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第12章 ラリー=トランダル

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※以下の文章は校正前のものです。校正後の文章は上記の冊子に収録されています。

※有料表示が出ますが全文無料で読めます。

 1766年5月6日、裁判所に集まった高等法院は、東インド軍総司令官であるトマ=アルチュール・ド・ラリー=トランダル将軍に国王の利益を損なった罪で死刑の判決を下した。

 この判決は不公正なものであり、世論によって不当にも支持されたと指摘するべきだろう。ただ後に世論はラリー=トランダル伯爵の名誉回復を熱心に求めている。インドにおける我々の失態と植民地の喪失は、フランスが誇張しがちの国家の誇りを煽り立てた。トマ=アルチュール・ド・ラリー=トランダルはアイルランド系であった。彼の家系は亡命したスチュアート家から出たものである。ディロンのアイルランド連隊[名誉革命の動乱期にディロン子爵によってアイルランドで結成されてフランスに渡った連隊に端を発する]に12才で入隊したラリー=トランダルはバルセロナの包囲戦[スペイン継承戦争中の1713年から1714年にかけて起きた戦い]に参加した。彼はすぐに連隊の指揮官になった。その連隊は1740年に彼の名前が冠せられた。そして47才で将軍に任命された。

 ラリー=トランダル伯爵は、若僭王[イングランド王ジェームズ2世の孫、1745年に王位を狙って挙兵したが敗北した]の王位請求を支援するために1万人の兵士をイギリス海岸に上陸させる計画を考案した。ラリー=トランダル伯爵は計画の実行に財産の大部分を注ぎ込んだが、あまりに大胆かつ不可能な計画だったので実行されなかった。イギリスに対する嫌悪感と並外れた勇気を評価したフランス政府は、植民地軍の総司令官に彼を任命した。しかし、あまりに癇癪持ちで頑迷だったうえに、暴力以外のあらゆる手段を軽蔑していたせいで、彼は戦場よりも政治の知識が必要となる地位において間違いを犯すことになってしまった。ラリー=トランダルが任命される16年前、フランス東インド会社と犬猿の仲であったデュプレクス[18世紀フランスのインド総督]は母国からいかなる支援も助成金も受け取れずにわずかな兵力と巧みな外交手腕を駆使してインド亜大陸におけるイギリス勢力を抑制した。ラリーはどのように征服すればよいか知っていた。しかし、彼はデュプレクスの方針の秘訣から学ぶことができなかった。まず彼はセント・デイヴィッド[インドの南東部にあったイギリスの拠点]を強襲で奪った。さらに彼はカッダロール[インド南東部にあったイギリスの主要拠点]を占領してコロマンデル海岸[インド南東部にある海岸]を制圧した。セント・デイヴィッドで彼は恐ろしい蛮行を認めた。十分に報酬を受け取っていなかった軍隊は町に殺到して略奪した。同時にヒンドゥー教を軽蔑していたラリーは最も尊重されていた聖域を蹂躙したばかりか、住民が密偵になるのではないかと疑って大砲で吹き飛ばした。フランス人とともに残っていたヒンドゥー教徒は去ってしまった。ヒンドゥー教徒の協力が得られなくなったばかりか、将軍たちの助言も聞き入れず、彼は前進した。イギリス人は後退を続けていたが、ラリーを内地に引きずり込むと襲いかかってきた。ようやくラリーは自分のあやまちを悟ったが、それを挽回してやり直すには遅すぎた。撤退時に攻撃を受けてラリーの部隊は4分の1の損失を出した。しかしながら、そのような敗北に遭ってもラリーのような男は挫けなかった。彼はアルコット[ インド南東部にある町]を攻撃して占領し、マドラス[現チェンナイ、インド南東部にある町]を包囲した。マドラスはすぐに彼の手に落ちた。兵士たちは、セント・デイヴィッドの略奪の恐怖を繰り返したり、さらにひどいことをしたりした。4,000人のイギリス人は、セント・ジョージ砦[現チェンナイ、インド南東部にあった要塞]と呼ばれる白い塔に避難した。そこにいたイギリス人はあらゆる攻撃を撃退した。同時に、ラリーがデュプレクスの補佐の1人であったビュッシから指揮権を取り上げてコンフラン侯爵に委ねていたデカン[インド南部中央部にある高原地帯]方面軍はマスルパタム[インド南東部にある町]で敗北して捕らえられた。

