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第29章 シャルロット・コルデー

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7月13日、レオナール・ブルドンの誇張[1]による9人の犠牲者の遺体がマドレーヌ墓地[2]に運ばれていたまさにその時、もう1人の人民の代表が刺殺された。

その代表はマラーであった。そして、殺害者はシャルロット・コルデーであった[3]。

カーン[4]に1人の若い娘がいた。その娘の剛健な魂と熱狂的な精神は、古代の偉大な歴史家の作品を丹念に読むことで毎日、英雄主義に親しんでいた。彼女はマリー-アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモンと呼ばれていた。彼女はアルジャンタン[5]近辺にあるレ・リニュリ[6]という村で生まれた。彼女の家系は高貴な家系であり、その先祖の中には大きな国家的栄誉を得た者もいる。彼女の父親のジャック-フランソワ・ド・コルデー・ダルモンは、『ル・シッド』の作者[7]の娘であるマリー・コルネイユの三代目の子孫である。コルデー氏は貧しかった。その収入は1,500リーヴルを超えることはなかった。コルデー夫人はシャルロットがまだ幼い頃に亡くなった。この幼少期の悲痛とそれに続く孤独は、彼女に独立の精神と黙想を早くから学ばせることになった。彼女は、父親によって14才の時にダム修道院[8]に入れられ、孤独な瞑想の生活を送った。聖なることも俗なることも、至高のものを探究する彼女の精神にほとんど影響を与えなかった。プルタルコス[9]の『英雄伝』が彼女の唯一の友人だった。勇猛な者たちの精華で育まれた彼女は、心の中にある高潔な憧憬を強めない読み物を軽蔑するようになった。

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革命の原理を熱狂的に信奉していた彼女は、革命の夜明けを狂喜をもって歓迎した。彼女は激越な信念をもって革命の大義を吸収した。常に冷静かつ慎重であったが、彼女は心の中に魂から溢れ出る感情を溜め込んでいた。コルネイユのローマ人のような先駆者たち[10]と同じような崇高な熱情を抱いて彼女は祖国と自由を愛した。この愛すべき共和国を危険にさらす敵だと彼女が見なす者たちが勝利を収めたことによる革命の行き過ぎは彼女を当惑させた。しかし、堅忍不抜な心の中において落胆はすぐに決意に変わった。彼女は自分の周りを見回して、自分が支持している党派がばらばらになって息絶えようとしているのを見た[11]。もし神がしばらくの間、正義、公正、そして美徳の敗北を認めたのであれば、それは祖国を救うという栄誉を1人の女のために取っておくためであると彼女は結論づけた。そこで彼女は討つべき相手を求めた。

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私がすでに説明したように、ダントンとロベスピエールの革命の威光は、マラーの陰険な性格によって地方において貶められていた。マラーの名前はあらゆる虐殺や略奪に関連づけられていた。若い愛国者の怒りがあまりにも激しかったので、問題の解決を今後の政治的解決に委ねることはできなかった。マラーは共和国の喉首を締めつけているだけではなく、その名誉を汚していた。天が彼女の短剣に指し示したのはマラーであった。

人民の友[12]の死は、冷静沈着なストア主義によって決定された。その崇高さは、歴史上、いかなる専制君主の暗殺者にも見られないものであった。彼女は、ジロンド派の友人に会って栄光ある計画を賞賛してもらいたいという誘惑に抗った。彼女はこの計画を自分の胸に抱いて墓場まで持って行くつもりだった。彼女は父親の祝福を求めてカーンを出発した[13]。そして、自分に関わりがあるこの世のすべてのものに別れを告げると、7月9日、アルジャンタンからパリへ行く馬車に乗り込んだ。

パリに着いたのは11日木曜日の正午頃であった。彼女は、グロリエなる人物が経営するヴュー-オーギュスタン通り17番地[14]にあるオテル・ド・ラ・プロヴィダンスに行った。48時間の旅のせいで彼女は疲れていたので部屋から出ずに5時にベッドに入って就寝した。そして翌朝の8時まで起きなかった。

