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言葉を聞いて書く仕事の意味と残酷さ

 朝日新聞出版のnoteで『お空から、ちゃんと見ててね。〜作文集・東日本大震災遺児たちの10年』(あしなが育英会編著)に収録されている一遍が公開されていたので、シェアします。震災でお父様を亡くした女性に、今の気持ちを書いてもらった文章です。

 この本のなかで私は当時、小学生だった方たちに取材したのですが、時間が経ったことによる取材の難しさを思い知らされました。以前から信頼関係を築いてきたわけでもなく、ポッと行って聞くということは、ここ1カ月ほどの間、大量に出回っている記事の記者&ライターと同じ立場です。

 話をうかがいながら感じたのは、過去と地続きで今の言葉が語れる人がいる一方で、語る言葉がガードになってる人もいることでした。聞く側の希望に合わせて語っているのではないだろうか、そうすることで自分を守っているのではないか、と感じる部分があるのです。

  そういう感覚に触れると、話を聞いて文章を書く自分の仕事に、果たして意味があるのだろうか、と考えてしまいます。センシティブな部分に気がつきながら、それでも言葉を引き出していく残酷な行為を仕事にしているからです。

 どんな報道でも、出版にも、書く行為には暴力性が秘められています。公表する文章を書くことは、他人から見える形にするため、何もない場所に、一文字一文字ゴリゴリと、彫刻を彫るのに似た行為だからです。

  私はあるときから、自分が書くためなら、ある種の禁忌の区域を飛び越えてしまう暴力性を持っていることを自覚していました。だからこそ、近寄らないように、生活実用寄りの仕事をしてきたはずなのに、東日本大震災をきっかけに、社会寄りの仕事もするようになっていることに、やるせない気持ちもあります。自分にはその資格も技量もないと思うからです。長く仕事をしていると、不思議な縁で、ある方向に向かわされることも多いので、書いてきた仕事に何らかの意味はあるのだろうとは思うのですが。

 ライターとはどんな取材であっても、相手が持つ壁を突破して、その瞬間でしか出てこない言葉を引き出すために、耳を傾ける仕事です。鮮度の高い言葉を探し続けるハンターのようなところがあります。ですが、何年経っても、むしろ経験を積めば積むほど、その探求は難しくなり、手も足も出ない感覚に陥る場面が出てきます。この仕事を始めた時、大先輩から言われた「年を取れば取るほど、しんどさが増す仕事」と言われた意味が年々、重くなるばかりなのです。

 東日本大震災に関係する本でも、こちらのほうが、イタコのような仕事だったので、まだ自分に合ってたのかなぁという気もします。

仕事に関するもの、仕事に関係ないものあれこれ思いついたことを書いています。フリーランスとして働く厳しさが増すなかでの悩みも。毎日の積み重ねと言うけれど、積み重ねより継続することの大切さとすぐに忘れる自分のポンコツっぷりを痛感する日々です。