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第25章 1792年8月17日の特別重罪裁判所

 処刑台の歴史とフランスの歴史が一つに交わる時が間近に迫っている。軽蔑されていた処刑人が、築かれつつある社会という殿堂の円蓋の要石にたった数日でなった。それまで彼は処刑人という侮辱的な名称で呼びかける者たちに対して「あなた方は私を軽蔑するのにどうして法律を軽蔑しないのか」と言わなければならなかった。国民の興奮は、「私に仕事を与えるためにあなた方は革命を起こしてるようなものだ」と主張する権利を彼に与えた。

 1793年のサンソン家の末裔、すなわち大サンソンと呼ばれる者は、これまで示してきたような謙虚さをしばらく捨ててしまったように見えた。しかし、読者は安心してもらいたい。記述を続けるにあたって、私は個人的な見解で読者を煩わせたくない。政治に関するあらゆる見解を述べることは控えて、私が記述しようとしている出来事のみを短く述べたいと思う。シャルル=アンリ・サンソンの筆を借りることになるだろう。そして、彼が書いたとおりに正確に日記を引用する。日記は革命裁判所が設立されて6週間ほど経った[1793年]5月末から始められていて、共和暦第3年の葡萄月[1794年9月22日~10月21日。サンソンの日記の翻訳はルバイイ116頁~326頁に採録されている]まで続けられている。私が知る限り最も正確かつ流暢に書かれた処刑台の日記である。

 しかし、シャルル=アンリ・サンソンが真剣にそうした作業に取り組み始めるまでに9ヶ月間の空白がある。この空白期間においてもギロチンはまったく作動していなかったわけではない。国民議会は廃止され、ルイ16世は自分の思いつきのせいで見捨てられた。1792年8月10日[英訳では8月20日になっているが事件が起きたのは8月10日]、テュイルリー宮殿が攻撃され、王は虜囚にされてタンプル塔[ パリ中心部にあった元修道院。]に監禁された。そして特別重罪裁判所が設立された。この裁判所はフーキエ=タンヴィル[厳しい処断で知られる革命裁判所の検事]のような者たちで構成されていたが、比較的控えめにギロチンを使っていた。特別重罪裁判所は厳格な法を苛烈に適用して、主に一般犯罪者を扱っていた。1771年から1792年にかけて身体や財産に対する襲撃の数が激増した。創設されたばかりの紙幣は偽造者の欲望を煽り立てた。7ヶ月間で15人の偽造者がグレーヴ広場で処刑された[以下、カルーゼル広場でのコローの処刑の終わりまで仏原文から翻訳する]。

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