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『ロラン夫人回顧録』第一部⑤

 それ以来、父は私に手を上げることは決してなかった。私を叱責することさえなかった。父は私のご機嫌を取ろうと、絵の描き方を教えたり散歩に連れて行ったりして、私の目から立派に写るように、そして私が完全に従順になるように優しく扱った。7才の誕生日は、理性を持った年齢に達したものとして祝われるものだ。それくらいの年齢になれば私がすべてにおいて理性に従うはずだと誰もが思って当然である。然るべき敬意を私に払うようにして虚栄心をくすぐることなく意欲を維持させるのはとてもうまいやり方だった。家庭内の平和と精神活動に関して私の人生はうまくいっていた。母はいつも家にいて、ごくわずかな人びとだけ迎えていた。私たちは週に2回出かけることにしていた。そのうち1回は父方の親戚[CP注:すなわち、1696年生まれで1784年3月10日に亡くなったフィリポンの母のマリー=ジュヌヴィエーヴ・ロティセと後に取り上げるが、その姉妹のルイーズ=アンジェリク・ロティセ、そしてベスナール一家である]を訪問するためであり、もう1回は日曜日に母方の祖母[CP注:ペルトリ通りの小間物商のジャック・ビモンと1722年に結婚したマリー=マルグリット・トリュド(1704~1764)]に会ったり聖務日課に出席したり、散歩に行ったりするためであった。祖母のビモンの家を訪れるのはいつも暗くなってからであった。祖母は背が高く美しい女性だったが、若くして癲癇に襲われたせいで思考に影響が及んでいた。祖母は徐々に子供に戻ってしまって、季節によって窓の近くや暖炉のそばに置かれた安楽椅子で日々を過ごしていた。一家に40年以上も仕えている年老いた侍女が疾患を持つ祖母の世話をしていた。

 私が家に着くと、マリーはちょっとした食べ物を私に与えた。それはとてもおいしかったが、その後すぐに私は退屈してしまった。私は本を探した。詩篇しかなくほかにはましなものがなかった。私は何度も詩篇を読んで20回は歌った。私が元気にしていると、祖母は嘆いた。私がどこかをぶつけたり転んだりすると祖母は大笑いした。私はそれに困惑した。何度もそれが病気によるものだと言われても私はそれを不快だと思わざるを得なかった。祖母が私を嘲笑っていたと私はいまだに思っているが、いかなる時も苦痛と痴愚から免れ得ない涙は私を意気消沈させるだけではなく恐怖で満たした。老マリーは思うままに母と話すことで満足した。母は2時間にわたって祖母の前にいるという神聖な義務を果たし、マリーの話をおとなしく聞いていた。これは私にとって忍耐の教練であり、本当に苦痛に満ちたことだった。しかし、なんとか辛抱しなければならなかった。ある日、あまりに退屈だったために私は泣き叫んでもうここから出たいと言うと、母は一晩中ずっと留まることにしたからだ。母は、厳しく愛情に溢れた義務をたゆまず果たしていることを私に示す適切な機会を無駄にしなかった。名誉なことに私はそうした義務に参加されたというわけだ。私は母がどのようにして気持ちを整理していたかわからないが、そうした教義が憐れみの情とともに私の心に刻まれた。ビモン神父が祖母の家に来ていた時、私はそれがとても嬉しかった。この愛すべき小さな叔父のおかげで私ははしゃいだり飛び跳ねたり歌ったりした。ただ叔父の訪問はめったになかった。その頃、叔父は聖歌隊の子供たちを監督していたので家にずっといなければならなかった。私は叔父の生徒の1人を覚えている。その生徒はとても魅力的な少年だった。その少年はほとんど手がかからなかったので叔父はよく褒めていた。少年は優れた資質を持っていたので、どこの大学かはわからないが数年後に奨学金を獲得してノエル神父になった。数冊のちょっとした著作で知られるようになったノエル神秘はル・ブラン大臣[ピエール=アンリ=エレーヌ・ルブラン=トンデュ、フランス革命期に活躍した政治家]によって外交を任され、去年、ロンドンに行き、今はイタリアにいる[CP注:フランソワ=ジョゼフ・ノエル(1756~1841)は最初、コレージュ・ルイ=ル=グランの6年生の教師を務め、1789年に文筆家、外務省の第一書記官、1792年に外交官になって、霧月18日以降は護民院議員、県知事、そして視学総監になって嘆かわしい編纂物を氾濫させた。ル・ブラン大臣がノエルにイギリスに赴く任務を与えたのは1792年8月28日のことであり、ノエルが駐ベネチア共和国大使に任命されたのは1793年6月15日のことである]。

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