Bounty Dog【Science.Not,Magic】0-β

0-β

 此の“幽霊”は生きている。天に向かって本物のカクテルグラスを掲げると、揺らし傾けて見えないグラスに乾杯を返した。
 バーテンダーは要らなかった。カクテル作りは特技のひとつだ。”死ぬ”前から会得している。会得した時、己の齢は4歳だった。
 今宵作ったカクテルは、初心者でも作れる入門カクテル、かつ、バーテンダーの腕が試される『カクテルの王』だ。材料はドライ・ジンとドライ・ベルモット。其れらを氷と一緒にミキシンググラスに入れてステア(軽混ぜ)してから、カクテルグラスに注いで添え物を沈める。螺旋状にカールさせたレモンピールを1枚沈める事もあるが、今回作ったモノはベターである、ピックに刺したオリーブの実を1粒沈めていた。
 マティーニを5杯、バーカウンターの上に横並びさせている。持っていた6杯目のマティーニを5杯目のグラスの横に静かに置くと、酒を飲むには早過ぎる17歳の人間が、プロ顔負けの出来である自作品達を無表情で眺めた。
「燕尾服も似合いそうね、可愛いかも。コルバタ(ネクタイ)の好みはグリス(灰色)?ベルデ(緑色)?」
 ジッポライターを掴んだ手が伸びてきて、6杯の酒の前で火を灯した。手前に置かれている小さなベーラ(蝋燭)の先に火が移る。緩らめくフェルド(火)がカウンターの前に座っている人間達の姿を露わにする。カクテルを作った人間は、中性的な顔と見た目をした長めショートカットをした直毛の黒髪を持つ小柄な少年だった。その横に座っている人間は一目で女だと分かる顔と姿と格好をしている。巻き毛にした黒髪を胸まで垂らし伸ばしており、胸元と太腿の部分が大きく開いたセクシーな黒いパーティドレスを着て、唾の大きな黒染めの麦藁帽子を被っている。靴は真っ赤なハイヒール。同じ色のアイシャドウと口紅を顔に塗り付けている。
 少年は眉だけ整っているが化粧を全くしておらず、灰色のパーカーにデニムズボンとスニーカーを履いた、カジュアルな格好をしていた。加えて左胸を覆い守るように、簡易な黒い金属製の胸当てを上から装着している。同じ色の革手袋も両手に嵌めていた。
 女も手に黒い革手袋を嵌めている。片頬を掌に付けて肘をバーカウンターに乗せると、少年と同じ小麦色の肌をしている”幽霊”の女は、幽霊仲間の少年を灰色の目で見つめながら話し掛けた。
「後5分経つまでお預け?律儀ね。なのに祖国には言う事を聞かずに背いてばかり」
 相手からの返事も反応も待たずに、女は会話を続ける。
「マティーニがお気に入り?1番好きなカクテルで成人祝いをしたいって訳?」
「チャイナブルーの方が好きさ、ライチリキュールをドバドバ入れた奴」
 少年が嘲笑顔をしながら隣席の女に振り向いた。相手の灰色の目が若干吊り上がった様子を観察すると、蝋燭の光を浴びて孔雀石のように輝いている鮮やかな緑色の目に幽霊女を写しながら言った。
「でも1番最初に作れるようになったカクテルは、スクリュー・ドライバー。覚えたら会えると思ったんだ」