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バルバルー[15]は仲間のデュペレ[16]宛ての紹介状を彼女に渡していた。彼女はその紹介状をデュペレの家に持って行った。デュペレは国民公会に出席中であった。彼女は宿に戻ってプルタルコスを読んで日中を過ごし、夕方になってまたデュペレの家を訪問した。デュペレは妻と娘とともにテーブルを囲んでいた。彼はバルバルーの被後見人を迎え入れると、翌日に内務省へ連れて行くと約束した。友人のフォルバン嬢のためにそこに行くことになっていた[17]。

土曜日、デュペレの家に行く約束の時間になる前に彼女はマラーに面会を求める手紙を書いて送った。それからデュペレとともに彼女は内務省へ行った。しかし、あまりよろしくない連中と付き合っているという悪い噂[18]のせいでデュペレは面会の許可を得られなかった。彼はシャルロット・コルデーを連れてパレ-ロワイヤルの庭園に向かった。彼はそこでコルデーと別れた。彼女は刃物店に行って象牙の柄の長く鋭いナイフを1本購入した。それから彼女はマラーの返事が届いているのではないかと期待して宿に戻った。

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マラーは病気であった。高熱が続いたせいで彼の血はまるでひどく腐敗しているかのようだった。いかなる治療術も無力であった。数日にわたって彼は国民公会に出席できないでいた。シャルロット・コルデーはかねてより計画していたようにもはや山の頂上[19]で彼を襲うことができなくなった。彼女は彼の寝床に行くことにした。13日土曜日の8時頃、彼女は初めてマラーの家に行ったが受け入れられなかった。そこで彼女は宿に戻って、再び面会を断られた場合に備えて2通目の手紙を書いた[20]。

パリ、7月13日、共和暦2年。市民マラーへ。マラーさん、今朝、私はあなたにお手紙を書きました。私のお手紙を受け取られましたか。そうとは思えません。なぜなら私はあなたの家の扉で受け入れられなかったからです。少しでよろしいので面会のお時間をください。繰り返して言いますが、私はカーンから到着したばかりです。共和国を救済するために非常に重要なことをあなたに伝えたいのです。私は自由の大義のために迫害されていて不幸です。私が迫害されているということだけであなたの庇護を得る資格が十分にあるのではないでしょうか。シャルロット・コルデー

彼女はこのように書いた手紙をポケットに入れると、購入したナイフを胸元にしのばせて馬車に乗ってマラーの家の扉の前まで行った。マラーの家はコルドリエ通り20番地[21]にあった。彼女は斑入りのボンバジーン[22]の白い部屋着を着ていた。頭には、三重の組紐と黒い花形記章で飾られた高い帽子をかぶっていた。

マラーには護衛以上の存在がいた。女である。カトリーヌ・エヴラールとその姉妹のシモーヌが愛情と狂信という二重の熱意を抱いて彼を見守っていた[23]。カトリーヌは長々と口論してノルマンディーの若い娘の入室を固く拒んだ。瑞々しい女の声を聞いたマラーは、その声の主が朝に手紙を送ってきた女だと思って、カトリーヌ・エヴラールに案内するように命じた。

マラーは浴槽に入っていた。彼の頭は布で包まれていた。汚いシーツが浴槽を覆っていた。彼の前には板が置かれていた。その板を机代わりにして彼は書き物をしていた。

彼はカーンで何が起きているか知りたがって、その町に避難している[ジロンド派]議員たちの名前やカルヴァドス県[24]やウール県[25]の当局についてシャルロットに質問した。彼女が話すと、マラーはそれを書き取った。彼女が話し終わると、彼は「数日もすれば奴らはギロチン行きだ」と叫んだ。

シャルロット・コルデーは、そうした脅しの言葉のおかげで、憐憫の情と人を殺すことに対する恐怖のせいで忘れかけていた自分の任務を思い出した。彼女は浴槽に近づいてナイフを取り出すとそれをマラーの胸に突き立てた。

