見つけたので、コーラを買って一口飲んだ。炭酸がキツくて、腹が立った。

しばらく自販機と睨めっこをしていると、少し遠くから聞き覚えのある声がした。
生田の声だった。

「もう夏だね。」

「そうだね」

知らない男の声だ。

僕は恐る恐る、声がする方へと視線を動かした。
そこには生田ともう1人、背の高い男が居酒屋の前で立ち話をしていた。髪を茶色に染めて、少しパーマをかけている。その遊び具合は、たぶんダイガクセイだ。

「そのセリフって普通、6月くらいに言うもんじゃない?」
「え?」
「もう7月後半だよ。夏真っ盛り」
「別にいつ言ったって良くない?」
「いやなんか嫌じゃない? 天気とか季節の話するの。会話のデッキ切れたみたいじゃん」

少し間が空いた。

「そんなことないよ。」
と、彼女は笑った。

妙に噛み合わない会話が、聞いていてとても不愉快だった。
あのダイガクセイの声量も嫌いだ。あえて周りの人に聞こえるくらいの声量で喋るあの感じ。ナルシシズムが声色に乗っているあの感じ。ふと、同じクラスのサッカー部が頭の中に現れて、それが不快感を助長した。

僕はどうにかなっちゃいそうで、その場を立ち去った。
知らない道をとぼとぼ歩いた。
駅からは遠ざかっているような気がしたけど、気にせず歩いた。
このまま家まで歩いて帰ろうと思った。

イヤホンを付けて、爆音でナンバガを聴いた。痛々しいほどの爆音。
時刻は19時を回ろうとしている。もう夜だって言うのに、西日が僕を攻撃していた。目の前が真っ白になった。目と耳が刺激でいっぱいになった。これは自分なりの自傷行為だ。

あの二人はどういう関係なんだろう。
付き合ってんのかな。
あのダイガクセイの顔が浮かび上がる度に、僕が時間をかけて作り上げた「理想の生田絹香像」は崩れ落ちていく。
あの会話の俗っぽさを思い返す度に。
濁っていく。

濁る?
濁るって何だよ。

人は皆、生まれた瞬間は透明だけど、やがてシャカイが身体に浸透して濁っていく。水彩絵の具の筆洗器に入った水みたいに、例えようのない色に少しずつ染まっていく。
そう思っていた。

でも、違う気がした。
みんな世の中のフツウを知って、受け入れて、大人になる。それは人間として適切な成長の仕方で、純粋で、無垢だ。
僕はそれが怖かった。
自分が何かに取り込まれてしまうような気がして怖かった。だからひたすら斜に構えて、俗っぽい人間を見つけては心の中で非難した。僕はシャカイの不純物だ。
濁っているのは僕の方だ。

また、いつものマイナス思考だ。
でも、朝起きたら忘れてしまうような、その場しのぎの自責思考ではなかった。リセットが効かない、一生抱えてしまうほどの重苦しい思考。
その思考の背景には、目に焼き付いて離れないあの子の表情があった。ダイガクセイと話している時のあの表情。
嘘っぽく笑ったあの表情が、透き通って見えたから。

40分ほど歩いた。
喉が渇いて、さっき買ったコーラを開けると、気が抜けていた。
溶けた砂糖の味がした。
家はもうすぐそこにあった。

もう20時だ。
家族はすでに夕食を済ませているだろう。
僕は家の鍵をそっと開けて、家族に見つからないように自室へと向かった。今の僕の表情は誰にも見られたくなかった。
自分の部屋の扉を開けた。
ベッドと、勉強机と、一本のテレキャスター。この部屋は殺風景だ、とよく言われるけど、このギターさえあれば僕は満足だ。

1年ぶりに窓を開けた。
籠っていた空気が、徐々に外気と混ざっていくのが分かった。
僕はテレキャスターを肩にかける。シールドをアンプに繋いで、刺さりっぱなしのヘッドフォンを引き抜く。
ボリュームを上げてチューニングもせずに、六本の開放弦を鳴らす。

ジャーン。


この音が響いている間は、僕だって透明になれる。

~完~

※この物語はフィクションです。

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