「祖国に帰らないと、墓参りは出来ないわよ」女は氷のような微笑を浮かべて言った。「自由に此の世で彷徨えるのは、組織の幹部達に選ばれた1人だけ。其れが機密諜報員ファンタズマ(幽霊)になった元人間の、例外なき共通点よ。私も遠い親戚まで血の繋がりがある人間は全員、私の”蘇生日”に皆殺しに遭った事を知っている」
「おれは生きているって信じてるよ」
 少年は可笑しい物を見ているように笑いを堪えながら言葉を返した。マティーニが入った首の長いカクテルグラスの1つから、丸々とした大きな白オリーブが刺さったピックを引き上げる。
 酒漬けのオリーブを口に含んで食べ出した。渋みと苦味が強い独特の味がする果物を噛みながら、誕生日2分前にフライング飲酒をした少年スパイは、隣りで足を組んで座っている女スパイに向かって言った。
「”会ちょ”が言ったんだ。必ず会えるようにしてくれるって」
「694号、祖国は貴様にオポルトゥニダ(チャンス)を与えて下さる。他国の諜報員達が力を付けてきているから、優秀なファンタズマを補充して根絶やしにしたいそうよ。2年前までの功績を評価しての特別待遇。其れを私は、任務として貴様に伝えに来た」
 女はマティーニの1杯を取り上げて、一気に飲み干した。オリーブを抜き落とした金色のピックを摘み上げて、卓上に並べていた書類に突き刺す。書類は2人の祖国の独自語で文章が書かれていた。署名と血判を押す欄の上に、3つの指令文が書き記されている。
 女スパイが、内容を口頭でも伝えた。
「復帰条件は3つ。1つ目、今手を貸している狩猟組織から抜ける事。2つ目、祖国を二度と裏切らないという証しとして、2年前に失敗したあの男の暗殺を完遂させる事。そして3つ目は祖国の諜報員としての任務だ。北西大陸東部の”超有名独裁国”に潜り込み、軍事機密情報を根刮ぎ奪い取り、権力者と有名人を根刮ぎ暗殺。表からは祖国の軍隊、裏からは我々で、彼の国を今尚世界征服を目的に活動している機密諜報組織ごと壊滅させ、祖国に”自由”を与えて植民地にする」
 少年は残り5杯になった横並びのカクテルを見つめている。女はマティーニを1杯掴んで、中身が入ったままの器を肩越しに後方へ放り投げた。2人の背中側からグラスが粉々に割れる音がする。此のとある国のとある町にある真夜中のバーに、客は現在2人しか居なかった。
 バーテンダー1人とウェイター2人は、30分前まで居た。今はバーカウンターと酒瓶を並べている棚の間の床で、肉体だけを残して魂は冥土に逝っている。喉と胸に一発ずつ銃弾を受けて死んだ此の店の経営者達の骸を、客人の2人は何方も無視して会話を続ける。
 女がマティーニをもう1杯、肩越しに後方に投げ捨てた。少年は残り3杯のマティーニの内、2杯からオリーブ付きピックを抜き取る。酒漬けオリーブを食べながら、己もカクテルグラス2本を中身が入った状態で、背後に向かって投げ飛ばした。ジンとベルモットの混ざり物がバーのテーブル席を野蛮に濡らす。グラスが割れる音が合わせて”2回”響いた。
 唯一割れ無かったカクテルグラスが当たった先に、人間が1人居た。小麦色の肌をして高価なスーツを着ている男。如何にもスパイらしい格好をしている其の男も、腰にぶら下げていた拳銃を抜き取る前に、2人のスパイから返り討ちに遭った。
 女スパイは小型のオートマチック銃、少年スパイは黒光りする大型のリボルバー拳銃を使った。何方の武器も銃口に、消音器(サイレンサー)が取り付けられている。
「基本的に我々は単独行動で、ファンタズマ同士で認知していないから」黒い巻き毛を無造作に掻き上げた灰目の女スパイが弁解するように言った。女がテーブルに残っている最後のマティーニ入りカクテルグラスの首を摘んで己側に引き寄せる。少年は火の勢いが増してきたキャンドルの光を浴びながら3本のピックを手元に並べ置き、2粒のオリーブをむしゃむしゃ食べていた。
 酒棚の上の壁に掛けられているアンティークの置き時計が、23:59を示している。秒針がⅥの数字を過ぎて、Ⅶの数字に向かって移動していく。
 女スパイは、冷笑しながら言った。
「でも貴様と私は、今日からアミーガ(友達)。条件を飲んで祖国の諜報員に復帰するなら、私が貴様の”欲情相手”の居場所をお見通ししてやっても良い。此の紙に本名を書いて、親指で血判を付けろ。期限は明日の0時まで」
 少年は返事も反応もしなかった。女は小さく鼻息を立てて、カクテルグラスの中に沈んだピック刺しオリーブで酒をグルグル掻き混ぜる。
 少年は女に振り向いた。女は最後のマティーニを一気飲みする。雫ひとつ残さず飲み干されたカクテルグラスがテーブルに足を付けると、少年スパイは添え物用の金ピックを1本掴んで指で弄びながら、蝋燭のオレンジ光で孔雀石のように見えるエメラルドグリーンの瞳を細めながら言い返した。
「そうさ。あの人の全てを、おれは子供の頃からずっと欲しくて欲しくて堪らない。でも其れは”我が”偉大なる組織を統べる会ちょにも思ってるんだよ。今はな」
 時計が0:00:00を刻んだ。重厚な鐘の音がバー全体に響き渡る。6月4日から6月5日になったばかりの世界で、少年スパイは女スパイから銃弾というプレゼントを差し出された。
「フェリス・クンプレアニョス(誕生日おめでとう)」
 女は上機嫌に笑った。其の表情を永遠に浮かべたまま、6月5日を己の命日にした。

