かしましかしましまし Vol.14(藤居) ~愚か者になろう!〜 Part V
先日読み終わった本がありまして、いろいろ思うことがあったのでここにつらつら書かせていただきます。その名も「推し、燃ゆ」。
宇佐見りんという現役大学生の女性作家の作品なのですが、若干21歳にしてこの作品で芥川賞を受賞されております。鬼才ですね...。
僕も実は何度か小説を書いてみようかななんて思ったことがあったのですが、そもそもの話、物事を描写するのってめちゃくちゃ難しくないですか?
小説に限らず普段から目にする文章って、何かしらのイメージなり事物の動きを描写していると思うんですが、これこそがまさに著者の感性そのものであって一番試されるし難儀な部分なんだなと改めて痛感しました。
歌詞を書くのもかなり時間かかる方ではあるんですが、小説に至っては書けた事がありません。何が違うのかなと考えた時に思い至るのはメロディの存在でした。
僕はいわゆるメロ先(メロディ先行)タイプで、歌詞から曲を作った事がないのですが、このことにも由来しているのかなと思います。
つまりメロディに言葉をはめるという一つ制約というか縛りがあってこそ言葉が出てくるイメージなんです。
話がそれました、「推し、燃ゆ」でしたね。
ざっと概要を話すと、男性アイドルにハマっていわゆる「推し」ができた主人公の女子高生が自身の生活、生きる糧を「推し」の存在に依存し、ヒートアップしていくことで徐々に主人公を取り巻く人間関係が崩壊したり体を壊したりするなどの破滅を招いてしまうお話でした。(死ぬほどざっくりです。)
この小説で印象的なセリフというか比喩がありまして、主人公の姉や母、友達の女の子などが生活の中で感情的になる場面や他の生徒たちが生き生きと体を動かしている場面で、主人公は「肉体」という言葉を使ってその光景を表現します。感情的になることで動く顔の肉や運動することで躍動する体をどこか他人事のように(自分にももちろんそれらはあるのに)観察するしている様子が度々見られます。
かたや主人公は「推し」に生活の全てを捧げていく中で自分自身が「背骨」に集約されていると表現します。「背骨」とはすなわち自分を成すために真っ先に必要な「枠」のようなものです。それ以外は、副産物となり「背骨」の周りを肉付けしていくものになるのです。
もちろん「背骨」へと集約していく、つまり肉を削ぎ落としていく過程で先に述べたように主人公は疲弊し一般的にまともな実生活が送れないようになっていきます。
ただそれに至るまでの描写は迫真そのもので、ここで感じた凄まじいエネルギーに喰らってしまって今こうやって駄文を連ねておる次第です。
行ってしまえば宗教ですよね。「推し」のために命を投げ出すとかそういうことではなくて、逆に自分が信じる「人生」をただ「生きていく」ために「推し」がいるといった感じで、ここもまた好きです。
さらに言えばこの主人公は「推し」に認知されたいとか直接的な見返りを求めることは全くしません。ただただ「推し」を眺め、知り、幸せを願うことにまた自らも幸せを感じているのです。
こういう利他的なエゴイズムってあんまり普段誰かに見出したり、自分の中に生まれたりすることないんですよね。多分他の人もそうだと思うんですが。
でも案の定というか、こういう特別な思いに支配されてる人は周りに理解を得られないことも多いです。実際主人公は母や姉にとっての「やらなきゃいけないこと」ができないということからこの特別な一面にドン引きされちゃってます。
この小説では「利他的なエゴイズム」が「推し」という存在に向けられてますが、いろんなものがここに言い換えられます。それこそ信仰する「神様」とか。
熱心に何かを「信仰」するということは、そうなろう、今日から始めようとかって言ってできるものじゃないと思うのですが、僕もいつかそういう感性、感覚を味わってみたいです。多分ものすごく幸福なことだと思うのです。
というわけで本格的に本筋と関係ない導入でしたが、とても面白い小説に巡り会えたのでつい長々話してしまいました。皆さんもぜひ書店でお求めください。
切り替えまして、今日も歌詞解説頑張っていきますよ!
つまり僕らの選択して残してきた痕跡が「季節感」に押し流されて「次第に目に映らなくな」ったとしても、それがそこにあったことや押し流されて見えなくなった事実を覚えているならそれでいいだろうということです。その記憶が「不安定」な僕たちの環境に対して、今度は自分たちなりに乗りこなそうとするのか、はたまた過ぎ去っていくのを傍観し続けるのかという新たな選択につなげてくれるわけですね。そのヒントを教えてくれます。
前回のあらすじとしては、サビの解説、特に「痕跡」というワードに対してしつこく追求してましたね。なぜ見えなくなる、わからなくなっていく「僕らの痕跡」を「気にしなくていい」としたのか。
僕の出した答えは上にある通りです。その「痕跡」が記憶として残っているならばまた新しい選択肢が生まれるだろうという考え方です。「記録」を「痕跡」と呼ぶならばこの考え方はあくまで「記憶」であり、この両者には「自分」と「他者」の関係性とも照らし合わせられるような気がします。多少荒っぽい気もしますが。
そんなこんなでサビも終わりまして、次の展開へ行ってみましょう!
次は一応位置付け的にA3としております。
このバースは今までの歌詞よりも具体性があるというかオブジェを多用したものとなっています。描写の色彩やそこに置かれているオブジェが既に明示されていて、まだ雰囲気は伝わりやすいかなあと思います。
まず「雨雲」について。多分この連載の5回目くらいでつらつら愚痴ってたと思うんですが、僕は雨が降ろうと雪が降ろうと台風が来ようと自転車で約10キロ漕いで職場へ通勤しております。その際レインコートなどの防水を施すのですが、まあ重いし蒸れるしで着く頃にはクタクタになっているのです。
そんな中ふと信号待ちなどで見上げた雨雲はまさに大気をふさぎこまんとするように「のしかかる」ような質量を感じます。(当たり前ですが比喩です。)
つまりこの「灰色」には塞ぎ込んだ燻ったような思いを抽象化しております。
それに関しては今まで解説してきたA1、A2の部分を読んでくださった方は簡単に腑に落ちる心情だと思います。
「ほこりっぽい螺旋階段」もほぼ同じ意味合いを持ちます。「明滅する白色灯」が照らし出す「ほこりっぽい螺旋階段」は息苦しく終わりのわからない「灰色」空間です。
ただこの文章で最も汲み取っていただきたいのが、そんな環境下でもこの主体は「上へ」歩き続けているということです。上がっていった先に何かあるのかもしれないという、「希望」というよりかは「好奇心」のようなものをそんな「灰色」空間に刺激されるのです。
息苦しい「閉塞空間」の中にいると知覚、あるいは自覚してしまった時、やはり大半の人がその外に出てみたい、知ってみたいと思うのではないでしょうか。
些細なものでもいい、僕はこういう「ここじゃないどこか」へ向かおうとする「好奇心」をA1、A2、そしてサビの内容を一歩先に進めたその答えとして、ここで提示しています。
好奇心って単語僕はめっちゃ好きなんです。
次週へ続く。