生きてるやつ全員努力してる
ビリギャル本人のツイートが流れてきた。
こんな内容である。このツイートが賛否両論を呼んでいるのを目にした。賛否両論という言葉が使われるのはだいたい否の方が多い時である。なのでビリギャル本人さんもこれに続くツイートやnoteを書いている。自分も一通りそれを読んで、努力とSNSについて考えさせられた。
ビリギャルや徳島のスタンフォードに行った人の本に対しての「元々頭の良い学校だった」とか「親に金があった」とかという意見は聞き飽きたしそんなのはもう大前提として知られていると思う。ビリギャルはいわゆる恵まれた環境にいたと思うし本人もそう書いている。聞き飽きたと書いたがやはり環境は人の行動要因に大きな影響を与えると思う。
ビリギャルさんが言いたいのは、「努力出来ない人は居ないけど、努力するもしないも自由だしそれを咎められることもない」という事なのかなと思う。それはその通りだとは思うけど、なんか足りない気がする。
とりあえず言いたいのはみんな必ず努力しているということ。一人一人の今があるのはそれぞれの努力の上に成り立っていることは忘れたくない。どんなに小さいものでも努力であることに間違いはないと思う。だから自分の努力が足りてないとか思って気に病まないで欲しい。
みんな何かしらの努力してるのは前提に置いて、その努力量が人によって違うし、努力量に影響する環境要因も人によって違う。ビリギャルさんのツイートに対する意見(主に否)は環境についてのものが多かった。あのツイートは努力するかしないかを自由に選択できる環境である事が前提になっている。ただ実際はそこまで辿り着けない人も多い。スタートラインは人それぞれだし、同じ努力量でも得られる結果も人によって違う。だから日々生きるだけで精一杯の人もいる。そもそも自分が努力出来るかどうかも分からない人がいることを考慮してないからちょっと炎上したのだろう。
あとは努力するしないできるできないは主観的なものだ。だから人と比べてしまうのは精神衛生上本当に良くない。そういった主観的なものに足を踏み入れて物を言うと炎上するのも無理はない。本人に人と比べる意図は無かったとしても。
ましてはTwitterの140文字で考えを全て正確に伝えるのは不可能に近い。言葉を選ぶってことは選ばれなかった言葉が沢山あるということでもある。選ばれなかった言葉こそその人を表していると思うし、そこを想像できるようになりたい。最近読んだ朝井リョウの「何者」にそんなことが書いてあった。実際ビリギャルさんがツイート後に書いたnoteはそれなりの文字数になっている。正確にものを伝えようとするとそうなる。書いてあることが全てだと思い込まないことがSNSをやっていく上で大事になるんだろうと思う。
努力っていうとなんか苦労して大きいものを手に入れるようなイメージが湧いてしまう。別に苦労してもしなくても努力は努力だ。だから気楽に行こうやとそういう気持ちで生きていきたい。どうなろうと案外どうにかなるだろうし。だからって頑張らないわけではない。自分で見つけることが出来た可能性に向かって自分なりに努力したいとは思っている。これは自分の考え。なんかまとまりが無いけどとりあえず思ったことを書いてみました。