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第26章 ルイ16世の死

以下の内容は『サンソン家回顧録上巻』に含まれます。『サンソン家回顧録下巻』では編集&校正済み、挿絵入りの文章を読めます。プリント・オン・デマンド版(紙書籍)を3,989円、Kindle版(電子書籍)を1,250円で販売しています。なお舞台の冒頭に登場するサンソンの侯爵夫人に対する自己弁護の全訳も収録されています。

 ジャン-ルイ・ルシャールとエレーヌの逸話関する全訳は以下をご覧ください(有料)。『サンソン家回顧録上巻』には抄訳しか含まれていません。

 王の死は、国民公会を支配する二つの党派の間の闘争の最初の合図となった。ジロンド派はルイ16世の死に反対していた。しかし、山岳派の影響力が優位を占め、君主が処刑台に姿を現したことは、一連の大規模な処刑の先駆けとなった。激昂した人民はしばしば自らの手中に法を収めた。矛の先に突き刺された頭がしばしば往来で見られた。人民が、彼らを適切にそう呼べるとしたらだが、そうした残虐行為の全責任を負うべきだろうか。わが祖父は、殺人を唆す者たちの中に常習犯がいるのをよく見かけたと我々に言うのが常であった。さらに暴虐行為の大部分はそうした悪党の煽動でしばしば起きたと確信しているとも言っていた[以下、サンソン父子が地区の集会に参加する前まで仏原文から翻訳する]。

 シャルル=アンリ・サンソンは息子(わが父)と住んでいた。27才か28才だったわが父はさまざまな出来事からできるだけ距離を取っていた。そのため一家は、1792年8月10日朝に起きたテュイルリー宮殿の襲撃について知らなかった。

 その日、わが父は宮廷裁判所の執行人であるわが叔父のルイ=シル=シャルルマーニュ・サンソンの家に昼食に行った。その時、わが叔父は君主制の破綻とともに自分の職が失われつつあるのを知らなかった。ここでわが父に話を移そう。父自身が経験したいくつかの出来事を父の説明どおりに何も変更を加えずに話したいと思う[以下はアンリ=クレマン・サンソンの父アンリの回想を引用した部分である。仏原文は括弧でくくられているが煩雑なので括弧を外して表記する]。

 昼食の後、私は空気を入れ換えようと窓を開けた。通りに大勢の群衆が出ているように思えた。しかし、部屋が5階にあったのでそれが何かははっきりとはわからなかった。しかしながら、棒の先に何かを刺して掲げている若者が群衆の中にいるのが見えた。叔母が窓のところにやって来るなり「何てことかしら。あれは首よ」と叫んだ。

 叫び声に我々はすっかり驚いてしまって、いったいどのような災難が起きたのかすぐに知りたいと思った。しかし、いろいろと考える暇もなく、さらに大きな集団が1人の若者を追っていた。その若者は見たところ、ポワソニエールの兵舎のスイス傭兵のようだった。

 不運な逃亡者は少しだけ先行していて必死に逃げ道を探しているようだった。叔父と私は慎重ではなかったと告白する。私は最初に感じた同情を抑えきれず、目の前、しかも自分たちの家の扉の前でこの男が殺されるのはしのびないと叔父に言った。叔母の哀願にもかかわらず、社会の代表として叔父と私は階下に降りてすぐに家の扉を開いた。

 私はすぐ近くまで来た者に「あなた方はこの若者をどうしようというのだ。彼があなた方に何をしたというのかね」と言った。

 物騒な顔つきをした男が「我々はスイス傭兵を全員殺す」と答えた。

「どうしてそんなことをするのだ」

「おまえは知らないのか」

「そうだ、何も知らない。この男が何もしていないのにあなた方が殺そうとしていることを除いては。それは恐ろしいことだ。私がわかっていることはそれですべてだ」

 彼らは「そうであっても奴を殺さなければならない。奴の仲間がテュイルリーでほかの者たちをたくさん殺したんだ」と叫んだ。

 私は「そんなことは知らないが、何もしていない者を殺すべきではないだろう」とはっきりと答えた。

 このように話している間に叔父と私は哀れなスイス傭兵の前に立とうとした。スイス傭兵は我々が守ろうとしていることを悟って急いで我々のもとへ来た。その集団の中で最も大柄で大胆不敵な2人の男がスイス傭兵を捕まえようとすでに接近していた。私は彼らを押し戻した。その間に叔父は時間を無駄にすることなくスイス傭兵に扉を通り抜けさせた。幸いにも我々は殺人者たちの鼻先でうまく扉を閉めることができた。

