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第21章 新聞に対する訴訟

 同年(1789年)の末にかけて国民議会で刑法の改革が議題として取り上げられた。パリの第三身分の代表であるギヨタン医師は、身分に関係なく統一した方式で極刑を科す法を提案した。その新しい処罰の方式は斬首であり、最も無難で人道的だと考えられた。当初、こうした提案は棚上げされたが、ギヨタン博士によって再び提案され、12月1日に議論された。提案された方の最初の部分は熱狂的に採択された。しかし、斬首に関してはそううまくいかず、はっきりした承認が得られるまで2年もかかった。斬首を科すための最善の手段を検討する実験が必要だったからである。これから私はそうした試行錯誤について言及して、どのようにして現在も使われている処刑具が選ばれることに至ったのかについて述べることになるだろう。

 国民議会は、開始した大掛かりな作業を人権宣言の公布によってようやく完了させた。これはわが祖父にとって意見を表明するまたとない機会になった。それについて私は触れずにいることはできない。読者は、旅籠で食事した後のX侯爵夫人のよる異常な告発に対してシャルル=アンリ・サンソンが自ら弁明したことをきっと覚えているだろう。そうした弁明は、わが祖父が習慣と家庭内の教育でのみ説明がつくような職務に関する正しい理解を持っていたことを示した。最終的に過酷な試練がそうした考え方を変えることになる。しかし、シャルル=アンリ・サンソンが自らの職務の正当性を確信していただけではなく、そうした職務を不審の目で見る者の偏見が不公正なものであると確信していたことも付け加えなければならない。したがって彼は、自分の名誉を回復するものであれば何でもその気骨のたくましさと粘り強さで追求していた。

 多くの不公正を払拭した1789年の激動は、彼にとって自分の権利を擁護するための幸先が良い機会のように思われた。国民議会が政治的権利を享受できる市民権を規定した時、サンソンは1776年に侯爵夫人によって告発された機会を利用して王権の第一の執行者として世襲による貴族の特権の主張を主張したように、自分自身と仲間たちのために市民権を時を置かずに求めた。

 1789年12月24日に開会中であった国民議会は、市民の法的資格に関して主に宗教問題を対象にした法令を可決した。それは特に非カトリックにとって有利な規定であり、選挙権だけではなく文官と軍人への任用についても定めていた。最後の条項だけでも広範なものであった。法令の条文で禁止の理由が言及されていない限り、いかなる市民に対しても被選挙権の享受を妨げてはならないと定められていた。それは、わが祖父から市民権を奪う法令の条文がないということで事実上、わが祖父の[市民権を求める]主張を認めるものでしかなかった。わが祖父がそれに満足せず、よりはっきりと主張を認めるように要望することについては別の章で述べることになる。

 ところで国民議会が開会した数日後に起きた奇妙な出来事について述べたいと思う。わが祖父は地所の一部を賃貸していた。借地人の1人にロゼという名前の印刷工がいた。ロゼは時事問題に関するさまざまな文書を刊行していた。民衆の興奮が極度に高まった。ロゼは、立憲君主制より先に進まず、漸進的な改革と進歩的な運動を暴力をともなわずに展開する穏健派に属していた。それだけで彼が煽動家たちによる攻撃の的になるのに十分であった。とても辛辣なロゼはそうした攻撃に答えた。その後に続いた議論は反発的な印刷光に対して民衆の関心を引き寄せた。新聞で彼に対する多くの怒りが掻き立てられた。しかし非常に奇妙なことに、新聞はロゼについてはほとんど言及せずに、わが祖父が印刷工場の元締めであるかのように言及した。明らかに新聞は不公平な中傷によって、彼が直前に国民議会で推進しようとしていた要求を貶めようとしていた。その当時の新聞からいくつか引用すれば、陰謀について何よりもうまく説明できるだろう。

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