しっかりと固く握られた手によって一撃が加えられたために、その武器は柄まで没入して頸動脈の幹まで突き通った。

叫びを聞いて、隣の部屋で新聞を広げていた警官のローラン・バースとカトリーヌ・エヴラールとその姉妹が部屋に殺到した。シャルロット・コルデーは窓の前にじっと立っているだけで逃げようとしなかった。警官は彼女に向かって椅子を投げて打ち倒した。彼女は起き上がった。バースは取っ組み合いを演じて彼女を地面に叩き落として押さえつけた。その間にエヴラール姉妹と近隣の者たちは、クレール・ミション・ド・ラ・フォンディという名前の借地人の外科医の助けを得て、マラーをベッドまで運んだ。

騒音や女たちの悲鳴を聞きつけてさらに近隣の者たちが駆け込んできた。そして、国民衛兵がテアトル-フランセ[26]の屯所からすぐにやって来てシャルロット・コルデーを逮捕した。

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マラーが死んだという噂はすぐに大勢の群衆を家に引きつけた。群衆は殺人者の首を求めて叫んだ。シャルロット・コルデーを屯所に連行しようとすればばらばらにされてしまうと国民衛兵は恐れた。そこで彼らは彼女をマラーの住居に連れ戻した。ゲラール・デュ・メニル警視は警察当局のルーヴェとマリノ、モール、シャボ、ルジャンドル、そしてドルーといった人民の代表たちの前で彼女を尋問した。彼女はすべての質問に落ち着いて堂々と答えた。死の瞬間まで彼女は一瞬たりとも自分の言葉を違えなかった。彼女は、マラーが運び込まれた部屋から彼女がいる部屋まで聞こえてくるうめき声を気にしている様子だった。ストア主義の魂にもキリスト教徒の慈悲は残っていた。彼女は孤独な肉食獣を討ったと思っていたが、虎が愛されていることを知ると心動かされ驚いたようだった。

少し夜が更けると、シャボとドルーは彼女を馬車に乗せてアベイ監獄[27]に連行した。そこで公安委員会による尋問が何度かおこなわれた。彼女はその固い意志を崩さなかった。