 ボールガール通りにあった家から肉屋があるクレリー通りに出られた。我々はそこを通り、要望に応じてボン=ヌーヴェル地区の屯所まで逃亡者を連れて行った。屯所は当時、ブルボン・ヴィルヌーヴ通りのスラム街の近くにあった。スイス傭兵を屯所に送り届けた後、我々は12人の武装した兵士に護衛されて屯所から帰った。兵士たちは、我々の家の前に集まって獲物を捕らえるために扉を壊そうと相談していた者たちを何なく追い散らした。

 その朝の出来事、すなわちテュイルリー宮殿の襲撃とスイス傭兵の虐殺について我々に教えてくれたのは、彼らを退散させた兵士たちであった。

 最も悲しい出来事にも愉快な面があると指摘するのは正しいことだろう。悲劇的に始まったこの日はまるで喜劇のような出来事で終わりを迎えた。叔父と私が帰宅すると、地方からパリに出てきた親戚の1人が来ていた。叔母は起きたばかりのことを話してその親戚を怖がらせていた。哀れな男は腰抜けと言ってよいほどの気弱な性格だったので、くどくどと聞き返しては身震いしていたので、我々の挨拶に対して上の空だった。さらに悪いことに、親戚はパリからすぐに立ち去ろうと計画していたが、市門がすでに閉じられて正式な手続きを経なければ誰もパリから出られないとわかった。それは不運な親戚の新たな不安の種となった。親戚は滑稽な感じで絶望に耽ると、髪を引きちぎって、自分の思慮分別の無さを呪った。そこで私は、親戚がパリを脱出できるようにするために正当な手続きよりも100倍も危険な方法を準備しなければならなかった。

 幸いにも私は、亡祖父のジュジェの旧友を知っていた。その旧友の菜園は、片側が市壁[フェルミエー・ジェネローの城壁、18世紀末に建造されたが19世紀半ばに撤去された。]沿いの通りに面していて、その反対側が市壁の外にあった。その抜け道から我々の怯えた親戚は脱出した。しかもご苦労なことに親戚は、胴着とブーツを除いて野菜栽培者に前もって完全に変装していた。おそらく首都から数リウ[1リウは約4キロメートル]離れたところで胴着とブーツを捨ててしまっただろう。

 この頃、わが父と私は地区の集会にいそいそと出かけることもなければ、国民衛兵に参加することもなかった。しかし、翌8月11日土曜日の夕食後、2人の地区の代表が我々を招きに来た。我々はそれに従った。私は、代表のうちの1人が学校の寄宿舎の同窓生だったと気づいた。彼は私の出自をまったく知らなかった。もし彼が私の出自を知れば私に対する感情が変わってしまうのではないかと私は恐れた。幸いにもそうはならなかった。それどころか彼は、わが家系を貶める偏見に対して十分に配慮するように努めているように見えた。

 集会における最初の審議は、特に興味を引かれるような出来事ではなかった。しかし翌日、地区の住民を騙して市会の代表の1人になるために被選挙権を得ようとしている者の侵害に抗議するために12人の代表団が任命された。私はその中の1人に選ばれた。

 我々は市会が開催されている市庁舎に行った。代表団の長はヤコブという名前の弁護士であった。彼は、我々の訪問の意図を説明する決議の写しを書記に渡した。彼が決議を擁護しようとした時、[検事の]ショーメットが割って入って、自分だけではなくロベスピエールもその者をよく知っていると言った。彼らによれば、タンプル塔に王とその一家を連行した馬車の1台に彼が乗っていたのを見たので、それだけで愛国心の十分な証になるという。ショーメットは我々を弾劾するだけでは満足しなかった。さらに彼は我々の地区が特権階級の巣窟であると言うだけにとどまらず、我々代表団が模範的な市民に対して恥ずべき陰謀を企んでいると言った。

