Bounty Dog 【14Days】 43-45
43
絹鼬族の青年は、顔面が蒼白していた。絶望感に顔が歪み、首まで伸びた白い髪が逆立つ。
自ら危機を招き入れたヒュウラは、全てを無視して天井を見上げている。机だった瓦礫の中に転がっている電動ミシンが脛に当たると、振り上げた足で強打して踏み潰した。
プラスチックの表面が割れ、中の鉄が砕ける音が響く。カーキグリーンの革靴に絡まった色取り取りの縫い糸と糸駒を見てから、再び顔を人間達の寄り集まる作業場の入り口に向けた。心の内が一切読み取れない人形のような表情をする亜人に、身震いした作業服の男は猟銃の銃口を向けて叫ぶ。
「害獣だー!殺せー!!」
アンテナが付いた機械仕掛けの首輪が、電灯から注ぐ人工の光に照らされる。命を奪う鉛玉を出す様々な形状の人間の武器が、大勢の人間達の手に1丁ずつ掴まれて、無数の金属音を鳴らしながら束のように向けられると、
ヒュウラは動いた。
瞬く間に白髪の青年を肩に担いで、背中の斧の刃を前に掲げる。雨のように発射された弾丸の全てを弾いた巨大な盾は、直ぐに武器として横振りされる。机が天地に両断しながら薙ぎ払われると、阿鼻叫喚する人間達が放つ狙いの狂った銃弾の幾つかが、天井の照明を砕いて金網を持ち上げる。
バランスを崩した金網が鉄骨から数枚ズレ落ちると、ヒュウラは目を見開きながら硬直している青年を担いだまま壁に向かって走る。
両手で掴んだ斧の柄を、走り高跳びの棒のように地面に突いて飛び上がる。斜めになった金網に三角跳びをして鉄骨の上に乗り上がると、2本の鉄骨の間に被せるように、巨大斧の刃を倒し置いた。
人間達が下から無数の銃弾を放つ。ヒュウラは刃の上に乗ると、足で勢いを付けて橇のように鉄骨の間を滑った。
刃が弾を全て弾き防ぐ。変幻自在な使い方をされる巨大な人間の狩り道具は、鉄骨のレールの途中で重心を傾けられて、持ち主の手に再び柄を掴まれる。背負われた巨斧の刃に鉛の弾が当たっては音を立てて弾き飛ぶと、つの字のなって背負われている白髪の青年が、言葉にならない声を吐き出した。
「ふええええー、やっぱりあんた凄えや!このまま上に行ってくれ!きっと何処かに仲間の革がある!!」
興奮しながら指で天井を指してくる青年に振り向きも返事も反応もせず、ヒュウラは鉄骨から鉄骨へ軽々と飛び移って行く。俊敏さに付いて行けない人間達が、統制の取れていない個々の行動で絡まって混乱に乗じている中、ヒュウラは足で壁を破壊して通路に飛び降り、階段を駆け登って最上階へ行く。
「4階に行った!あの部屋には絶対に入れるな!彼処には」
漸く情勢が取れた人間達の群れが、慌てて後を追おうと無傷の方の奥側の扉を開けて流れ込もうとした時、
轟音が鳴り響き、激しい振動が起きた。
突然の地震に群衆はますますパニックになる。気を落ち着かせた数人が通路を抜けて踊り場に入ると、
半分以上崩れた段を見て、金切声をあげた。
「階段が壊されてる!誰も上に登れない!!」
人間達を階下に置き去りにしたヒュウラは、白髪の青年を担いで薄暗い通路を直進する。最上階も他の階と同じような作りだったが、一部の扉に鎖が張り巡らされており、天井からぶら下がっている監視カメラの台数が急激に増える。
厳重な防犯対策が施されていると一目で分かる光景に、青年はヒュウラの肩に乗ったまま深い溜息を吐く。被りを振るように首を左右に大きく揺らすと、鎖が這う扉達を一枚一枚凝視した。
独り言のように呟く。
