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第2章 シャルル・サンソン・ド・ロンヴァル

 シャルル・サンソンは1635年にアブヴィルで生まれた。彼がまだ揺り籠の中にいる時に父母は亡くなった。彼にはジャン=バティストという1624年生まれの11才年上の兄がいた。彼らの叔父はリム-[英訳版ではLimeuseになっているが、おそらくフランス中部にあるLimeuxのこと]の有力者のピエール・ブロシエは孤児たちを引き取って庇護下に置いた。叔父の心優しさは彼らの悲惨な状況を大いに軽減した。叔父にはコロンブという娘がいた。叔父は3人全員に等しく愛情を注いだ。コロンブ・ブロシエシャルル・サンソンはだいたい同じ年頃だった。子供時代の親交は血の繋がりをより固くし、互いの友情を育んだ。彼らの友情は愛になった。ピエール・ブロシエもジャン=バティスト・サンソンもシャルルとコロンブの気持ちに気づかなかった。そしてある日曜日の朝、ピエール・ブロシエは、ジャン=バティストのためにアブヴィルの裁判所の参事職を準備できたと言った。そして、ブロシエは、新しい参事が求婚することになると娘に告げた。さらにブロシエは、この結婚はずっと心に思い描いていた計画の一つだったので心から認められるものであり、すぐに挙式するべきだと言った。

 我々の時代と比べると、その時代の父親の意思は法律のようなものであり、コロンブ・ブロシエに残された選択肢は服従する以外になかった。意に染まないながらも彼女は直後にジャン=バティストと結婚した。とても深い悲しみを負ったシャルル・サンソンはヨーロッパを去った。彼は親族のもとを離れて、ロシュフォール[フランス西部の港町]に行ってケベックに旅立った。ケベックには叔母の1人が住んでいて彼を迎え入れた。旅の試練や新しい風景でも彼の愛は衰えなかったようだ。というのは彼は祖国を再び見ることを絶えず拒んでいたからだ。ようやく彼がフランスに戻ったのは、出発から数年経って兄のジャン=バティストとその妻のコロンブが亡くなった後のことだった。その時までにシャルル・サンソンは世界中のほぼあらゆる場所に精通するようになっていた。彼は西インド諸島、アメリカ全土とレヴァント[東部地中海およびその沿岸諸国]を訪れた。報いられない愛は陰鬱と苦悩をもたらし、それは慢性的なものになっていたが、彼は世界が思いやりに満ちていると見なすようになった。

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