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第3章 パリへ

 私の先祖であるシャルル・サンソン・ド・ロングヴァルがノルマンディーを離れたのは1685年の終わり頃のことであった。彼は、不幸な結婚という運命を彼にもたらしたマルグリット・ジュエンヌの思い出を後に残してきた。私が記録にとどめようとしている出来事は、そうした彼の動機を邪魔しかねないだろう。彼は暗鬱で落ち着かない気質になり、それは彼の職業による陰険な外見をより際立たせた。ルーアンで彼はまるで恐怖そのものであるかのように避けられた。彼が道を通る時、住民たちは、体中に荒々しい生活の痕跡を残す男のことを互いに指差し合った。大部分の人びとは彼のそうした痕跡を目にしないようにした。しかし、サンソンを一目でも見れば彼が処刑人であることはすぐにわかった。男たちも女たちも子供たちも彼を見ると後ずさりした。

 このような大きな動機があったので私の先祖は、不愉快な知名度を捨て去って、悲しい思い出でいっぱいの場所を離れることを残念だと思わなかった。彼は、管轄地域を王国の首都に変更するという提案を進んで受け入れた。その当時、重大な出来事がたくさん起きた。大法官テリエ[17世紀フランスの政治家、大法官として重きをなしルイ14世による絶対王制下の軍隊を整備、1685年没]が亡くなったばかりであり、その印章は心優しく誠実であるという評判のブーシェラ[17世紀フランスの政治家]の手に委ねられた。完全な紳士であるブリオン侯爵[人物不詳]はパリ奉行に任命されたばかりであった。したがって、社会の階梯の両極端にある官吏、すなわちフランスの大法官、パリ奉行、そして処刑人が交代した。

 王座に連なる王族たちの突然の死と、相続用の毒と呼ばれていたボルジア家[イタリアの貴族、権謀術数で有名]の毒が再び流行した時における偉大な王国の異端裁判所である異端審問室の奇妙な処置によって生じた長い反響はすべて収まったばかりであり、不幸にも宗教紛争に慣れきってしまったわが国に新しい災厄の時代に投げ込む無思慮な行動さえなかったら、大地の静穏を乱すものは何もなかっただろう[この一文は英訳が不明瞭なため仏原文から翻訳した]。私が言っているのナントの勅令の撤廃[1598年にアンリ4世はナントの勅令でプロテスタント信仰を認めて宗教紛争を和解に導いたが、1685年にルイ14世によってナントの勅令は撤廃された]のことである。フランスに多くの内戦をもたらした不寛容への回帰に関して述べることで脱線するべきではないだろう。サンソン・ド・ロンヴァルの特殊状況にこの出来事がどのような影響を与えたのか言及するだけにとどめたい。国王の宣告は、新教に属するがゆえに秘蹟を拒んだ病人[仏原文ではles malades、英訳版ではthe dying、死に瀕した時に秘蹟を受けるのを拒んだ新教の信奉者といった意味だと思われる]をも厳しく罰するように命じた。さらに国王の宣告は、もし異端者が回復した場合、公的な謝罪[罪人に何らかの恥辱を与えて神や国王、または被害者に対して謝罪させる]、終身労役刑、財産の没収を命じている。死亡した場合でも審判は進められ、異端者の遺体はすのこそり[重罪犯人を刑場に送るための乗り物]で引き回されてから公共下水道に投げ捨てられた。

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