「噂でしか知らないけど、おれの種の革は兎に角、人間の女受けが抜群だったらしい。身に付けてると、それだけで女同士の優劣が付いちまうんだってさ。下らないと思わない?身に付けたり物を入れる物で張り合ってるとか。生き物から剥いだ皮を身に付けて偉そうに自慢するんだぜ?キチガイだよな」
ヒュウラは顔を向けてきた。表情は無いが、思っている事を推測した青年は捕捉する。
「あ、キチガイっていうのは未だ人間達が使ってる言葉。さっき下でも身に付ける物を作っていたけど、それって素材変えただけだよな?素材を変えて、ただ我慢してるだけだ」
青年は一点を見つめると、ヒュウラの後頭部を平手で叩いて指示をする。人差し指で通路の最奥にある小部屋を指し示すと、鎖に南京錠が何個もぶら下がっている金属製の扉の前で静止させた。
青年は灰色の小さな目を釣り上げる。
「身に付けたいって欲望はそのままじゃん。だったらいずれ欲しくなるのは、やっぱり”本物”なんだよ」
ヒュウラは斧で鎖を両断して、扉を蹴り壊した。周囲の壁ごと抉れた金属の板が、床に倒れて周囲を震わせる。肩から降りた絹鼬族の青年が部屋の中を歩いていくと、光の無い真っ暗な空間に、通路から注ぐ僅かな光が配置された物達を照らし出す。床の上に置かれた段ボールは口が開いており、中には様々な生き物の革らしき素材が煩雑に入れられている。
青年は、最奥にあった天板の広い机の前に立つ。身に着ている草臥れた上着とシャツの袖を捲ると、腕に満遍なく生えた白い艶やかな毛と、机の上に置かれた数十枚の白い美しい毛皮を見比べた。
青年は眉間に深い皺を寄せる。綺麗な長方形をしている同族の皮は、たった2枚だった。その他はバラバラに切り刻まれて、側に置かれたフラスコの薬液の中に漬けられている。フラスコを文鎮のようにして、人間の文字と図が書かれた書類も置かれていた。素材についての成分データを示しているものらしく、殴り書きのように金額を示しているらしき数字のメモが幾つも幾つも記されている。
青年は壁に目を向ける。白い艶やかな毛が生えたオールレザーの鞄がフックに掛かってぶら下がっていた。その横に、類似する別の生き物から剥いだ皮で作ったオールレザーの鞄が、並んでぶら下がっていた。
ヒュウラは穴の空いた入り口で腕を組みながら立っている。奥から聞こえてきた、乾いた笑いが大笑いに変わったものを聞き取っても、顔のどのパーツも微塵も動かなかった。
笑い声が止むと、直ぐに泣き声になって、恨み声になる。
「悔しいなんて思わねえが、畜生だとは思う」
青年は机の上の毛皮と、壁に掛かった白い毛皮の鞄を掴んで回収すると、踵を返して入り口へと歩いていった。
足首から伸びる吊り革が、地面に引き摺られる。
「”本物”でも飽き足りないのか。人間は何でも食い潰すのが早過ぎるんだよ」
ヒュウラは無表情で淡々と後に付いていく。両手に形見を抱えた亜人の青年は、部屋から離れて少し歩いてから立ち止まると、困り顔をして振り向いてきた。
ヒュウラは返事しないが、足で床を強打した。床厚と天井厚の2層構造は一度では壊せず、5、6回踏んで漸く1人が通れる程の穴が開く。
足を持ち上げたまま、ヒュウラは右足に絡まった駒付きの糸束を一纏めにして外す。青年が穴の中を覗き込もうとすると、相手の右足から伸びている吊り革の輪に、背後から糸束を結び付けた。
振り向いてきた青年が、苦虫を噛み潰したような顔を見せて抗議する。
「だから、おれの足で遊ぶのは止めてよね。どんどん変な物付けられて、歩き辛いんだけど」
返事も反応もされない。溜息を吐いてから小さく被りを振った青年は、表情の無い顔で見つめてくる虹彩が金、瞳孔が赤の不思議な目を凝視しながら呟く。
「もう良いや。まあこれで、おれの頼みは終わったし。あんたはさっきの見て何か思った?おれはな」