14日、国民公会は法令によって、マラーの殺害者とその共犯者について調査を実施するように革命裁判所に命じた。

16日朝にコンシェルジュリに移送されたコルデーはアベイ監獄で夜に書き始めたバルバルー宛ての手紙を書き終えていた[28]。

国民公会代表の市民バルバルーへ、避難先のカーンのカルム通りのオテル・ド・ランタンダンスに。アベイ監獄のブリソ[29]が前にいた部屋より、平和への準備の2日目に。あなたの望みどおり、私は旅の詳細をあなたに伝えたいと思います。ちょっとした逸話も余さず話します。私は善良な旅人たちと一緒に旅をしていました。私は彼らが強固な山岳派であることにすぐに気づきました。彼らの言葉はその党派の人びとと同じく馬鹿げたものであり、不愉快なものだったので私はことごとく嫌気が差してしまいました。私は彼らに機嫌良く勝手に話をさせておいて眠りに落ちました。紳士たちの1人は眠っている女のほうがお好みだったでしょうが、私が起きると、私が一度も見たことがない男の恋人であること、そして一度も聞いたことがない名前であることを私に納得させようとしました。さらに彼は私に向かって手を広げると、すぐに父親を探しに行こうと言いました[30]。紳士たちは、私の名前とパリでの滞在先をなんとか探り出そうとしました。しかし、私は教えるのを拒みました。私は親愛なる徳高きレイナール[31]の格言を忠実に守りました。すなわち、横暴な者たちに真実を告げる必要はない[32]。パリに着くと私はヴュー-オーギュスタン通りのオテル・ド・ラ・プロヴィダンスに滞在しました。それから私はあなたの友人のデュペレを見つけました。公安委員会が私と彼が会ったことをどのように知ったのかわかりません。デュペレにとってまずいことは何もありませんでしたが、彼の決意が犯罪なのです。私はあなたを探しに行くように彼に言いましたが、彼はあまりにも頑固でした[33]。フォーシェ[34]が私の共犯者として収監されているのを信じられるでしょうか。彼は私が[パリに]いたことすら知らなかったのに。でも人びとは、取るに足らない女だけが偉大な人間[35]のために心身ともに投げ出したことが信じられないのです。赦してください。偉大な人間といった言葉で人類を貶めたことを。その者は内戦の炎でフランスを呑み込もうとしている残虐な獣でした。平和よ、万歳。その者がフランス人として生まれなかったこと[36]を天に感謝しましょう。私はシャボとルジャンドルによる尋問を受けています。シャボはまるで狂人です。ルジャンドルは、その日の朝、自分の家で私と会ったと言い張ろうとしていますが、私はそのような人のことを思ったことさえありません。私は彼が祖国の暴君になれるほどの者なのかどうか見きわめる能力を持ちませんし、誰でも罰したいわけではありません[37]。マラーの最期の言葉が印刷されると私は信じています。ただ私は彼が何を言ったのか確信を持てません。しかし、あなた方の名前とエヴルー[38]にいるカルヴァドス県の官吏たちの名前を聞いた後に彼が私に言った最期の言葉があります。私にとって慰めとなることですが、『数日もすれば奴らはギロチン行きだ』と彼は私に言いました。このような最期の言葉が彼の運命を決定したのです。[司法]省がサン-ファルゴー[39]のことをまともに扱うなら、金文字でその言葉を刻ませることもできるはずです。この大事件について私は詳細を何も伝えられません。新聞があなたにそれについて伝えてくれるでしょう。私の決意を本当に促したのは、7月7日日曜日に集められた我々の義勇兵が示したような勇気だと認めなければなりません。それに私がどれほど魅了されたのかあなたはきっと覚えているでしょう[40]。私の意見に対して示した疑念をペティオン[41]に撤回させることを私は誓いました。彼は『もし彼らが決起しなければ、あなたはきっと残念に思うだろう』と私に言いました。いずれにせよ私は、多くの勇敢な男たちが自分たちを滅ぼしかねない1人の人間の首を求めてパリに来ていたと思っていましたし、きっとその人間が多くの善良な市民を破滅させていたはずだと思っています。その人間は[男の手にかかるような]栄誉にふさわしくありません。女の手で十分でした。彼が私を迎え入れてくれるように不誠実な策略を使ったことを私は告白します。カーンを去った時から私は、国民公会の山の頂上で彼を生贄に捧げるつもりでした。しかし、彼は国民公会に出席していませんでした。たとえ長生きしても何の役にも立たない無用な女が祖国を救うためにどうして冷徹に身を捧げることができたのかは、パリの善良な共和主義の人びと[42]にとって理解しがたいことのようです。私はその場ですぐに死ぬことを予期していました。賞賛するべき勇敢な者たち[43]が、私自身の生み出した不幸に対する無理もない強い怒りから私を守ってくれました。冷徹であろうとしましたが、私は数人の女たちの嘆きに苦しみました。しかし、祖国を救おうとする者はその代償など気にしないのです。願えばすぐに平和がもたらされますように。しっかりとした道筋ができました。さもなければ我々は何も始められないでしょう[44]。私は2日にわたって平和を享受しています。祖国の幸福が私自身の幸福なのです。父は私がいなくなったことですでに十分に悲しみを味わっていたと思いますが、さらに悲嘆に暮れているでしょう。