 ラリーのインドでの軍歴の続きを語ることは歴史の無駄話になってしまうだろう。ラリーによる抵抗の最後はよく知られている。災難に次ぐ災難でラリーはポンディシェリ[インド南東部海岸にある町]で包囲された。しかしながら、彼はポンディシェリを類稀なる勇気で守った。ついに彼は幸福の条件を話し合うために軍議を招集しなければならなくなった。クート将軍は無条件降伏以外の降伏を受け入れようとしなかった。ラリー=トランダルは大部分の兵士たちとともに捕虜としてイングランドに送られることになった。

 この敗北の報せはフランスで大きな騒ぎを引き起こした。ラリー=トランダルの数多くの敵は、フランス軍の失態に対する非難の矛先を彼に向けた。ラリー=トランダルの軍事的才能だけではなくその勇気も中傷された。しかし、公金を使い果たしていたラリーが兵士たちのためにお金を送らせ続けていたということに言及すべきだろう。ロンドンにいたラリーは何も恐れることはなかった。しかし、流れている噂を聞いたラリーは、命の危険を顧みなかった。ラリーはフランスに帰るために恩赦を与えてほしいとイギリス政府に求めた。そして、ラリーは罪人としてではなく告発者として敵に迅速に復讐するためにフランスに戻った。

 フランス軍の不名誉の原因となった男に対する当時の人びとの怒りは激しかったが、フランス政府は彼を逮捕しようとしなかった。おそらく大臣たちは、ルイ15世の政府に大きな責任がある失態で無実の従犯者を犠牲にしようとは思っていなかったのだろう。

 しかしながら、ラリー伯爵の敵は強力であり、逮捕命令がついに出た。伯爵の親戚たちと友人たちは、手遅れにならない前にイングランドに戻るようにラリーに勧めた。しかし、気性が激しい将軍は亡命を聞き入れるどころか、バスティーユへの収監を王に求めた。ラリーは1764年11月15日に収監された。

 ラリーの収監は厳しいものではなかった。ラリーは自分に待ち受ける運命をまったく予想していなかったようだ。裁判の準備が進められている間、ラリーは牢獄の周りを歩くことも友人を迎え入れることも許されていた。裁判は19ヶ月以上も続いた。敵の憎悪は和らぐどころではなく、裁きを求める者たちの激情はラリーの不運によっていっそう強く燃え上がった。8月3日、ルグリ氏とポンディシェリの最高議会の議員たちは、ド・ラリー氏の汚名によって彼らの栄誉と名声がはなはだしく損なわれたとして法的処罰を求める請願を王に送った。さらにポンディシェリのイエズス会の修道院長であるラヴァール神父はちょうどその頃にパリに帰って来たばかりであった。彼はインドでの奉仕に関して年金をフランス政府に要請していたが亡くなった。彼の書類が差し押さえられて調査された。彼の住居から莫大な金と長い回顧録が見つかった。その回顧録は、ラリー伯爵を汚職と反逆罪で告発していた。ラリーの敵の騒ぎが大きくなったものの、不正行為の摘発に使えるような理由がほとんどなかったので、イエズス会の文書はパスキエ氏が重大事件を告発する唯一の根拠となった。

 自分が無実であることを確信していた伯爵は、軽率にも指揮下の士官たちを植民地の行政官たちとともに告発した。彼らは自分たちを正当化するために自分の死と告発を必要としていると彼は激しく非難した。開封勅許状によってラリーの裁判は大法廷に移された。判事たちの前に姿を現した時、被告はインドにいた時のように癇癪を抑えることができなくなっていた。ラリーは告発の論拠について一つ一つ論じ、非難に対して抗議し、怒気を発し、反駁し、ある者の卑怯さやまたある者の貪欲さにあげつらい、勝利においても敗退においても何も支援してくれなかった無力な政府に罪があると示唆した。彼の弁舌の激しさ、沈黙の中にあっても獅子のように誇り高く昂然と上げた頭から繰り出される巧みな言葉、そして彼の自己弁護のやり方などは人びとに対して好意的な印象を与え、その敵意を縮小させた。ラリーの敵の想像の中だけに反逆が存在するのは明らかなことだった。そうでなければ、どうしてラリーは自らフランスに戻って獅子の顎の中に身を投じたのだろうか。不正行為に対する告発も同じく事実無根であった。しかし、ラリーの権力乱用や植民地の行政官や兵士たちに対する暴力、住民に対する残虐行為の証明に関しては、多くの証言者がいた。それだけでも偏見を抱いた裁判所が死刑判決を課す十分な口実となった。