 議論が進む間、私は危険な窮地に身を置かざるを得なかった。市庁舎の中で仲間たちとともに一緒に座れる余地を見つけられなかった私は、見知らぬ者たちの近くで座っていた。その中には絶えず犠牲者を探している虐殺の常習犯がいた[仏原文では「あつかましく機会に乗ずることに巧みであることのほかに何の取り柄もない者たちが災厄の日々に乗じてあらゆる権力を簒奪した。8月10日事件で主導的な役割を果たした者たちで市会が占められていたと言及する必要があるだろう。追い剥ぎや強盗とほとんど変わらないような者たちがそこに集まっていた。大勢のスイス傭兵が武装しているかどうかを問わず無慈悲にも虐殺されたのはまさに市庁舎の階段においてであった。階段は不運な犠牲者の血で染まっていた。そうした光景を見て我々が感じた恐怖や憤りを隠すことはとても難しかった」と記されている]。ショーメットが弁舌を終えようとした時、ロベスピエールは進行係を招くと「演説したいと議長に伝えてくれ」と言った。

 その時、私が代表団に属しているとわからなかったのか、私を見ていた陰険な顔つきの男たちの1人が「おまえはこんなところで何をしている。まさか特権階級の1人ではあるまいな。もしそうなら俺たちがスイス傭兵にしたのと同じような目にあわせるぞ」と言った。

 そうした脅し文句に私は驚いた。驚きを隠せなかったと私は告白しよう。それにもかかわらず私はできるだけ強い調子で答えた。

「市民諸君、あなた方はそのような興味深い方法で問題を解決するのですか。あなた方が私を殺そうとする前に私が誰か確認したほうがよいと思います」

 「何だと」と別の男が叫んだ。「もし特権階級の言うことをおとなしく聞いていたら俺たちは悪辣な特権階級を排除できないぞ」

 すっかり困惑した私は、すでに話した元同窓生を見つけられないかと周りを見渡した。元同窓生は私が置かれた状況を悟ると、すぐに私のもとへやって来て、市会の書記に呼ばれていると私に言った。我々は何とかその場を去ることができた。私は別の扉から市庁舎へ再入場して仲間たちの中に入った。仲間たちがどのような運命を迎えようともそれを分かち合うのが私の責務だった。

 私が入場した時、ロベスピエールが演説していた。ロベスピエールは全面的にショーメットに賛同していた。彼は我々の生殺与奪の権を握っているように見えた。我々は不名誉にも退散させられることになった。我々は階段で非常に困った状況に陥った。我々を見ようとする人びとで階段が混雑していたからである。

 ようやく市庁舎から脱出できた時、我々は自分たちが屈辱的に扱われたことに対して憤りを抑えられなかった。それから我々はすぐに自分たちの地区に戻って何が起きたかを報告することに決めた。我々が地区に戻った時、地区の集会が開かれていた。代表団の長が任務の結果を伝えるや否や、集会に参加していた者たちは一斉に立ち上がって復讐を求めた。地区に動員を布告して、あらゆる者に緊急事態に備えさせるべきだとすぐに決定された。

 我々は4門の大砲を持っていた。砲兵が大砲を持ち出した。そして2時間もしないうちに2,000人以上が地区の代表団に加えられた侮辱の賠償を求めて市会に押しかける準備を整えた。あらゆる者が持ち場についた。砲兵隊が先頭を進み、その後ろに兵士たちと士官たちが続いた。我々が進軍を開始しようとした時、市会から派遣された4人の市民が謝罪のために現れた。最初、我々は彼らが言うことを注意深く聞いていた。しかし、話者の1人が高慢な言い回しで持論を述べ始めたので、我々の長はその者を制止すると、代表団が受けたひどい扱いについて説明して、使者がさらされている危険について警告した。4人の市民は沈黙した。それから彼らは、自分たちが見聞きしたことを市会に報告させてほしいと言った。我々はそれに同意した。ただ我々は、翌日にショーメットとロベスピエールが侮辱的な言動を代表団の前で公的に撤回することを求めた。4人の市民は、その通りにすると言うと退出した。