内戦の炎が恐ろしいので私はイギリスへ逃げるつもりだと父に手紙で伝えていました[45]。そうすることでマラーの殺害計画を隠しておくことができました。なぜなら私はパリの人びとに私の名前を探って無駄骨を折らせたかったからです。あなたと同志にお願いしたいのですが、もし私の親類や友人[46]に追及の手が伸びたら守ってあげてください。私はたった1人の人間しか憎んだことがありません。そしてそれがどのような性質のものか示しました[47]。私のことを惜しんでくれる方は、私がブルータスとほかの古代の者たちとともに天上の園にいるのを見て喜んでくれるでしょう。近代の者たちは堕落しているので私にとって魅力的ではありません。祖国のために死ぬことを知っている真の愛国者はほとんどいません。近代の者たちはほぼすべて自己中心的です。面倒なことが起きないようにするために2人の憲兵が配置されています。日中は別にかまわないのですが、夜はそうではありません。私はこうした不都合について苦情を申し立てました。公安委員会は注意を払う必要がないと考えたようでした。きっとそれはシャボの差し金だと思います。そのようなことを思いつくのはカプチン会[48]修道士くらいなものです。私はコンシェルジュリに移送されることになり、大審院の者たちは私の手紙をあなたに送ることを約束しました。だから私は続けることにします。私は長い尋問を受けました。お願いですから、もし公表できるならそれを入手してください。私は逮捕された時に平和を愛する人びとに向けた宣言書[49]を持っていました。私はそれをあなたに送ることはできません。たとえ私がそれを公表するように求めても無駄でしょう。カルヴァドス県での私に対する評価に感謝の意を示したいと思って公安委員会に要望しましたが、回答はありませんでした。今となっては遅すぎます。県の検事総長であり参事であるブゴン氏と私の手紙を共有してください。いくつかの理由から私は彼の名前を手紙の宛名に含めません。まず今、彼がエヴルーにいるかわかりません。さらに当然のことながら彼が私の死に心を痛めて動揺することを私は恐れています。しかしながら私は、彼が優れた市民であり、平和の希望でもって慰めとすることができると信じています。彼がどれほど平和を望んでいるのか私は知っています。平和を促進することによって彼の希望を実現できたのではないかと私は思っています。もし友人がこの手紙を求めたら、誰も拒まないでください。私にも弁護人が必要です。それが規則です。私は山岳派の中から弁護士を選びました。それはギュスターヴ・ドゥルセ-ポンテクランです。きっと彼はこの栄誉を断ると思いますが、彼にとってそれほど大変な仕事ではないはずです。いっそロベスピエールやシャボに依頼しようとさえ思えます。私がアベイ監獄からコンシェルジュリに移送された時に群衆が何もしなかったことは本当に驚くべきことです。それは穏健な姿勢を裏付けるものかもしれません。カーンの善良な住民たちに呼びかけてください。彼らはちょっとした反抗に手を染めていて、簡単にそれを控えられないようなので。明日8時、私は審判にかけられます。ローマ人の言葉で語れば、正午頃におそらく生き終わります。カルヴァドス県の人びとの資質がきっと見直されるでしょう。なぜならカルヴァドス県では女でさえ固い決意を持っていることが示されたからです。私は自分の人生がどのような最期を迎えるのかわかりません。ただ私の業績に栄誉を加える最期になるでしょう。私は自分の運命について無感覚でいようと装う必要はありません。なぜなら私は死をまったく恐れていないからです。何か意義がある人生を除いていかなる人生も私にとって価値がないものです。明日にもデュペレとフォーシェが解放されることを望んでいます。フォーシェが私を国民公会の傍聴席へ連れて行こうとしていたと言われています。彼がわざわざ女を傍聴席に連れて行こうとするでしょうか。国民公会の一員として彼は傍聴席に行く必要がありませんし、聖職者として女と一緒にいようとは思わないでしょう。それが正しいことです。デュペレにも非難すべき点はないでしょう。マラーがパンテオン[50]に祀られることは決してあってはならないことです。ただマラーにはそれにふさわしい価値があります。彼に捧げる追悼演説をするためにいろいろ資料を集めてください。フォルバン夫人の窮状について忘れないでください。彼女に手紙を書く必要があるかもしれないので、ここに彼女の住所を書いておきます。「アレクサンドリーヌ・フォルバン、スイス、チューリヒ、マンドラン方」。私が心から愛していると彼女に伝えてください。私は父に短い手紙[51]を書くつもりです。ほかの友人には特に言うことはありません。すべての友人にすぐに忘れてくれるように求めます。友人たちが苦しめば、私の思い出を汚すことになります。私が平和を促進することで一つの戦いで勝利を収める以上の手助けをしたとヴァンプファン将軍に伝えてください。さようなら。平和を愛する人びとによろしく伝えてください。コンシェルジュリの囚人たちは、通りにいた群衆とは違って私を侮辱することはありませんし、同情を寄せてくれているようです。不幸は常に同情を抱かせるようです。これが私の最後の省察です。コルデー