 1766年5月6日、判決が言い渡された。王、国家、そしてフランス東インド会社の利益を損ない、権限を濫用した罪でトマ=アルチュール・ド・ラリー=トランダル伯爵に斬首刑を課す。

 ラリーはあまりにも誇り高かったために自分自身を高く評価しがちであり、ド・ビロン元帥[仏原文はmaréchal de Biron。ビロン元帥(ビロン男爵)は16世紀末にアンリ4世の下で最高司令官を務めた。文脈からすれば、おそらくビロン元帥とその息子のビロン公爵を取り違えたと考えられる。勇猛な軍人として知られたビロン公爵は父と同じくアンリ4世の寵愛を受けたが、敵国と通じてフランス王国を解体する陰謀を企んだという嫌疑をかけられて斬首された]のようにどのような結果を招く可能性があるのか考えようとしなかった。差し迫る運命を示す多くの兆候が彼に危険を告げていたはずだ。ある朝、バスティーユの官吏が高等法院に彼を連行した。群衆が馬車を囲んだ。ラリーが窓から外を見ようとすると、官吏はもしあなたが少しでも外の群集に話しかけようとすれば殺すように命令を受けていると言った。また判決の数日前、ラリーはいつものように将軍の正装を着用してすべての勲章を佩用して姿を現した。裁判長はそれらを剥奪するように官吏に命じた。官吏は受けた命令を伯爵に打ち明けて、暴力に訴えかけるようなことをさせないでくれと懇願した。ラリーは、勇気と王に対する献身が報いられないのであれば死んだほうがましだと答えた。取っ組み合いが起きた。ラリーは兵士たちによって取り押さえられた。兵士たちが肩章と勲章を剥ぎ取ろうとしたせいで軍服が破れた。判決が読み上げられた後、ラリーは呆然としていた。しかし、彼の沈黙は短かった。彼は呪いの言葉を吐き出すと、判事たちのことを処刑人や暗殺者と呼んだ。バスティーユに連れ戻された時、彼は自制心を回復させて、起きたことについて後悔の念を伝えて官吏を抱き締めた。彼はベッドに入って数時間ぐっすりと眠った。夜7時、彼は起こされて、判決を宣告したパスキエ氏が面会を望んでいると伝えられた。彼は起き上がって、訪問者を案内するように看守に言った。

 多くの請願が王に提出されていた。ド・ショワソル氏[ショワソル公爵、18世紀後半に活躍したフランスの有力政治家]自身がラリーのために仲裁に入った。しかし、ルイ15世の気持ちを動かすことはできなかった。ただパスキエ氏は穏やかな言葉で執行猶予の可能性についてほのめかした。ところがパスキエ氏は、伯爵が報酬に値すると考えている行動を「犯罪」という言葉を使って言及してしまった。そのせいで伯爵は耳を貸そうとしなくなった。伯爵はこれまで経験したことがないほどの激しい怒りの発作に襲われて、かつての成功と失敗の舞台であった場所の地図を描くために使っていたコンパスを掴むと心臓近くを刺した。その武器が肋骨に当たったせいで傷は浅かった。看守が殺到して彼の手からコンパスを奪い取った。しかし、絶望が不幸な老人に異常な力を与えた。彼は看守の手を振り払うと、パスキエ氏に襲いかかった。騒動を収拾するために兵士たちが呼ばれた。

 パスキエ氏はこうした光景に困惑したせいで模範囚にふさわしい扱いを忘れてしまった。パスキエ氏はトランダルに猿轡をはめるように命令して、将軍が自殺しようとするなら処刑の時刻を早めるように許可を求めに行くと言った[以下、この章の終わりまで仏原文から翻訳]。

 シャルル=アンリ・サンソンは、翌日午後2時に準備を整えるように前日に通知を受けていた。判決が公式に発表される前からラリーの処刑日は定められていた。

 シャルル・サンソンは家で最後の命令を待っていた。シャルル・サンソンは、馬車の騒音が家の前で止まるのを聞いた。ブリ=コント=ロベール[ フランス北部にある町]という小さな町に数年前に隠遁した父が馬車から降りてくるのが見えた。