返事は無い。青年は視線を外して穴を一瞥する。次に両手に抱えた仲間の革を見てから顔を上げて、作り物のような見事な笑顔をした。
「まあ、直ぐに分かるさ」
青年は穴の中を暫く覗き込むと、暫く首を斜めに傾けてからヒュウラに振り向く。伏せていた体を立たせて脇を通り抜けると、崩れた階段フロアに近い部屋の手前で足を止めた。施錠されていない扉を開けて中に入ると、直ぐに出てきてヒュウラに声を掛ける。
「御免だけどさ。こっちに来て、もう少し大きな穴を開けてくれない?下の様子がハッキリ見たい」
ヒュウラは応じる。何も置かれていないだだっ広い部屋の中央で、床を十数回踏んで2人横並びで通れる大きさの穴を開ける。
青年は満面の笑みを礼のように返してから、穴の中を覗かずに飛び込んだ。目を若干釣り上げたヒュウラは、無表情に戻って後をついて行く。
床の下は、先程逃走劇を繰り広げた3階のDフロアだった。
2種の亜人は、有象無象の人間達の声が飛び交う空間の、天井付近の鉄骨に被さった金網の上に着地する。青年は身を伏せて顔を下に向けるなり嘔吐したような声を出した。渋い顔をしながら、遥か下の地に立って此方を見上げている人間達を眺める。
「うわ、未だいっぱい居るよ。あんたの仲間の人間達は、未だ来てなさそうだけど」
青い作業服の老若男女の人間達が、険しい顔をして人差し指と銃を向けてくる。デルタやミトの姿は何処にも見当たらなかった。ヒュウラは青年の横に伏せて様子を確認する。
横並びになった亜人達は、暫く人間達を天から観察する。絹鼬族の青年は小さな溜息を吐くと、目を鋭く釣り上げて呟いた。
「まあ人間の数が多ければ多いほど、おれは凄く良い。呼ばずに済んで楽だし、結果オーライ」
仲間の革と鞄を抱えた両腕を震わせる。身を持ち上げて仁王立ちをした青年は、見上げてくる人間達に目を合わせると、
無表情になって、亡骸達を放り捨てた。
乱雑に宙を落下していく革と鞄を、地に居る老若男女達は腕を上げて手に入れようと待ち構える。床にぶつかって転がっていく革達に群がる人間の様子を一瞥してからヒュウラに振り向いた青年は、微笑んだ。目に生気が宿っていない作り物の笑いを顔に貼り付けながら、口だけが饒舌に動く。
「ん、そろそろ言っとくよ。あんたや他の亜人の奴らは知らないけど、おれの種は仲間の死に、別に何とも思わない。狩られた方の自業自得だし、墓とか遺品も作らない。あれだって人間だけがしてる、しょうもない事の1つだと思ってる」
ヒュウラは返事しない。再び身を伏せて笑顔を見せてくる青年を凝視しながら、首に付いた金属製の発信機に手で触れようとすると、
青年は自身の手で行動を防止してきた。掴む手は両の手になり、首輪を強く掴む。
奥に闇を宿した灰色の目が、三日月形に細まった。
「おれ、演技上手だったろ?おれがあんたを此処に連れて来たのは、あんたを人間に狩らせて逃げる為。形見取りだと騙したんだよ、犬野郎」
44
地に群がる人間達は天を仰いで鉄骨の上を見る。鼬の亜人は口を大きく開けると、声を張り上げた。
「人間ども、よく聞け!!こいつの目、片方で5億って金になるんだってさ!!」
「おく!?」
「金ってお前達には、どんな物よりも欲しくて堪らないモノなんだろ?!おれの皮よりめちゃくちゃ手に入るぞ!!」
ヒュウラの目が鋭く釣り上がる。片手を動かして青年の足から伸びている吊り革の輪を掴むと、青年は尖った歯を見せて大笑いする。
猟銃を構えている人間の男の目が輝いた。絹鼬族の革を持った別の男も、高揚して声を張り上げた。
「噂で聞いた事あるぞ!嘘だろ、こんな所にも居たのか!?」