 翌日、約束は果たされた。我々代表団は市庁舎に戻った。あらゆる階層の約1,200人の前でロベスピエール、ショーメット、そして市会の議長は、北部の町外れの地区の住民に関して誤解していたことを認めただけではなく、その住民がすばらしい愛国主義者であると断言した。この会議の報告の写しがすぐに我々のもとに届けられた。我々は自分たちの地区におとなしく戻った。この2度目の遠征の結果に備えて地区の住民は武装して待機していた[アンリの回想の引用はここで終わっている]。


 上述のような出来事をわが父が語った通りに引用するのが適切だと私が考えたのは、不運なルイ16世に判決が下された時にパリがどのような状況にあったのか示したかったからである。パリはほかのどのような場所よりも完全な無政府状態に陥っていた。マスケット銃と大砲で武装した二つの陣営の間で内戦が勃発しかけるような街の状況よりも悪い状況があり得るだろうか。

 士官の選抜が実施され、わが父とわが祖父は軍曹に選ばれ、シャルルマーニュ・サンソンは伍長に選ばれた。その結果、彼らは、この特異な時代に起きた政治的見解の表明において自分たちの希望よりも積極的な役割を果たさざるを得なくなった。こうした階級が彼らに与えられてから間もなく、国民公会はタンプル塔に閉じ込めている王の運命について考え始めた。この我々の歴史における血腥い頁は何度も詳細に論じられているので、繰り返す必要はないだろう。私が述べる必要があるのはその展開の最後の場面である。私はそうした作業に重責を感じている[英訳原注には「訳者はほかの部分と同じく無関係な事項をここで大幅に省略した」と記されている。英訳者が指摘している「無関係な事項」とはルイ16世の裁判に関する編者の見解のことである。編者は以下のように述べている。なお本文はこの章の終わりまで仏原文から翻訳する。

「国民公会の裁きの場に姿を現した時、不運な王はチャールズ1世が先に進んだ王の受難という道を歩いていると確信せざるを得なかっただろう。最も簡素な法的な形式さえかなぐり捨てられた不誠実な告発が王に向けられたことは、王の破滅がすでに決定されていたこと、そして、時代のあやまちを償って抑えきれない激情をなだめるための虐殺において王の血が流されることを明らかに示していた。我々は、向けられた告発に対する王の品位のある断固とした対応について知っている。8月10日に人民に対して発砲したという告発に対して彼は精力的に自らを擁護しただけではなく、最も脅威的な攻撃さえはねのけた」

「70年の年月を置いてこの信じられないサイバーを再読してみると、国民公会が犯したあやまちがいかに罪深いものであったかわかる。国民公会は、ルイ16世を蹂躙するまで犯した罪について非難するのを止めなかった。そのような破滅的な結果が革命によってもたらされず、退位した王に少なくとも一つの亡命地を与えられれば、人間の道徳の進歩にいかなる恩恵が授けられただろうか」]。


 バレールを議長とする国民公会の裁きの場の前に不運な君主が姿を現したのは1792年12月11日のことであった。バレールの冷淡な言葉の響きは最終投票に決定的な影響を与えた。王の死刑判決が下されたのは1月17日のことであった。あまりに驚きが大きかったために、誰もが投票の数え方が間違っているのではないかと思った。そこで投票を数える作業が翌日の18日にも実施された。前日に確認された結果は正しかった。交代で国民公会の議長になっていたヴェルニオは、ルイ・カペーに下される判決は死罪であると宣告した。

 19日の会期は執行猶予の問題の検討に当てられた。決断力を欠いた者たちが試みた施策は完全に失敗した。690票のうち過半数の380票が罪人である王の処刑に執行猶予を与えるべきではないと宣告した。