 ジャン=バティスト・サンソンは焦燥に駆られていた。

 まさにその日の朝、パリから戻ったばかりの隣人の1人がラリー伯爵事件の判決を彼に告げた。この名前は老人の心に奇妙な思い出を甦らせた。彼はその場でパリに向かって出発しようとした。パリに行くことはあまりなかった。というのは、卒中の影響が出ていた四肢をかなりうまく使えるようになっていたが、あまりに体が弱っていたからだ。

 35年前[実際は28年前。後の記述を読むとわかるが、この場面は1738年のジャン=バティストの結婚式に関する逸話を紹介している。ラリー=トランダルの処刑は1766年なので28年前となる。安達109頁参照]、徐々に郊外へと変わりつつあった町外れ、すなわち後にフォーブル・ポワソニエールと呼ばれることになる場所にあった小さな家で夜を過ごした若者たちが迷路のように込み入った道で迷った。あまりに変化が激しかったせいでほとんど行き来できないようなありさまだった。

 夜の闇の中、雨が降っていた。道に迷った彼らは、ちょっとした水たまりが汚水だめに変わったくぼみに一歩ごとにはまっていった。彼らはついに新しくできた道の先を見つけた。そこかしこに雑多な建物があった。大きな家の正面にある一連の窓から光が漏れて際立っていた。その家から何かがぶつかり合う音が聞こえてきた。彼らが近づいてみると、窓の後ろで揺れ動く踊り手の影が見えた。

 若者たちは困った状況においてこれほど楽しそうな避難所を見つけられると思っていなかった。しかし、夜の酒盛りで気が大きくなっていた彼らは、避難所を寄越してくれた神に感謝するよりも親切な金持ちとその祝宴を邪魔して楽しむほうがよいと思った。

 彼らは扉を乱暴に叩いて、主人に自分たちの名前を告げて舞踏会に参加させてくれないかと聞いてくれと従僕に頼んだ。

 主人がすぐに姿を現した。

 主人は30才[実際は19才。ジャン=バティストは19才で結婚している]の男であり、陽気な人相をしていて、際立った身なりであった。彼の優雅な身なりは、若者たちが家に入る前に考えていたよりも彼の社会的地位が高いことを示していた。

 主人は礼儀正しく若者たちを迎え入れて要望を微笑みながら聞いた。その微笑みは、愚かなことをする年頃を過ぎてからあまり経っていないので若者たちを理解できる男ならではの微笑みであった。男は、この舞踏会は自分の結婚式のためのものだと彼らに言った。また彼は、結婚式にあなた方を招待できれば間違いなく大きな誇りの源になるだろうと言った。さらに彼は、あなた方が参加したいと望んでいる祝宴はあなた方が私に与えようとしている栄誉に値しないときっと思うでしょうと言った。

 若者たちが引き下がらなかったので、花婿は彼らを舞踏室に先導して、若妻と家族を紹介した。

 この家族は、彼らの費用で若者たちに笑って楽しんでほしいようだった。しかし、花婿を除いてそこにいた親切な人びとの大部分は十分に楽しめない様子で厳しい表情をしていた。それは彼らが催している祝宴にそぐわないものだった。彼らは自分たちが見下されていると思っているようだった。彼らは見知らぬ若者たちを驚きとともに見ていた。見知らぬ若者たちに対して積極的に善意を示そうとした時でさえも彼らの表情にはよそよそしさが残っていた。

 しかしながら、美しい女たちがいた。若者たちは晩餐で活気づいた。残念なことに 彼らはあまりにも若く軽薄だったので抱いた印象について長々と考えなかった。彼らは一晩中踊り明かして、もてなしに喜んでいるようだった。

 夜が明けて彼らが退出しようとした時、家の主人が彼らの前に出てきて、自分の名前と素性を伝えてあなた方が誰の客になったのか知ることになれば喜んでもらえないのではないかと聞いた。

 若者たちはそれを面白がって、すばらしい夜を過ごさせてもらったのだから感謝の念は変わらないと気前良く請け合った。すると若い花婿は微笑みを浮かべながら、自分の名前はシャルル=ジャン=バティスト・サンソンであり高度作業の執行人であり、自分のような職業に就く者も同じくあなた方が分かち合っているような楽しみを分かち合うことがあるのだと告げた。