「一攫千金の化け犬だ!!捕まえろー!!」
「ばいばい、外来種」
首輪を掴んでいた青年の手の形が平になる。心の底からの笑顔を見せると、ヒュウラを突き飛ばした。
ヒュウラは目を見開いて、バランスを崩す。吊り革を持った手を引っ張ると、足を釣られてバランスを崩した鼬の亜人を巻き込んで、一緒に落ちた。
背中から落下する亜人が背負った巨大な斧が、下で待ち構える人間達を数人潰す。床に叩き付けられた鼬の亜人が鼻血を出しながら大きな舌打ちをする。身を起こそうと右足を引っ張るが、ヒュウラが足首に結び付けられた吊り革の輪を掴んで離さない。
ヒュウラは仰向けからうつ伏せに転がると、巨斧をバリケードのようにして身の上に被せる。人間達が斧に乗ってくる。乗ってくる。斧と床の隙間から手が伸びてくる。手が伸びてくる。銃が何本も突っ込まれる。罵声が響いて銃が引っ込む。
限界まで目を見開いたヒュウラは、鼬の亜人の背中だけを見る。相手の足首に繋がった吊り革を掴む手の握力が緩みだす。ヒュウラの片足を捕らえた数本の腕が斧から引き摺り出そうと力を加えると、
白銀のショットガンが、火を吹いた。
部屋に突撃してきたデルタ・コルクラートが銃を構える。ポンプアクションでの給弾(リロード)を素早くして斧に張り付いている2、3人を狙撃して吹き飛ばすと、足を掴んでいる数人を更に撃ち倒してから叫ぶ。
「ヒュウラ!何も蹴るな!そのまま動かなくて良い!!」
ヒュウラは鼬の亜人の青年から目を逸らさない。仕切りに後ろに振ってくる細い足のキックを顔面に受けながら、感情の宿らない金と赤の目が、吊り革に結び付いた糸の束を凝視する。
爪先の破れたボロ靴を履いた足に、鼻を蹴られて血が出る。ヒュウラは手を吊り革の輪から離すと、素早く反対の手で糸束を掴んだ。
解放された鼬は、人間達の間をすり抜けて逃走する。
ミリタリージャケットの上に鎧を付けた集団が部屋に流れ込んでくる。阿鼻叫喚して罵声を上げる男達をショットガンで吹き飛ばしたデルタは、亀の甲羅のように覆い被さっている巨大な斧の刃を掴んで横投げした。
斧が半回転して床に倒れる。デルタはうつ伏せになっているヒュウラを持ち上げて後ろから抱えると、茶色いざんばら髪をクシャクシャにして撫でた。
「やっと捕まえた!この馬鹿犬、連絡は絶対にしろ!!」
ヒュウラの左手に掴まれた糸束が少なくなっていく。数本の鮮やかな糸が、手から遥か先に向かって真っ直ぐに伸びている。
素早くポケットからティッシュを取り出して超希少種の鼻血を拭ってやると、デルタは片腕でヒュウラを抱えたまま怒鳴った。
「我々は『世界生物保護連合』3班・亜人課だ!此処に絶滅危惧種が2体いる。1体はこいつだ!絶対に手を出させない!!」
そのまま手に掴んだ通信機を口に当てる。大騒動が巻き起こっている空間で、冷静に部下へ指示を行った。
「部隊全員、発砲を許可する。ラグナル保護官、其方は任せた」
「了解しました、リーダー!」
呻き声を出して床に倒れている作業服の人間達を飛び越えて、ミト・ラグナルは走った。サブマシンガンの照星(フロントサイト)を覗き込んで、目の前に現れる人間達を打ち倒していく。
鼬の姿は部屋に無い。ミトは部屋を出ようとすると、背の高い作業服の男が猟銃を構えて叫んだ。
「お前達!人間を撃ち殺して平気だとか気が狂ってる!!他の生き物を保護する組織だったら、人殺しをしても良いのか!?人間は殺しても良いってか!?」
「いいえ、誰も私達の攻撃を受けて死なないわ。私達保護部隊は、麻酔弾しか使わない。人間だって喪失”ロスト”させない。どんな命も殺さない」
