名言で勝手にエッセイ 【14】
※ 2024年8月26日、若干の加除訂正をいたしました。
本日の名言
ようこそ、このエッセイに辿り着いてくださったご縁に感謝いたします。
今回は、ジャン=ジャック・ルソーの言葉を借りてみます。
社会契約説や一般意志といったキー概念を、
フランス市民革命の時代に提供した(複数人のうちの)一人として。
連綿と、日本国憲法の礎にもなっているとされる、
これらの概念は今でもしばしば言及されます。
なので、政治が嫌いであっても、
ひとまず知っておいて損はありません。
とはいえ、
後出する、彼の立場の矛盾に係ってしまう言葉なので、
金言かというと銀言くらい?でしょうか。
他方、載っている著作についても後出しますが、
教育者にとっては名著の一つなので、
そこに載っている以上は金言かも?
原文(英文)
ここで本日の名言の原文です。
彼はフランス語で叙述しているので、これは英訳文です。
『エミール』の冒頭句。
🔵試訳
※ degenerate は退化するというニュアンスらしいのですが、善なるものが退化するのだから悪化という風に訳しています。
はて法律学や政治学に広まったものと、哲学の取り扱うものは同じなんだろうか😅
法律学、それも政治学とのクロスオーバーした領域では(まあ公法なんて呼ばれていますけれど…今の日本におおやけなんてあるのかどうか…五輪のような、わかりやすい国威発揚イベントでも中抜き・私益のイベントになっていましたし)、講学上、次のように言われます。
トマス・ホッブズ考案の、
「リヴァイアサン」なる魔物を「国家の暴力」と見立てた構図を、
克服する一助として、ルソーは社会契約説を編み出した。
というような説明がされます。
ホッブズ自身も、先駆として同旨のことを書いているみたいですが。
後世のルソーのは、洗練版ということでしょうか。
哲学者のツッコミなどもありえましょうが、
法の世界ではそんな感じの捉え方です。
つまり、
「万人の万人に対する闘争」を放置放任していたら、
弱肉強食でケダモノの世界です。
(ん?現在進行中の新自由主義的な経済観って…😅)
そこで、フィクションですけど、
「互いを領域侵犯しないで秩序を創って行こう」という合意をしたと。
そのときに、
皆の総意という以上の意志が作用していて、
すなわち、
一般意志(日本の右翼政治家なんか喜びそうですけど)により、
「社会なる秩序を構成しましょう」と合意にサインした(生まれたての赤ちゃんから、死にかけている人まで全員で)という擬制があるんだと。
それが、社会契約という名の契約なんですよと。
彼(ら)の妙案のおかげで、巡り巡って、
戦後憲法秩序が日本において成り立っている、
ともいえるわけです。言い過ぎか。
典拠
一行目👇が今回の名言です。
比較のために
ルソーとホッブズの考える社会契約の異同を解き明かしたら僕にも教えて下さい。😅
🔴名言に対し、素朴な疑問
あれっと思いませんでしたか?
彼は自然を愛する自然主義者だけど、
自然が生んだ人間は信じてません。
人間主義者(いわゆるヒューマニスト)ではないんですよね😅。
人間を除く自然のみを愛しているナチュラリスト。
どうやってベン図書くんだろう。うーむ。
人間も自然発生の存在なのですから、
その点は二律背反し、アンナチュラルですよね?
(彼の脳内では例えば、聖書の伝説のとおり、土塊からできた人形に魂がビルトインされた、別枠扱いなんだろうか…)
だいたい、西洋文明論は人為対自然、自然の超克という形式で語られる(騙られる?)ことが伝統的であることからすると、ルソーは都合よい先例にあたるんでしょうか?
昔読んだ評論に、
庭を題材に日本と西洋を比較文化論の対象にするものがあったんですね。
西洋の庭は、宮殿前の刈り込みなどを観るとおわかりのように(まんまるだったり四角だったり不自然ですよね)、曰く、自然を人為がコントロールしているということを示したくて仕方ないアートなんですよね。
これに対し、
日本庭園は人間も自然の一部なので、
庭にも自然を再現しようとすると。最近の西洋化したデザイナーは知りませんが。
こういう文脈では、
ルソーは「自然に還れ」という方向性のことを言った、
として文明牽制に使われる。本日の名言も同旨です。
このときは、自然と人為は二項対立です。
でも、社会契約説のときは正反対なんですよね。
法学者による、彼の哲学の援用が間違ってるのかもしれませんが(えっ)。
「万人の万人に対する闘争」は神が創った人間の所業ですよね?
なら自然のまま、争いっぱなしで良くないですか?
(今の権利感覚ではなくて、純粋に論理性の操作だけですが…。)
でも、社会契約という人為で乗り切ったのだという。
このときだけは、ルソーが性善説化したんですかね。
しかも、自然と人為の二項対立を融和的に解して。
この違和感は、さっき書いた、
ルソーのダブスタがいけないんですよね…多分。
ナチュラリストだが、ヒューマニストではない。
っていう立場が自分を両義的にしてしまう。
自然を愛するが愛してない。
人類を愛さないが愛してる。
えーいどっちだよみたいな…。
庶民的には、愛憎相まって併存してるんだろうなと察しはつきます。
今のご都合主義な日本における、
心情右翼とか心情左翼みたいなことで。
「そうはいうけどさ、でも本音と建前って別だろ」みたいな。
だが、思想家の論理性としてはどうなんだろうと。
とはいいながら、
法学、哲学、政治学共に、
史上、燦然と輝く思想家なんですよね…うーむ。
歴史を創る著作には、論の運び、理路こそが大事ということか…多少の破綻があったとしても(違?)。
蛇足
『エミール』は教育論の名著として、今も影響しているそうなんです。
教育学者や現役教師のみなさん、間違っていたらすいません。
いわゆる消極的教育論だというんですよね。
しかし、上記の両義性はここでも邪推を生むんです。
消極的教育で良いのだ(何もせずとも子は育つよ)と、
通説風に読むならば、性善説的になりますね。
どうしてもまずい、というときだけ介入する。
最小限度の矯正を教師はする。
基本、見守るだけみたいな。
なんせ子供は天賦の存在ですから…。
この帰結は、
この場合においてはご都合主義的に、
造物主から賜った子宝みたいに
ピュアに捉えているからです。
そこに本日の名言を接ぎ木すると、
「邪悪な大人が色々悪知恵を授けると、悪に染まってしまうだろ」と。
それどころか、「善意の教師もすっこんでろ」と(ここらへんで議論百出でしょうね)。
でも、ヒューマニストでなく、
ナチュラリストとしてルソーの言葉をみると、
ヒトであるだけで生まれた時から反自然、邪なんじゃないの
ともいえるわけです。性悪説で。
当初の仮説が正しいとすればですが、
彼は人間を除く自然のみを愛しているきらいがあるので…。
(いや大人だけが嫌いで、可能性に開かれた子供は別って切り分けかもしれませんが…)。
その場合、中国の法家思想みたいに、
「邪悪だからこそ矯正しなくてはならない」となって、
子供のうちから法や教育で正そう、となる。
西洋教育(初等教育は優しいのに?)も、
年齢が上がるにつれ、そうですね。
大人になるといきなり
懐疑主義、性悪説に切り替わってしまう。
西洋教育をパクる日本はその傘下。
大人になってから「自然に還れ」っていうと、
頭のおかしい人扱いですけどね…。
さてどっちがおかしいのか…。
可笑しいですね、もう、よしときます。
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