 恐ろしい裁判の動静を強い不安を抱きながら追っていたわが祖父はその報せに驚愕した。どのようなひどい衝撃が彼を襲ったのか言うまでもないだろう。1月20日という日付は、家族にとって馴染み深い祝祭の日であった。その日は60才を迎えていたわが祖父が祖母と結婚して29年目[シャルル=アンリ・サンソンとマリー=アンヌが結婚したのは1766年1月20日なので1793年1月20日の時点で28年目となる]の記念日であった。2人にとって大切な日に哀悼のヴェールを掛けるような大惨事を祖母に知らせたくないとわが祖父は思った。しかし、表情が一変したせいで祖父は心を蝕む悲痛を隠せなかった。同じく悲嘆に暮れたわが父は、祖母のいつものような心遣いにぎこちなく応えることしかできなかった。家の中にあるすべての物が暗鬱な悲痛を発散させているようだった。

 祖母の疑いを招かないようにするために家族全員に緘口令を布いた後、わが祖父と父はそれぞれ部屋から出て、街の中の噂を集めに行った。王が死の準備のために3日間の猶予を求めたことがすでに広まっていた。

 国民公会はそのような猶予を与えなかった。議場界隈に赴いたシャルル=アンリ・サンソンは、フランス王に最後に唯一与えられた恩典が家族に別れを告げることとカトリックの神父を処刑場まで同行させることであることを知った。処刑が翌日に執行されることはもはや疑いの余地がなかった。

 家に戻ったわが祖父の心は絶望でかき乱されていた。わが父も悲しい報せを聞いて打ちのめされた。日中、何人かが彼のもとを訪れて話し合いたいと求めていた。さらに彼はさまざまな文書を受け取った。 そうした文書の中には、夜間に処刑台を設置して翌朝8時から罪人を待つように求める重要な命令が含まれていた。その他の文書は手紙であった。その大部分に署名がなかった。そうした手紙の中には、タンプル塔から革命広場[現コンコルド広場]に護送する途中でルイ16世を解放しようとする動きがあるので、もしサンソンが少しでも抵抗するそぶりを見せればめった刺しにされると警告する手紙もあった。そのほかの手紙は脅迫に訴えることなく、懇願する形式を取っていた。すなわち、群衆の中に紛れ込んだ覚悟を決めた者たちが衛兵の列を突き破って処刑台から王を救出する時間を稼ぐために、犠牲者を解放する者たちに加担して執行を先延ばししてほしい。

 わが祖父は最後の手段について不可能なことでもあり得ないことでもないと思った。それが祖父の唯一の希望の光になった。食堂を抜けて妻がいつもいる居室へ行こうとした時、彼は記念日を祝うテーブルが設けられているのを見た。テーブルには花や果実や焼き菓子が飾られていて、結婚の甘美な思い出を祖母がどれだけ大切に思っているかを示していた。祖母の居室に入ろうとした時、祖父は助けを求める2人の男の声を聞いたように思った。祖父が扉を押し開けると、わが父と見知らぬ若者が気絶した祖母の目を覚まさせようとしていた。このやって来たばかりの若者は、シャルル=アンリ・サンソンを見つけられなかったのでその息子に面会を求めた。そして、祖母がいるにもかかわらず、面会の最初から彼はその日の恐ろしい秘密を話してしまった。若者は王を救出しようとする解放者であり、ほかの誰よりも献身的であり、王の身代わりとして死ぬと言った。もしそっくりな衣服さえ準備できれば、処刑台で入れ替わったとしても群衆はそれに気付かないだろう。そうした騎士道的な行為は真剣であっても荒唐無稽なものであり論外であった。それはわが祖父の協力を前提として護送の途中を狙った救出計画にも言えることであった。というのは通常であれば罪人を処刑場まで連行する役割を担うのはわが祖父であったが、今回はそうではなかったからである。

 わが祖母が気絶から回復した時、訪問者は献身が無駄になることを理解させられ、模範的な犠牲者を救うために神がほかの方法を選んでくださるはずだという希望を伝えられたうえで追い払われていた。重大な報せが知られてしまったせいで、計画されていた記念日の祝いについて話す者は誰もいなくなった。ささやかな祝いの席が片付けられてしまった一方、タンプル塔の虜囚は、牢獄で護衛たちとともに最後の晩餐のパンを割ってワインを飲んでいた。そして、翌日、王の命を奪うことになる者は何も食べず、その隔絶された家族は祈りを捧げながら涙を流していた。

