第11章 ダミアンの処刑
ソトレ[パリの出版業者]によって刊行された出所のあやしい回顧録の著者たちは、わが祖父によって書かれた記録よりも彼らの編纂物[Honoré de BalzacとLouis François L'Héritierによってまとめられた"Mémoires pour servir à l'histoire de la révolution française"(1829)のこと。AM249頁参照]のほうが信頼できるものだと見せかけでも主張するしかない。彼らはダミアンの処刑に立ち会ったわが祖父から詳細を聞いたということにして代弁している。その当時、処刑人の職にあったのはシャルル・ジャン=バティスト・サンソンであった。シャルル=アンリは、四つ裂きを執行しなければならないと聞いた時に彼の父がほとんど気が狂いそうになっていたこと、そして彼の父が執行に必要な4頭の馬を購入するためにムランに行ったことについて述べたことになっている。しかし、あらゆる事柄がまったく正確ではない詳細な説明で装飾されている。問題となっている章は、四つ裂きのために購入した馬を罪人の苦痛を長引かせるためにより弱い馬に取り替えようとリシュリュー公爵を含む4人の貴族を同伴した国璽尚書が処刑人を訪問したことに関する記述で終えられている。実はそのようなことはまったくなく、ド・マショー氏は検事総長を通してわが先祖に命令を与えるか、もしくは自宅にわが先祖を呼び出していた。それにシャルル・ジャン=バティスト・サンソンはダミアンの処刑に関与していなかった。というのは1754年1月、彼は卒中を患ったうえに、ダミアンの処刑は彼の管轄ではなく、宮廷裁判所の高度作業執行人[仏原文はexécuteur des hautes-œuvres de la prévôté de l'Hôtel。高度作業とは処刑のことである。AM249頁参照。BL46頁~47頁参照]である弟のニコラ・ガブリエル・サンソンの管轄であった[今回の事件は王に関する事件なので宮廷裁判所の処刑人の管轄だと指摘していると考えられる]。
その職務はほとんどを名誉職であった。宮廷裁判長は50年にわたって犯罪に対して極刑の判決を下していなかった。処刑の準備をするように求める命令には、ダミアンの処刑だけではなく拷問についても触れられていたのでガブリエル・サンソンは不安でいっぱいになった[仏原文には「宮廷裁判所には責め苦を担当する者がいなかった」と書かれているので、代役が見つからない場合、ガブリエル自ら責め苦を担当しなければならなかった。「責め苦」とは拷問室で尋問の一環としておこなわれる拷問のことではなく、処刑台の上で罪人に加える責め苦のことである。AM98頁参照]。ガブリエルは宮廷裁判長のルクラーク・ド・ブリエ氏にそのことを話した。ド・ブリエ氏は検事総長に手紙を送って、すべての関係者のために今度の処刑を別の者の手に委ねるように促した[以下、この段落の最後までは仏原文から翻訳した]。しかし、すでに私が言ったように、シャルル・ジャン=バティスト・サンソンは卒中を患って病臥していた。長男であり後を継ぐことになっているシャルル=アンリ・サンソンはわずか17才であった。彼は2年間にわたって父の職責を果たしてきたが、処刑人の称号を正式に持っていたわけではなかったし、言い伝えだけで知られているような処罰が彼に委ねられるとは誰も夢にも思っていなかった[ML14頁参照]。したがって、検事総長は宮廷裁判長の要請を認めなかったが、処刑人代理であるシャルル=アンリとその助手たちにガブリエル・サンソンを手伝うように命じた。
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