『ロラン夫人回顧録』第一部⑨
私が修道院に入ってから数ヶ月が過ぎた。私は修道院でこれまで見てきたように忙しく暮らしていた。週に一度、日曜日なると父母が私のもとを訪れて、ミサの後、一緒に王立庭園、今日のパリ植物園を散歩した。父母と別れる時はいつも泣いてしまった。それは自分の状況を後悔して泣いていたのではなく、父母に対する愛があったからである。というのは私は静かな回廊の下に戻るのが嬉しかったからだ。私は寂寥さをじっくり味わうために回廊をよくゆっくりと歩いていた。時に私は修道女の墓碑銘が刻まれた墓石に足を止めた。「彼女はなんと幸せなのかしら」と私はため息とともに独り言を言うと、いつの日にか神の御許に抱かれて私の真摯に求めている完璧な幸福を享受したいという魂をとらえる甘美な物思いにふけった。
新しい寄宿生たちの加入は、我々の小さな集団にちょっとした騒ぎをもたらした。2人の若い娘がアミアン[フランス北部にある町]から来ることが告げられた。仲間になる予定の者たち対する修道院の少女たちの関心は想像されるものよりもきっと強いものだ。ある夏の日の夕刻、我々はシナノキの下を散歩していた。すると「彼女たちが来たわ。彼女たちが来たわ」という叫びが突然上がった。教導長[première maîtresse、修道院で指導的な立場にある修道女]は2人の新参者を寄宿生たちを監督している者の手に委ねた。忙しく行ったり来たり集まったりしていた寄宿生たちであったが、ようやく列を整えると全員そろって同じ回廊を通ってカネ姉妹[CP注:補遺Aのロラン夫人の書簡集でカネ姉妹とその家族に関する情報をまとめておいたので、さらなる詳細を知りたい読者はそちらを参照せよ。したがって、ここでは姉のマリー=アンリエットは1747年から1749年の間に生まれ、1784年にヴォグラン氏と結婚したが1791年に寡婦となり、再婚した後、少なくとも1838年まで存命であったと言及するだけで十分だろう。妹のマリー=ソフィー=カロリーヌは1751年に生まれ、1782年にゴミエクール氏と結婚したが1788年に寡婦となり、1795年に亡くなった。1766年に修道院を去った後もマリー・フィリポンは修道院に入る2人の友人を訪問し続けた。彼女たちも1769年に修道院を去って故郷のアミアンに戻った。彼女たちとパリの絵師の娘の間で親密で熱心な書簡の交換が続けられた。マリー・フィリポンからカネ姉妹に送られた手紙の大部分は保存され、1841年にブルイユ氏によって、さらに1867年にドーバン氏によって出版された]の様子を確かめに行った。彼女は2人姉妹であった。18歳くらいの姉は優美な姿態で無頓着な感じであり、ゆったりと歩いた。ただなにか神経質で高慢な感じがして、それは彼女が自分の置かれた状況を好んでいないことを示していた。14歳くらいの妹は白い紗のヴェールで柔和な表情の顔を覆っていたが、涙の跡をうまく隠せていなかった。彼女に興味を持った私はもっとよく見ようと立ち止まった。それから私は彼女についてできるだけ知ろうとおしゃべりの輪の中に入った。
彼女は母親[CP注:マリー=ジャンヌ=オポルテュヌ・ペルデュは、王の書記官にして平貴族でありアミアンの富裕層であるアンリ=フランソワ=ニコラ・カヌと結婚した]からとても大切にされていると言われていた。彼女は母親をとても愛していたので離れ離れになったことをつらく思っていた。そこで別離[のつらさ]となんとか折り合えるように姉が一緒に来ることになった。2人姉妹は夕食で私と同じテーブルについた。ソフィーはほとんど物を食べなかった。彼女の静かな悲しみを見ると誰もが同情を抱かざるを得ず心を動かされた。彼女の姉は、同じ運命を分かち合うことになったことを残念に思っていたようで妹を慰めることにあまり関心がないようだった。彼女にはそれなりの理由があった。18歳の少女が入ったばかりの社交界から切り離されて妹に付き添うために修道院に入らなければならなかったからだ。きっと彼女は自分が母親によって犠牲にされたのだと思っていた。どうも母親は抑えきれない奔放な性格を何とかしようと考えていたようだ。こうしたことをアンリエットから聞き取るのにそれほど長くはかからなかった。無作法と言えるほどに率直であり、怒りっぽいと見えるほどせっかちであり、愚かだと思えるほど陽気だった。彼女は思慮分別が足りない年頃の特徴をすべて備えていた。興奮しやすく気まぐれで時に魅惑的であり、しばしば鼻持ちならず、感傷的になったかと思えばすぐに冗談を言った。
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