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私はこの手紙から一つの段落も省略したくなかった。明らかにこの手紙は友人から友人への親密な手紙ではなく、鼓動を止めようとしている心臓から絞り出された至高の言葉であり、シャルロット・コルデーの遺書であった。彼女はバルバルーに宛てて手紙を書いたが、明らかに彼女が彼女自身について後世の人びとに説明するためのものであった。いかなる論考よりも数枚の手紙のほうが、彼女の本当の意識、すなわち素朴さと高貴さ、優しさとすべての行動を特徴づける不撓不屈の決意が混じり合った意識をうまく伝えている。彼女について傑作となるような描写を残した優れた歴史家は、彼女の死に対する楽観的な姿勢を見て悲しく思ったかもしれない。ただそうした楽観的な姿勢は、シャルロット・コルデーが古代の人びとを信じていたことで生じた崇高な結果だったと私には思える。ローマ帝国から追放された者たちのように、末期の痙攣に襲われようともトーガを優雅に着たままでいたいと彼女は思っていた。彼女は微笑みを浮かべた唇の間から最期の息を漏らしたいと望んでいた。

彼女は17日に革命裁判所の前に引き出された。ドゥルセ・ド・ポンテクランは弁護を依頼するシャルロット・コルデーの手紙を受け取れなかった。審議の冒頭で彼が法廷に姿を現さなかったので、裁判長はショヴォ-ラガルドを被告人の弁護士に任命した。

山岳派の新聞はその呪いの言葉の中で、シャルロット・コルデーが判事たちと傍聴人たちに対してその気高い意志の固さを示したという感銘を与えた。

傍聴人たちは判事ではなく彼女からその至高の法廷に呼ばれたかのように思っているようだったとショヴォ-ラガルドは言った。


ショヴォ-ラガルドの話に基づいて、ここでモンタネ裁判長に対する彼女の回答を示そう。きっと大コルネイユがその末裔の口を借りて語りだしたと思えるだろう[52]。

裁判長:「いったいあなたは誰のせいでそのようにマラーを強く憎むようになったのですか」

被告人:「私は他人のせいで憎むようになったわけではありません。私自身によるものです」

裁判長:「彼を暗殺するという考えを誰かがあなたに吹き込んだのではないですか」

被告人:「自分で計画して実行しなければうまくいかないでしょう」

裁判長:「何がきっかけであなたは彼を憎んだのですか」

被告人:「彼の罪です」

裁判長:「彼の罪とはどういう意味ですか」

被告人:「フランスの荒廃は彼のせいだと私は思っています」

裁判長:「どうしてあなたはフランスの荒廃が彼のせいだと言えるのですか」

被告人:「確かにそうかもしれませんが、彼は完全なる破壊を実行するためにあらゆる手段を使おうとしました」

裁判長:「あなたは何のために彼を殺害したのですか」

被告人:「祖国に平和をもたらすために」

裁判長:「あなたはマラーの支持者をすべて殺害できると思っているのですか」

被告人:「1人の死によって、ほかの者たちに恐怖を抱かせることができるかもしれません」

廷吏が被告人のもとに行って、犯行に使用されたナイフを差し出すと、それを知っているかどうか尋ねた。その瞬間、彼女はさっと顔色を変えると、目をそらして手でナイフを押し返した。そして途切れ途切れの声で言った。「はい、私はそれを認めます」

彼女は浴槽に浸かっているマラーを見つけて、ナイフを喉元に真っ直ぐに突き立てた。

フーキエ-タンヴィルは、水平に刺そうとすれば肋骨に当たる恐れがあったので仕留め損なわずにすむようにコルデーがそのような方法でマラーを刺したと指摘した。さらに彼は付け加えた。