ミトは照星から目を離さずに答える。猟銃の口が火を吹くと、ミトは横に転がって銃撃を避けた。直ぐに起き上がり、安全器(セレクター)を単発(セミオート)に指で動かして発砲する。
猟銃の男は仰向けに倒れた。微量の血を胸から流して眠りに付く。周囲の作業員達が怒号と悲鳴を上げると、ミトは目を釣り上げて叫んだ。
「だけどお前達は違う!あの亜人は最希少絶滅危惧種。彼を今、傷付けようとした。国際法違反により、全員纏めて逮捕する!!」
サブマシンガンを構えてミトが通路に出ようとするが、行く手を複数の人間に阻まれる。踵を返して背後に目を向けると、銃撃する部隊の皆に囲まれた中央に、ヒュウラとデルタが立っている様子が見える。
鳩尾を抱えられて爪先立ちをしているヒュウラが、何かを持っている左手を上げながら背後のデルタに振り向いている。ミトからは後頭部が見えており顔は全く見えないが、何かを話しているらしく、デルタは目を見開きながら首を縦に振っている。
デルタもヒュウラに何かを言っているが、けたたましい周囲の騒音で内容は聞きとれない。程なくデルタが右手をヒュウラから離すと、ヒュウラは床に倒れた斧を取り上げて背負い、走った。
ミトの傍を通り過ぎて、人間達を飛び越え、部屋を出て行く。ミトは叫んだ。
「ヒュウラ、待って!何処に行くの?!」
追いかけようと駆け出して直ぐに、肩を強く掴まれる。背後に立っていたデルタは真顔で被りを振ってから、代弁した。
「保護だ」
ヒュウラは階段を降りて2階の通路を走る。左手に掴んだ糸の束を見ながら、ポケットから打撃式の注射針を取り出して、口に咥える。
手から伸びる裁縫用の糸は、ロープのように太く絡まって、先を行く保護対象(ターゲット)を繋げる。アルミで出来た業務用の糸巻きに絡んだ糸を巻き付けながら追跡を続けていると、糸が突然地面に引っ張られた。相手が下の階に移動しようとしている。
ヒュウラは立ち入り禁止の置き看板を飛び越えると、監視室を通り過ぎ、角を曲がって通路を走る。程なく床に大きな穴が開いている場所が近付いてきた。己が斧を取り出す為に踏み開けた穴。今は落下防止のバリケードに囲まれている。
ヒュウラは無表情で、左手に握っている糸巻きを斧の柄に結び付けて、斧ごと手から離した。地面にぶつかり跳ねながら、断続的な音を立てて斧と糸巻きは遥か先へと消えていく。ヒュウラは顔を伏せて床を見つめると、バリケードを1基巻き込んで穴の中に飛び込んだ。
横向きになって穴に入った看板を、足で強打して跳ね飛ぶ。ひしゃげたバネ代わりの鉄塊を見捨てて、高速で通気孔を移動したヒュウラは途中で身体を捻り、腕で天井を押して床に開いた四角形の穴に潜る。1階入り口の天井から飛び出たヒュウラは、半回転してケーブルの伸びたシーリングファンの上に乗った。ケーブルが千切れる。ファンが外れて落下する。
鼬の青年が下にいた。入り口まで走ろうとして、天を見上げて、目を大きく見開いた。
シーリングファンが地面にぶつかる。
鼬は急停止をして横に飛んだ。鉄の棚に身がぶつかって横向きに倒れる。捻れたファンの羽がくるくる回りながら火花を散らす。ヒュウラの姿はその上には無い。
ヒュウラは棚の上に飛び移っていた。地面に降りて鼬に近付く。相手の右足に嵌った吊り革の輪から伸びる糸を左手で掴んで辿りながら強く引くと、鈍い金属音が幾度と響いてから、巨斧が奥から飛んできた。
刃が2つの棚にぶつかって痞える。気を取り戻した鼬は、激昂に目と頭の中を燃やしながら振り向いた。
「やっぱり、おれを殺そうとしてるじゃねえか!だから信用出来ないんだよ人間も、人間の手先のテメエも!!」
ヒュウラは返事も反応もしない。
「捕まって堪るか!絶対に!!」
