第50章 ルーヴェル
第一歩がすべてだということは間違いだが、第一歩が最も大変であることは確かなことである。私は自分の職務に関する嫌悪感を払拭することができなかった。しかし、そうした感情は最初の死刑執行の後、あまり強いものではなくなった。最初の処刑執行以来、私は定期的に父の代役を務めたり、処刑台に赴く父に同行したりした。同年(1819年)、我々はボーヴェ[フランス北部、パリの北方にある町]に二度行った。一度目はモロイという父親殺しを処刑するために、二度目はリーブと呼ばれる殺人犯を処刑するためだった。
翌年5月13日、主人のシオン大尉を殺害したシャルル=ノルマンという22歳の若い男を処刑するためにグレーヴ広場にギロチンが建てられた。
処刑の執行日にグレーヴ広場に見物しに来る者はほとんどいなかった。パリだけではなくフランス全土がそのほかの出来事に心を奪われていた。その結末がグレーヴ広場にも影響を及ぼしていた。3ヶ月、ブルボン家の古い家系の相続人であるベリー公爵が殺害された。暗殺者はすぐに逮捕された。暗殺者はピエール・ルーヴェルと名乗った。ルーヴェルは馬具製造を生業としていた。ルーヴェルは、名家の最後の末裔を殺害した目的は政治的なものであると告白した。ブルボン家の者を断絶させたかったと彼は言った。運命は彼の思いどおりにはならなかった。6ヶ月後、ベリー公爵夫人は子供を出産した。その子供は後にシャンボール伯爵になった。
ルーヴェルは熱狂的な共和主義者であった。生活は素朴であったが、彼は狂信的であった。数年間、彼は犯行計画を温め続けた。共犯者はいないことがすぐにわかった。ルーヴェルの裁判が進められた。ルーヴェルは弁護士のアルシャンボール氏とボネ氏からひどい扱いを受けた。そこで彼は、自分が先に言ったことと矛盾しないようにするためにもう何も言わないでほしいと求めた。彼は自分で自分の犯罪を弁護した。彼が言うには、愛国心のゆえに犯行を企てたという。彼は何の後悔も感じていなかった。もし逃げおおせていれば王家のほかの者たちも殺すつもりだったと彼はほのめかした。さらに彼は「王[ルイ18世のこと]の命だけは助けるつもりだった。なぜなら王はフランスに対して戦いを挑まなかった唯一の王家の一員だからだ」と付け加えた。
審理は貴族院において6月5日に始まった。審理はたった2日で終わった。ディシズ氏、ラリー=トランダル氏、そしてモンモランシー氏などの数人の貴族院議員がルーヴェルを尋問したが、すでにルーヴェルが供述したこと以上の事実を引き出せなかった。審理の結果は疑いの余地がないものであった。判決が下される前にルーヴェルは立ち上がると、以下のような声明を読み上げた。
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