 わが祖母は、まるでもう1人の聖母マリアであるかのように大きなキリスト像の足下にある祈祷台に身を伏せていた。一晩中、彼女は物思いに耽ってそこで過ごした。ただ夫が部屋の端から端まで行ったり来たりして床をきしませる音が聞こえるだけであった。

 わが父は服を着たまま独りででベッドに横たわっていたが、妄想に取り憑かれたながら不安な睡眠を少しだけとれただけであった。やがて朝になった。憂鬱な儀式のために各地区から部隊を召集する太鼓が打ち鳴らされた。各地区はそれぞれ歩兵大腿を出すことになっていた。わが父は我々の地区を指揮する一員であった。基本的に父はそれを残念に思っていなかった。というのはもし何か機会があれば自分のやり方で行動できるし、この残虐な日において祖父が何か危機を冒すことになったら協力できると思ったからだ。父は制服を来てシャルル=アンリ・サンソンのもとへ降りて行った。シャルル=アンリ・サンソンはシャルルマーニュ・サンソンとほかの兄弟を従えて出発しようとしているところだった。このような機会において兄弟たちはシャルル=アンリ・サンソンを見捨てたくなかった。3人とも全身をすっぽりと覆う首までボタンがついた袖の広い分厚い外套[ 仏原文はhouppelande]を着て完全武装していた。

 出発の時刻になると、わが祖母は泣き崩れた。わが父とわが祖父は彼女の腕を苦労しながら引き離した。悲しいことに祖母は、彼らにもう二度と会えないと確信していた。いろいろと寄せられた報せで警戒心を募らせたせいで祖母は、この恐ろしい日がどのような形で終わるにしても、愛する者たちの命が危険にさらされることになると確信していた。

 わが父は祖父と叔父に別れを告げると、革命広場のギロチンから7、8メートル離れた場所に配置されている自分の大隊に加わりに行った。助手たちはギロチンを立て始めていた。広場は文字通りあらゆる部隊の兵士で埋まっていた。その中でも特に我々の目を引いたのはマルセイユの大隊であった。マルセイユの大隊はブールヴァール[仏原文はboulevarts、Boulevards、すなわちマドレーヌ広場からレピュブリック広場に至る大通りで盛り場があった。「ブールヴァールから見て広場の右側」は現コンコルド広場の西側]から見て広場の右側に配置されていた。この大隊は大砲をともなっていた。その砲門は処刑台に向けられていた。

 ではシャルル=アンリ・サンソンにこの話の続きを詳細に語ってもらおう[以下はシャルル=アンリ・サンソンの回想を引用した部分である。仏原文は括弧でくくられているが煩雑なので括弧を外して表記する]。


 供犠は成就される。......もう二度と会えそうにない哀れな妻と息子を抱き締めた後、私は朝8時に家を出て、シャルルマーニュとルイ=マルタンの2人の兄弟とともに辻馬車に乗り込んだ。通りの群衆がとても多かったので、我々が革命広場に到着した時には9時近くになっていた。私の助手のグロとバレは器械の準備を終えていた。それが無用のものになると私は確信していたのでほとんど点検しなかった。兄弟たちと私は十分に武装していた。さらに我々は袖の広い外套の下に、剣に加えて短刀をしのばせ、ベルトに4丁の短銃を差し、ポケットに弾薬箱と銃弾を詰め込んでいた。この不運な王を救出する企てがきっとあるだろうし、王のために道を切り開く手段は多いに越したことはないと我々は思っていた。

 広場に到着するとすぐに私は息子を目で探した。息子は大隊とともに私から少しだけ離れた場所にいた。彼は理解を込めた眼差しで私を見た。それは、今回、苦杯をなめる必要はないという希望で私を喜ばせて励ますかのようだった。昨日聞いた救出の試みが何か一つでも実行される気配を示すような音が聞こえないかと私は耳をそばだてていた。この時点で王は護衛の手から奪還されて、忠実な友人たちの庇護の下、逃亡しているのではないか、もしくは飽きっぽくて移り気な人民が簡単に意見を変えて王を強力な保護下に置いて、準備されていた処刑ではなく熱烈な拍手喝采で迎えるのではないかといった思いに耽っていた。