糸を掴んだまま、ヒュウラは咥えていた注射針を右手に持った。顔の全てのパーツを微塵も動かさず、鼬の亜人に歩み寄る。不気味な程にゆっくりと。
怒りと恐怖に心が満ちた鼬は、弾かれたように起き上がってシーリングライトを登り降りる。柵のように並んだ巨大な棚と棚の間を全力疾走すると、
程なく甚だしく転倒した。前のめりに地面にぶつかって大の字になる。速度を上げずにヒュウラがゆっくり近付いてくる。左手の糸を糸巻きに巻き付けながら。
鼬は察知した。振り返りながら吊り革の嵌った足を引っ張ってみると、遠くで斧が動いた。棚の側面にぶつかっては、地面に倒れた。
鼬の顔が、悔しさで歪む。
「コレ足枷だったのかよ。罠まで勘付いてたのか畜生、初めから」
ヒュウラの目が、若干細まった気がした。
鼬は尻を床に付けたまま後退りを始める。1センチも身体が動かない原因である右足の吊り革を睨み付けると、指の爪で糸を切ろうと試みた。絡み絡んでロープのように太くなった人間の創造物は傷1つ付かない。糸を掴むと、次は口に挟んで噛み切ろうとする。
口の両端から血が出て鉄の味を舌に感じる。糸がジリジリ1本ずつ歯と歯に擦られて切れていく。ヒュウラが近付いてくる。顔に表情は無い。右手に掴んだ注射器を横向きに構える。左手に持った糸巻きに糸を更に巻き付けていく。
半量噛み切った状態で、鼬は口から糸を離した。立ち上がって、腰を低くした姿勢で奥に向かって走り出す。ヒュウラの横を隙を突いて通り過ぎると、棚に痞えてる巨斧を掴んだ。向きを変えて通路に引き込もうとする。
ヒュウラは動いた。
糸巻きを離して、俊敏に鼬の背後に接近する。注射器を首を狙って振り下ろすと、鼬は身を伏せて避けた。斧の向きを変え切り、刃を両手で掴みながら敵の脇をすり抜けて、逃走を図る。
棚が足で踏み壊された。一部が瓦礫に変わった人間の創造物から金属の板が引き抜かれて手に掴まれる。注射器と持つ手を入れ替えたヒュウラは、飛ぶように鼬の背を追った。鼬は両手に掴んだ斧の刃を盾のように向けてくる。
走る。限界を突破して走る。棚の迷路を抜けて大きく開かれた出口の脇に生える木を見て、鼬が血塗れの口角を上げると、
背後から振り投げられた金属板が、斧の刃を強打した。
不快な振動が伝導して、鼬の身の動きが止まった。
ヒュウラは浅く跳ねて巨斧の刃に体当たりする。斧越しに鼬を前のめりに転倒させると、片足を刃の上に、もう一方を斧から飛び出ている枷付きの足首に置いて獲物を拘束しながら挟んだ。鼬は手足をバタつかせる。
低い唸り声が斧の下から聞こえてくると、右手に注射器を構えたヒュウラが、枷を踏んだまま斧を足で横転させた。姿が露わになった鼬は、睨み目を向けて憎悪を声にして放つ。
「テメエだって見ただろ!?おれの仲間の革が何されてたか!仲間の死はどうでも良いけど、人間を畜生だと思ったのは本当だ!あいつらは畜生だ!!自分達以外の生き物の命は全部どうでも良いんだ!!」
返事も反応もせず、ヒュウラは注射器の針を鼬の首に向けると、腕を引く。
鼬は大声で叫んだ。
「テメエは後悔する!テメエは後悔する!テメエは絶対に、後悔する!!」
灰色の小さな目に涙が溜まる。表情が無い、人間では無い己と同じ生き物に、鼬の亜人の青年は怒号を浴びせた。
「今に分かるさ!人間どもの茶番に付き合っていたら、この世界が滅びる所が見れるぞ!人間もテメエも含めた全てがな!!」
ヒュウラの動きが止まる。莫大な財産を生むと人間に決めつけられた金と赤の不思議な目で、睨み顔をする鼬の青年を見つめると、
口だけを動かして、返事した。
「何とも思わない」
