ブッダは整った(サウナ用語)んじゃないか説
先に申し上げますが、私は仏教徒ではありませんが、ブッダの生き方に非常に興味があり、ダンマパダやスッパニパータ等を愛読しております。また、ブッダの人生的な本も沢山読んでいますので、馬鹿にする意図はもちろんありませんのでご了承下さい。
何なら大きなリスペクトからよくブッダならどう考えるのかと考える癖があります。
今日お散歩していて、ふと思ったんですよ。
幸せの裏には必ず苦があるよなと。
で、その最たる例がサウナね。
熱いサウナをぐっとこらえて、そのあと冷たい水風呂に震えながら耐えて、ただただ外気を浴びると、とんでもない幸福感に包まれるわけですよ。
普通に外気を浴びて気持ち良いなんて日々意識出来るならそんな幸せな事はないですが、どうですか?
朝仕事に出かける際に外に出てあぁ今日の外気気持ちいぃって思う?思わないよね?今日も仕事かだりぃとしか思わないよね。
今朝思ったよって方がいたら、それは夏の激しい暑い朝を体験した後、今の涼しい朝を体験するから感じれただけですよきっと。
このように世の中は表裏一体であるとつくづく感じる。
でね、話戻るんですけどサウナで整った時って世界がまわるというか、なんと言うか、私の少ない語彙力で伝えますと、後頭部が地面に引っ張られ、足には羽がついて飛んでいくし、目の前は縦周りにぐるぐるまわるんです。
これはもう何とも不思議な体験で、気持ちいいを通り越してこのままもうこの世には戻れないんじゃないかという怖さが出てくるんですよね。これが最高なんだ。最高に整った時は何かにやにやしながらヨダレを垂らすほどだ。想像してほしい。全裸で椅子に座ってにやにやしながらヨダレを垂らすおじさんを。。。うんそうだね。通報したくなるよね。
ブッダって6年間苦行を行って、これでは体を痛めつけているだけで悟りには至らないと思い、苦行を終えたらしい。
苦行というのは極端な断食、呼吸を止めたり、肉体への苦痛などなど。
苦行を終えた時にスジャータという女性から、乳粥をもらって食べてから、菩提樹という木の下で瞑想していたら何んやかんやで悟った言う。
極端な苦痛からの解放からの悟り。。。そうつまり整ったんじゃないのか?
エンドルフィン分泌で整いまくったんじゃぁないのか?
そうして仲間にこう言ったんだ。
「整ったよ」ってね。
それを聞いた仲間が伝言ゲームをはじめ、最終的に悟ったという言葉になったんじゃないかな。
口伝ってそういうもんだから。
例えば
田中→吉田→山田→井上で伝言ゲームをやったとしたらこうなる。
田中→吉田
鹿捕ったからみんなで食べよう
吉田→山田
田中が鹿皆で食べようって言ってた
山田→井上
田中って皆鹿らしい
井上→田中
田中って鹿なの?
田中→親
ねぇ僕たちは鹿なの
親→田中
そうね。私たちは鹿だし鹿は私たちなのよ。
田中→井上
そうだね。君も鹿さ。
この原理で整ったが悟ったになったんだと推測するね。私はそう推測するね。
まぁ冗談はさておき、冒頭に申し上げたとおり、幸せの裏には苦痛があることを考えると、先に6年間苦行をして徹底的に痛めつけてからの日常は最高だったんじゃないかなと予想する。
でねこの時にふと思ったんだけど、物事は表裏一体であることを考えると、大きな幸せを求めるってことは逆に大きな苦痛を求める事になるんじゃないかな。
幸せになりたい、大きな幸せが欲しい。を逆にすると苦痛を下さい、大きな苦痛を!!!ドMかよ!!!って事な気がしてきたんだよね。
この事に気付いてからとても幸せなんだよ。なぜなら今何もないの。苦痛も舞い踊るほどの幸福も何もない普通の状態。これでいいんじゃないのか。逆に定期的に自分の耐えうる範囲で負荷をかけて、何もない状態に戻してってやるだけで人は幸福になれるんじゃないのか?
そんな感じ!!!