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第9章 カルトゥーシュの共犯者たち

 もし未来を推測できていたのであれば、カルトゥーシュは自分の共犯者の運命が自分の運命と大差ないものだと予見できていただろう。有名な盗賊が処刑されてから4日後、バラニィとそのほか数人が卑しむべき残忍な刑車にかけられて、その反社会的な生活を確かに終えることになった。彼らは共犯者の名前に関する情報を与えただけではなく、処刑台の足元で拷問では白状しなかったことを告白した。

 彼らは非常に多くの人名をほのめかしたのでさらなる一連の裁判が始まった。そうした裁判は有罪判決を受けた囚人たちによる証言がほかの者たちを危うくするまで続き、長年にわたって警察が手を出せなかった大規模の悪党の組織に新しい光が投げかけられた。カルトゥーシュとバラニィの処刑時には60人以上が収監された。共犯者を貶めることによって命を作ってもらおうと考えた者たちが次々に白状したせいで、週刊者の数は毎日増えた。そして、次の年の6月になると、その数は150人にもなった。ルイ・マルカンの処刑は3月に、ロズィの処刑は6月に執行された。こうしたすべての血は事件を洗い流すどころかより深刻なものとしたようだった。毎日、何か新しい発見がもたらされた。そうした発見によって、この恐ろしい組織の中枢にいるカルトゥーシュが組織化の才能を活かしてパリ社会に大きな影響を及ぼしていたということを否定した者たちが完全に間違っていたことが示された。

 ロズィは、それ以前に拷問を受けた者たちの誰よりも多くのことを白状した。彼に対する処刑前の最後の尋問が終わった日の夜、 80人が逮捕されてコンシェルジェリーに連行された。判事のアルノー・ド・ボエックス氏は、少なくとも連続で32時間も彼らを尋問した。この法官は非常に熱意があり志操堅固であった。彼のことをあまりにも厳しすぎて残忍だという者さえいた。それは簡単に説明できることだ。アルノー・ド・ボエックス氏は罪人となったアングレーム[フランス中西部の町]の刑事代官の息子であった。アングレームの刑事代官は出廷のためにパリに来ていたが、家に戻る途中、公道で殺害された。それ以来、アルノー・ド・ボエックス氏は父を殺したような犯罪人を憎んでいた。

 ロズィの密告の中で最も興味深い特徴は、ルローとブルロンという名前の2人の警察官の関与を示唆していたことである。ロズィは、彼らが組織に深く関わっていると主張して、特にヴェルギエという名前の貧しい詩人の殺害に関与していると告発した。ヴェルギエはブー=デュ=モンド通りで1年前に殺された。 

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