目を見開いて呆然とする鼬の目から、涙が溢れる。ヒュウラは無表情のまま腕を振り下ろすと、
絶滅危惧種の亜人の首に、麻酔針が突き刺さった。
デルタとミトは、手錠を掛けた作業員の人間達を見つめていた。大騒動から微々の音だけが響く平穏に変わった服飾品製造工場で、『世界生物保護連合』3班・亜人課の作戦部隊は、関係者をほぼ全員逮捕して建物の閉鎖作業を始める。
ボロボロになった絹鼬族の革とフルレザーの鞄を両腕に抱えて、ミトは入り口の近くにある木の傍に歩いて行った。木の根元に設置された檻の中で、絹鼬族の生き残りの青年が、くの字に倒れて昏睡している。
閉じた小さな目から、涙が頬へと伝っていた。ミトは眉間に皺を寄せて眼を細めると、絶滅危惧種の遺品を丁寧に土に埋めた。
デルタは傷だらけの巨大斧を担いで壊れたシーリングファンに近付くと、羽の上に座っているヒュウラと向かい合わせに身を伏せる。茶色い薄手の毛布を頭から被っている、もう1体の絶滅危惧種に微笑み顔を見せると、デルタは預かっている武器を持ち主に返してやった。
「後、残り8日だ。ヒュウラ、御苦労だった。あいつが言った事は気にするな。人と話せる亜人を保護していると、相手の気持ちがストレートに分かる」
ヒュウラは刃を上にして縦向きになった斧の柄を片手で掴み、無表情で毛布の陰から見つめてくる。返事も反応も期待せずに、デルタは話を続けた。
「人間も他の生き物も、心は個々それぞれなのだとつくづく思い知る。憎悪、不信、恐怖、はたまた保護される事を歓迎する個体もいるんだ。お前はラグナル保護官に保護された時に、何を思ったんだ?」
ヒュウラの手が斧を離す。鋭い金属音を響かせて地面に倒れた武器を見る事なく、視線を逸らさずヒュウラは口だけを動かして返事した。
「何とも思わない」
「お前は、本当に変わった奴だよ」
デルタは斧を拾って、ヒュウラの手に再び掴ませた。
45
任務を終え、支部に戻り、あれこれの雑用をこなして1日の仕事が終わったデルタ・コルクラートは、支部の中に設けられている薄暗い自室で、簡易なアルミ製のベッドに腰掛けていた。鎧は脱いでいるが青い迷彩服を着たまま、銀縁の眼鏡を掛けた顔を横に向ける。床に敷かれている草臥れた象牙色のシーツの、大きく盛り上がっている箇所を暫く眺めると、手の中で転がしていたウイスキーの小瓶をジャケットの内ポケットに仕舞った。代わりに小型のフラッシュライトをポケットから取り出し、腰を上げて、ベッドと机と椅子一脚しか家具が無い質素な部屋を出る。
照明の消えた通路を照明器具で照らしながら、デルタは暫く移動した後に、小さな金属製の扉がある部屋の前に立ち、扉を開ける。中に入ると、壁に付いた照明のスイッチを入れた。部屋一面が人工の光に包まれる。
部屋の奥に、強い存在感を放っている木製の机が設置されている。部隊班長用の執務室に置かれた重厚な椅子に腰掛けて、卓上の黒いノートパソコンを開き、電源スイッチを押す。起動した通信機器を操作して胸ポケットからウイスキーと紙切れを1枚取り出し、フラッシュライトを戻す。紙切れを広げて、手書きで書かれた出鱈目な数字と記号とアルファベットの羅列をパソコンに入力すると、エンターキーを押して暫く経ってから、1人の女性が画面に現れた。胸から上だけを枠の中に収めて、簡易なヘッドホンを付けた顔を正面に向けた状態で此方を見つめてくる。
デルタと同じ色をした青いストレートヘアを腰まで伸ばし、同じ銀縁の眼鏡を青い目に掛けている。服は紺色のスーツを着ており、性別を変えただけのそっくり顔を、やや燻げに歪めている。生真面目そうな印象を与えるその女性に、ヘッドホンを付けたデルタは軽く謝罪をしてから、ウイスキーを開栓して機械の傍に置き、話し掛けた。