 こうした言葉が発せられると、若者たちの中の2人は明らかに怯んだように見えた。しかし、ディロンのアイルランド連隊の制服を着た精悍な顔つきをした3人目の若者は哄笑して、自分の運命を支配する幸運な星に巡り会えたと言った。彼は、斬首したり、絞首したり、撲殺したり、焼き殺したりする人間と知り合いたいとずっと思っていた。彼は、こうした栄誉を与えてくれたこの楽しい状況を祝福せざるを得なかった。それから彼は、商売道具を見せることによってこの家ならではの恩恵を示してほしいと花婿に頼んだ。

 ジャン=バティストは彼らの要望にすぐに応じて、拷問や処刑に使う道具を収蔵している部屋に彼らを案内した。

 仲間の士官たちが拷問に使用する奇妙な形の道具に驚いている中、彼[ディロンのアイルランド連隊の制服を着た精悍な顔つきをした3人目の若者のこと]は正義の剣の前で足を止めてずっと離れずに見つめていた。

 ジャン=バティスト・サンソンは彼が特別な関心を抱いているのに驚いて、並んでいる剣の中から一振りを取り出すと彼に手渡した。

 この剣はオルン伯爵の件でシャルル・サンソンがクレキィ侯爵に見せたものと同じものであり、長さ4ピエ[130センチメートル]の広刃の薄造りであり、先が丸くなっていて、すでに私が言ったように職人によって中央部分に施されている血溝にラテン語でユスティティア[Justitia、古代ローマの正義の女神]と掘られていた。柄は錬鉄製であり10プス[27センチメートル]の長さであった。

 士官はしばらく黙って何かを考えてるようであった。それから彼は刃を指でなぞって確かめると、両手で握って凄まじい力と技で振り回して、このような武器を使えば首を即座に切り落とせるのかと聞いた。

 微笑みを浮かべたジャン=バティスト・サンソンは、ド・ブートヴィル[おそらく決闘騒ぎを起こして1627年にグレーヴ広場で斬首されたフランソワ・モンモランシー=ブートヴィルのこと]、ド・サン=マール[ルイ13世の廷臣、王の寵愛を受けて権勢をふるったが、リシュリュー枢機卿に対する陰謀を企てた罪でリヨンで斬首された]、ド・ロアン[17世紀の貴族、ルイ14世に対する陰謀を企てた罪で1674年に処刑された]のような事例があれば、私は貴人の斬首の仕事を助手に任せたりせず、その者を苦しめないように二の太刀要らずを誓うと断言した。

 さてこの若い士官に関心を抱いた者はもう察しているかもしれないが、彼は誰あろうラリー=トランダル伯爵であった。

 冒険譚はヴェルサイユで大きな評判になった。

 ジャン=バティスト・サンソンはそれを忘れることはなかった。そして、ディロンの連隊の若い士官と交わした誓いを守らなければならなくなった運命の巡り合わせに心打たれたばかりか、処刑の執行が栄誉あるものだという奇妙な考えにとりつかれた。

 そうした計画について父から聞かされたシャルル・アンリ・サンソンは、父に対して敬意を抱いていたので唇に浮かびそうになった笑みを抑えた。右側の四肢の筋肉が麻痺していたのは確かだが、柔軟さを取り戻しつつあった。しかし、完全に力を取り戻したとはとても言えなかった。さらにひどい病苦のせいでジャン=バティストは実年齢よりも年老いていた。彼の髪は雪のように白く、頭は垂れ、背中は曲がっていた。彼はまだ60才にもなっていなかったが、すでに外見がすべてが老衰を示していた。

 シャルル=アンリは、父に決意を撤回するように説得しようとしたが、なかなかうまくいかなかった。もし息子が交代を申し出なければ、反対を聞き入れなかっただろう。そして彼は処刑への立ち会いを望んだ。

 彼らが話している間、警官がやって来て、ラリーの処刑の時間が早まったのでバスティーユに急行してほしいと告げた。

 ジャン=バティストは、正義の剣の中から一振りを自ら選んだ。奇しくもそれはド・ラリー氏が過去にじっと見つめていた剣だった。父と息子は古い要塞に向かった。

 ド・ラリー氏の独房に至る廊下は兵士たちと廷吏たちでいっぱいであった。部屋から叫び声が聞こえた。

 処刑の時間の変更が告げられると罪人は「それはなお良いことだ。おまえたちは私に牢獄で猿轡をはめた。しかし、私を処刑台に連れて行く時に猿轡をはめたりしないでくれ。そうしてくれれば私は話せるから」と叫んだ。