『ハッピー・バースデー』
 黒い動物の革が背面に張り付いている通話専用の通信機から、”彼”が祝福の言葉を言ってきた。数分前に祖国の言葉で偽りの祝福をしてきた女は、足が長いバー用の椅子から崩れ落ちて、横倒れで事切れている。
 白い煙を吹き出している赤黒い穴が空いた喉に、金色のピックが1本突き刺されていた。星の光のように煌めく死の狂器を眺めずに、少年スパイは本物の幽霊になった同族の女が卓上に遺している、某国機密諜報機関発行の”恩赦状”の上に置いた通信機に向かって話し掛けた。
「グラシアス(ありがと)。テ・アモ(愛してる)、会ちょ」
 会長と呼ばれた男は、含み笑いをしてからぼやいてくる。
『腰が痛いんだ』
「休憩しないでずっと作業してたら、会ちょの歳でもそうなりますって」スパイは心の底から笑った。頬を蝋燭の火と同じ色に染めながら、澄んだ緑色の目を緩めて言い加える。「今日から成人です。子供扱いはされませんから、任務の幅を広げられます」
『”事故”の怪我は?』
「押すと未だ痛いけど、ほぼ完治。特盛の御褒美付きで看病してくれたんだから、知ってるでしょ?」
『ああ。でも無理はするな、お前は敵が多過ぎる』
(あなたもだよ、会ちょ)スパイは最愛の最上幹部に就寝の挨拶をして通話を切ると、上機嫌で着ているパーカーのカンガルーポケットから、2枚の写真を取り出した。椅子から軽やかに飛び降りる。床に転がっている女スパイの死体を踏み付けて、壁の一角まで歩み寄ってから、写真を横並びに貼り付けた。踵を返してテーブルに戻り、端に置いていたオレンジ色の液体入りのコリンズグラスを掴み持つ。
 ーー14年前の誕生日。ケーキもプレゼントも買ってくる事無く酒浸りになって、自分の為だけの”オマケ”も連れて絶対に帰ってくると確信していた親を祖国の貧民街にあったアパートメントの一室で嫌々待っている間、ゴミ箱に捨てられた大量のライチと酒瓶が置いていた汚いキッチンを漁って材料と道具を取り出し、初めて作って覚えたカクテル。ーー使う飲料はウォッカと100%果汁のオレンジジュース。製法は直接グラスに氷と材料を入れて掻き混ぜる『ビルド』で、本当に誰でも簡単に作れる超入門カクテル。
 ーー此の自家製スクリュー・ドライバーに、アルコールは一滴も入っていない。アルコールを喪失させていないウォッカを入れてはいけない。己が作るスクリュー・ドライバーは、ノンアルコールである事が絶対ルールだ。ーー
 酒を公衆の面前で堂々と飲める年齢になった”生きた幽霊”は、別名”ゾンビグラス”に並々と入った酔わないカクテルを半量飲むと、黒手袋を嵌めた右手の指に挟んでいる、マティーニ用の黄金ピックを壁に向かって振り投げた。

 ピックがダーツの矢のように、壁に貼られた2枚の写真の一部を其々貫く。2枚の写真には人間の兄弟が其々写っていた。
 赤紫色の目と1つ括りにした長い水色系銀髪を持つ白人の青年は、左胸。同じ目と髪と肌の色をした剛毛を二つ括りにしている、ニヤつき笑いを顔に浮かべた男の子供は、喉にピックが深々と突き刺さる。