「今任務では、ヒュウラの位置情報の逆算をしてくれて助かった。何時も世話になってる。やはり貴女は流石だ」
『天井の穴にくらい真似て入れるでしょ?現場部隊なのに、何故石橋を直ぐに叩くの?叩いて渡るくらいなら、助走を付けて一気に飛び越えなさい。そうすればどんな橋も壊れないわ』
(想定内の説教だよ。相変わらずだ)デルタは苦笑いをしてウイスキーを瓶から直接一口飲む。画面の女性は片眉を上げると、刺すような声で話し掛けてきた。
『デルタ、未だその飲酒癖を治して無いの?紅茶にすれば良いって何度も言ってるでしょ?』
「悪いけど、貴女のように優雅に過ごせる程、俺の神経は図太く無い」デルタはもうニ口酒を飲んでから、話題を本題に移した。
「ヒュウラが保護組織の上層部から与えられた猶予期間は、14日。6日過ぎて残り8日だ。今日の絹鼬族の保護任務はイレギュラーだったが、かなりの良い仕事をしてくれた。ポイントを随分と稼げたと思うが、上層部の反応はどうだ?」
『未だ全然びくともしていない。お上達の石頭を砕くには、もっともっと彼に任務をして貰って成果を出すしか無いわね。思った以上にあの子、良い子だと思うわ。絶滅危惧種じゃ無かったら、私が一流の現場保護官に育て上げたいくらい』
「俺は逆に、あいつが絶滅危惧種で良かったと思ってるよ。これ以上危険なこの保護活動に巻き込みたくない。確かに良い子だよ。言う事を全然聞かないが、とても大人しくて素直だ」
デルタはウイスキーを一気に飲み干す。頬を赤く染めると、恨み節を吐くように声を出した。
「そんな良い子のヒュウラが、自分が保護される時に俺達に出した条件は1つ。『テレビをくれ』、それだけだった」
画面の女性は返事も反応もしない。デルタは話を続けた。
「拍子抜けする程、シンプルな好条件だったんだ。それなのに貴女が横槍を入れてややこしくしたんだぞ、姉さん!!」
画面の女性はティーカップを持ち上げた。優雅な高級食器に口を付けて紅茶を飲む。食器が下されて画面から消えると直ぐに、姉と呼んだ女の目が鋭く釣り上がった。デルタは構わず、続けて言葉を浴びせる。
「貴女が無理矢理、ヒュウラに保護任務をさせる交渉を上層部にしたんだ。今、俺が貴女の代わりに3班を立て直してるのを分かってないだろ?!散々規律を破って滅茶苦茶をして情報部に異動させられてるのに、上層部にこれ以上目を付けられて、自分で自分の首を斬り落とすな!!」
『充分に理解しているわ。この保護組織が、どうしようも無いエゴの巣窟だと、ね』
女は笑った。デルタは怒りに身を震わせている。空のウイスキー瓶を手で握って揉みくちゃにしていると、女は話を畳んだ。
『絶滅危惧種の亜人達の情報なら、今私が居る貴方の元々の場所から幾らでも手に入れるわ。私の元々の場所である現場の指揮は頼んだわよ、デルタ。あの子の事も』
女の姿がパソコンから消え去る。デルタは呻き声を出すと、音を立ててノートパソコンを閉じた。
青髪の女は、目の前にあるデスクトップパソコンの電源を切った。ヘッドホンを外して、機材が犇めき合う情報部の諜報部屋から退室する。通路を歩いて自室に戻ると、カーテンを開けて窓の外の景色を眺めた。
遥か遠くの地にある、本来居たいと願う場所を頭に浮かべる。次に、1人の亜人の姿。虹彩が金、瞳孔が赤色の狼のような宝石の目を持つ若い青年の幻想に、彼女は微笑みながら声を掛けた。
(ヒュウラ。私の小さなエゴに、悪いけど付き合って貰うわ。肥大になり過ぎてる『人間』のエゴを、貴方の力を借りて砕きたいの)
【14Days】続 46