 バスティーユの壁は十分に厚かったが、囚人のため息がそうした恐るべき花崗岩の塊をすり抜けて人びとの同情を買うことがあった。ラリーに強いられた不名誉な扱いが人びとの間で広まって怒りを静めてしまった。憐れみが怒りに取って代わった。この模範的な老人の運命に強く心を動かされた者は、彼の欠点と彼によってもたらされた災厄を忘れてしまったかのようだった。ラリーの暴力的で激越な言葉によって人々が煽動されることを恐れて、処刑場まで猿轡をはめて連行する命令が下った。

 不幸なラリーの様子を見ると、ラリーは激しく抵抗したものの、いつもであれば処刑人が助手たちに罪人を縛るように命令することになっているが、その到着を待つことなく法廷の命令を急いで実行しようとする助手たちによって縛られ、唇を覆う鉄の猿轡をはめられた。

 2人のサンソンが罪人の独房に入った時、さらに暴力がふるわれたばかりであった。ジャン=バティストは激しく心動かされた。歩く父を支えていたシャルル=アンリは、父の腕が震えているのを感じた。

 ラリーの独房は激しい暴力の痕跡を残していた。テーブルはひっくり返され、書類が床に散らばっていて、椅子は壊され、ベッドはめちゃくちゃになっていた。ラリーはベッドの前に横たわっていた。服がずたずたになり、シャツが裂けていたので、生身が見えていた。鼻と口にできた二つのひどい裂傷から血が流れていた。猿轡をはめられているにもかかわらず、恐ろしい呻きが彼の喉から出ていた。そして彼は怒りに駆られながら、敵に躍りかかる前にたてがみを揺する獅子のように長い白髪を振り乱した。

 そこにいた誰もが起きたばかりのことに呆然としているようだった。震えている者がいるかと思えば、苛立っている者もいた。シャルル=アンリ・サンソンを見ると、ラリーに猿轡をはめるように命じた法官は向き直って大きく慌ただしい声で「さあ、貴君の仕事だ」と言った。

 罪人はそれを理解したようだった。なぜならしっかりとシャルル・アンリを見据えていたからだ。

 おそらく彼はダンフェル通りにあった家で過ごした夜を覚えていたのだろう。その若者を見た時に彼は、今、敷居を越えようとしている墓場に自分を案内しようとしている者はかつて踊り明かしたことがある祝宴にいた者なのではないかと明らかに考えているようだった[おそらくラリーはシャルル=アンリの姿を見て若い頃のジャン=バティストを思い出していたのだろう]。

 罪人の腕を取って連行するようにシャルル=アンリが助手たちに命令を与えようとした時、彼の父は自分がここにいる限り命令を下すのは他ならぬ私であると言ってそれを止めた。

 彼はラリーの前に跪くと、ラリーがあまりにも固く縛られているので縄が腕や足の肉に食い込んでいると看守たちと兵士たちに注意して、痛々しい縛めを外すように助手たちに命じた。

 口は塞がれていたものの、今にも雄弁に語りそうなラリーの目は年老いた処刑人に向けられた。ラリーはジャン=バティストのことがわかったようだった。なぜなら彼の身に微笑みがよぎって、涙が彼の目蓋を湿らせたからだ。

 この瞬間からラリーは戦場の兵士の落ち着きを取り戻した。

 通りを塞ぐおびただしい数の群衆の中を通り過ぎた後、死出の旅の一行はグレーヴ広場に到着した。罪人はしばらく立ち止まって斬首の宣告が読み上げられるのを再び聞かなければならなかった。王の利益を損なったがゆえにという言葉に書記が差し掛かった時、ラリーは激しく反駁してそれ以上何も聞こうとしなかった。あらゆる非難に対して沈黙を余儀なくされて抗議できなかったことでどれほど苦しかったかが彼の表情に表れていた。ジャン=バチスト・サンソンに支えられながら彼は処刑台の階段を確かな足取りで登った。処刑台に上がると、彼は群衆をゆっくりと静かに見回した。わが祖父によれば、そうした眼差しは口で語るよりもおそらく雄弁であっただろう。それから彼は年老いた条件に向き直ると「忘れないように」と言ったようだった。