 私がこのような空想で慰めを得てそうした夢に没頭しそうになっていた時、なんという覚醒が私を待ち構えていたのか。

 時々、私の目はマドレーヌ教会[コンコルド広場の北側にある教会、この当時、建設途中であったが工事が中断していた]側にじっと向けられた。突然、騎兵の一隊が姿を現した。その直後、2頭の馬に牽かれたベルリン馬車[大型の四輪箱馬車]が騎兵に二重に取り囲まれ、同兵種の別の分遣隊によって先導されていた。もはや疑念の余地もなく、もはや幻影でもなく、受難者が接近していた。私の視界はぼやけ、全身を震えが走った。私は視線を息子に投げかけた。すると彼の顔が真っ青になっているのが見えた。

 その間にベルリン馬車が到着した。王は後部右側に座っていた。その隣には聴罪神父[エジウォルド・ド・フィルモン神父、神父によるルイ16世の死に関する記録はジャック・ブロス著(吉田春美訳)『ルイ十六世幽囚記』(福武書店)143頁~165頁に採録されている]がいた。そして、前部座席には2人の憲兵隊本部の伍長がいた。場所が停止して扉が開いた。まず2人の憲兵が降りた。それから尊敬すべき神父が降りた。神父はしばらく見かけられなくなっていた聖職衣を着ていた。そして最後が王であった。王はベルサイユ宮殿とテュイルリー宮殿で見た時よりもずっと威厳があり、落ち着いて、堂々としていた。

 王が[処刑台の]段に近づいて来るのを見ながら私は絶望に駆られて周りを見回していた。私が目にするところはどこも兵士しかいなかった。兵士の後ろに追いやられていた群衆は、驚いたようであり押し黙っていた。太鼓が打ち鳴らされた。それはたとえ群衆が憐憫を求めて叫んでもきっと止まることなく打ち消してしまっただろう。あれほど広言された救出者はいったいどこにいるのか。シャルルマーニュと私は悲嘆にくれた。より若く志操堅固なマルタンは前に進み出て、恭しく帽子を脱いで、服を脱いでいただかなければならないと王に告げた。

 王は「その必要はない。このままでもすませられるだろう」と答えた。

 わが兄弟は、手を縛る必要があるとさらに言った。

 この最後の条件は王をより憤慨させて、その額に朱が差した。

 王は「ではおまえは私に手をかけようというのか。さあ受け取れ、私の服だ。だが私には触れぬように」と言った。

 そう言いながら王は服を自ら脱いだ。シャルルマーニュがマルタンの加勢に駆けつけて、心から湧き出る敬意を込めてこの模範的な犠牲者に話しかけようとしたが、処刑台の周りにいる獰猛な連中に気兼ねしてわざと冷淡な調子で王に話しかけた。しかし、きっと涙が隠されていたのだろう。

「そうすることが絶対に必要なのです。そうしなければ処刑ができません」

 私はようやく自分の役割を思い出して、これ以上、兄弟に重荷を背負わせることはできないと思った。私は身を傾けて神父の耳にささやいた。

「神父さま、お願いですから王からお許しを得てください。王の手を縛っている間、我々は時間を稼げます。このような光景が群衆の真情を動かさずにいるはずがないでしょう」

 神父は私のほうに振り返った。その悲しげな眼差しには驚きや疑い、そして諦めが浮かんでいた。神父は王に言った。

「この最後の試練をご辛抱ください。そうすることによってあなたは、報いを与えてくださる神の思し召しによりかなうことになるでしょう」

 王は両腕を差し出した。その間に聴罪神父はキリスト像を差し出して王に接吻させた。2人の助手が、かつて王笏を握っていた両手を縛った。これは痛ましい犠牲者の恩恵になるような反応を間違いなく引き起こす合図となると私は思っていた。すさまじい太鼓の音のほかに何も聞こえなかった。