 ジャン=バティスト・サンソンは、衰えた腕と皺が寄って震える手をラリーに見せた。そして、広刃の剣を罪人の目に触れさせないようにするために処刑台の端に立っている息子をラリーに指し示した。そして、ジャン=バティストは、我々のような年齢になれば死に方だけしか知らず、かつて交わした約束は自分の手よりも力強く確かな手によって守られるだろうと言った。

 ラリーは感謝を示して跪いた。

 シャルル=アンリ・サンソンがそばに寄って正義の剣を振り上げようとした時、老ジャン=バティストが割って入った。寄る年波と麻痺の名残りがありながらもまだしっかりとした手を使って伯爵からぼろを取り、恭しく帽子を脱ぐと「伯爵殿下、ここでは私が主人です。35年前[実際は28年前]の私の陋屋と同じく、今日、あなたは私の客です。なので私があなたに約束した最高のおもてなしを受けていただきます。あなたの口は塞がれません。きっと人びとはあなたの言うことを聞いてくれるでしょう。さあ、話してください」と低い声で言った。

 ラリーは「私は人間に対して多くを語りすぎた。だから私は神のみに話そうと思う」と答えた。それから彼はすぐに大きな声で祈りを唱え始めた。その正確な文言は次のとおりである。それはわが祖父が処刑から帰ってすぐに書きとめたものである。

「主よ、私は罪を犯したとして裁かれていますが無実であることをきっとご存知でしょう。自殺を試みたことで私は主に対する不満を表明しました。それで私が罰せられるのであれば公正です。主の深甚なお計らいによって私の行く道の前に置かれたこの男の手によって私は自ら欲した死を与えられます(老サンソンに目を向けながら)。私は主の公正さに感謝します。なぜならきっと私の汚名をすすいで真の裏切り者たちを罰してくださるからです」

 はっきりした声で祈りを唱え終わった後、ラリーはシャルル=アンリに近づくように合図して「若者よ、縛めを解いてくれないか」と言った。

「伯爵殿下、縄であなたを後ろ手に縛っておかなければなりません」

「私の首を斬るのに手を縛っておく必要があるのか。私はしばしば死を間近で見てきた。私が馬鹿げた抵抗のような無様な真似するとでも思っているのか」

「伯爵殿下、慣習なのです」

「ああ、そうなのか。もしそれが慣習であれば、この胴着を脱がせておまえの父に渡すがよい。昔、私がおまえの父に渡しそこねた結婚祝いだ」

 シャルル=アンリ・サンソンは伯爵の言葉に従って胴着を脱がせた。それはインドでしかその製法の秘密がわかっていないすばらしい金糸織りの胴着であった。一つ一つのボタンは最高の輝きを持つ大きなルビーでできていた。この宮廷の陰謀の犠牲者の形見としてそれはわが家で長く所蔵されていた。その物質的な価値よりもそれに付随する記憶のほうが価値があると思う。

 こうした厳粛な遺贈の後、伯爵は「さあ、斬れ」としっかりとしているが熱を帯びた声でわが祖父に言った。

 シャルル=アンリ・サンソンは剣を振り回して老人の首を一撃した。しかし、刈っておかなかった髪で刃が滑って外れて顎に食い込んだ。その一撃があまりにも強かったせいでラリーは前のめりに倒れた。しかし、すぐに彼は立ち上がると、怒りと非難を込めた燃えるような目で正面にいたジャン=バティスト・サンソンを見据えた。

 こうした局面において老人は息子に飛びかかると、突然、いつもは見られないような力を出して血塗れの武器を引ったくった。剣は宙で音を立てると、群衆から漏れる恐れと呪いの叫びが終わる前に、ラリーの頭は処刑台の上を転がった。

 最善を尽くして疲労困憊したジャン=バチスト・サンソンは息子の腕の中にぐったりと崩れ落ち、最後に使ったばかりの死をもたらす武器を手放した。武器にはラリーの歯によって消せない痕跡が残されていた。

 処刑台の上における老貴人の祈りは報いられた。神の裁きは時に緩慢であるが、決して間違うことはない。ラリー=トランダルの裁判は見直され、汚名は完全にすすがれた。

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第13章に続く

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