 王はこの立派な聖職者に支えられてゆっくりと、そして威厳に満ちた足取りで処刑台の段を登った。

 王は「太鼓を止めることはできないのか」とシャルルマーニュに聞いた。

 シャルルマーニュは、それはわからないと王に身振りで知らせた。処刑台の上に到達した王は、最も多くの群衆がいると思われる側に行って、命令するかのように鼓手たちに向けて頭を動かした。すると鼓手たちは、彼ら自身の意思に反してしばらく太鼓を叩くのを止めた。

 「フランス人よ」と王は毅然とした声で言った。「あなた方はあなた方の王があなた方のために死ぬのを見ようとしている。願わくはわが血があなた方の幸福を強固にせんことを。私は告発されたすべて罪に関して無実のまま死んで行く」

 おそらく王はさらに続けようとしたのだろう。その時、衛兵の指揮官であるサンテールが鼓手たちに合図した。鼓手たちがすぐに太鼓を再び叩き始めたせいで、もう何も聞こえなくなった。

 すぐに王は死をもたらす跳板に縛り付けられた。そして、刃がその頭に滑り落ちた瞬間、処刑台まで付き添った信じ深い聖職者が低い声で次のように言ったのが王に聞こえただろう。

「聖ルイの息子よ、天に昇りたまえ」

 かくしてこの不運な王は最期を迎えた。もし1,000人の決意を固めた者たちがいれば最期の瞬間に救出できただろう。兵士たちを除けば、王は真の憐憫の情を呼び起こしつつあったのだから。本当のところ、私は、昨日、あれだけ多くの予告を受け取った後で、どうして王がこれほどむごく見捨てられてしまったのか理解できなかった。最低限の合図だけで王のために注意をそらすことが十分にできたはずだ。というのは、私の助手のグロが威厳に満ちた首を見物人たちに見せた時、数人の狂信者が勝利の叫びを上げたものの、大部分の人びとは深い恐怖と悲痛な戦慄で顔を背けていたからである[シャルル=アンリ・サンソンの回顧はここで終わっている]。

 これがわが祖父がルイ16世の死に関して我々に残した記録である。さらにこれは『テルモメートル・デュ・ジュール紙』にわが祖父が送った手紙[1792年2月21日付の手紙。内容は回顧録とほぼ同じだが、ルイ16世が自ら髪を切るように申し出たことに言及している点とルイ16世が信心深い人であったと指摘している点が異なっている。全訳はルバイイ113頁、レヴィ123頁~124頁、アラス104頁~105頁参照]の内容と一致している。わが祖父は、同紙に掲載された墓の中の死者を尊重しようとしもしない誤った主張を正すべく、わざわざ手紙を書き送った[1792年2月13日付の『テルモメートル・デュ・ジュール紙』に掲載された記事を否定するためにサンソンは1792年2月21日付の手紙の手紙を書き送った。手紙を寄稿する動機となった記事の内容についてはレヴィ122頁~123頁およびアラス103頁~104頁参照。なおレヴィとアラスは、サンソンが1792年2月13日付の『テルモメートル・デュ・ジュール紙』に掲載された記事の中でどの記事に反論するために手紙を書いたかについて異なる意見を述べている]。この手紙はよく知られているので、ここであらためて紹介する必要はないだろう[以下の二段落はルイ16世の死に関するほかの書籍に対する批判に当てられている。煩雑なので省略する]。

 国民公会が流した王の血は国民公会を酔わせた。危険な酒に耽るのと同じく流血に耽ることは哀れな者たちにとって非道な習慣となる。また流血は、社会の残骸を奪い合う者たちを魅了した。ルイ16世の首は深淵に投げ込まれた。そして、王を深淵に投げ落とした者たちもそこへ転落することになった。来世という法廷の足元で死者たちは裁きが下されるのを待たなければならない。1年もしないうちに神の御前で最終決算をするために、革命で犯した罪と同等の刑罰が罪を犯した者自身に与えられることになる。

 それこそ私の伝えたい歴史である。

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