「あなたはこの犯罪をうまく実行できるように練習していたのでしょう」

被告人:「何とひどい人なのかしら。私を単なる殺人者と思っているなんて」

ショヴォ-ラガルドは「この答えはまるで雷鳴のようであり、審問を終わらせた」と述べている。

審問が開始された時から彼女は、1人の若い男が自分の顔を観察して絵を描いていることに気づいていた。そこで彼女はうまく絵が描けるように若い男に向き直った。この若い男はハウアーという名前の画家であり、当時はコルドリエ隊[53]の副指揮官であった。

ショヴォ-ラガルドはまるで依頼人のコルネイユの簡潔さに影響されたかのような機転を利かせた。彼は彼女が望むようにわずかな言葉で弁護して、情状酌量の余地を求めず故意であることを主張した。シャルロット・コルデーは名誉を汚されることを最も恐れていたのでそうした主張をありがたく思った。陪審員が死刑の評決を下した時、刑罰の適用にあたって何か言うことはあるかと裁判長が聞くと、彼女は弁護士のもとへ自分を連れて行ってくれるように憲兵に求めた。

彼女は「あなたが私のために弁護してくれた勇気に心から感謝します。それはあなたと私にとって満足すべきやり方でした。私はあなたに感謝の証を与えたいと思っていますが、この方々(彼女は判事たちのほうに顔を向けた)に財産を没収されてしまいました。そこで牢獄に支払わなければならないお金を私の代わりに支払っていただくようにお願いしなければなりません。私はあなたの温情にすがるしかないのです」と言った。

債務の合計は36リーヴルであった。その大部分は判事たちの前で堂々とした姿を見せられるように帽子を購入するために使われた。

午後2時であった。

彼女は牢獄に連れ戻された。彼女がそこを去る時はもはや処刑場に向かう時だけである。牢番のリシャールとその妻は螺旋階段の下で彼女を待っていた。彼女は牢番の妻と一緒に昼食を摂る約束をしていた。彼女は、もうすぐ死ぬことになっていると言って牢番の妻に謝罪した。その時、聖職者が彼女のもとにやって来て、信仰による救済の手助けをしようと申し出た。彼女はそれを丁重に断った。

彼女は「あなたを送ってくれた者たちに感謝します。私はお気遣いをありがたく思いますが、あなたのお導きは必要ありません」と言った。

彼女が牢獄に戻って10分もしないうちにリシャールがまた姿を現した。リシャールは、審問の間に絵を描いていた画家を連れて来た。画家は絵を完成させるために協力してほしいと言った。彼女は快諾した。ハウアーは作業に取り掛かった。1時間半にわたる作業の間、彼女は画家と話した。会話には軽薄なところはなかったが、穏やかで楽しげであった。彼女は、マラーの殺害に関する裁判について話したが、自身にもうすぐ訪れることになる運命についてまったく気にしていない様子であった。

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ハウアー氏が作業を終えると、彼女は親類のために写しを作ってほしいと依頼した。その時、何か忘れていたことを突然思い出したのか、彼女はペンを執ると手紙を書き始めた。

それはポンテクランに宛てた手紙であった。その手紙で彼女はポンテクランを卑怯であると非難した。というのも彼女は、彼が弁護の要請を受け取っていなかったことも検事からの通達が彼に届いていなかったことも知らなかったからである。

彼女が2行も書き終わらないうちに誰かが扉を叩いた。罪人を監視していた憲兵が扉を開けた。シャルロット・コルデーが振り返ると、3人の男が廊下にいるのが見えた。1人は書類の束を手に持っていた。もう1人は鋏と親殺しに着せる赤いシャツを持っていた。

彼らは廷吏たちと重罪判決執行人であった。

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私は、革命が危機を迎えた時期にシャルル-アンリ・サンソンが自分の手掛けた処刑だけではなく個人的な感想を日記に書き記していたと前巻で述べた[54]。その日記は1793年霜月[55]の終わり頃から定期的につけられるようになった。日記にはシャルロット・コルデーの死に関して、革命の初期段階の裁判における告発に関する説明よりも詳細かつ広範な記録が残されている。私はそうした記録を紹介しようと思う。私がこれから紹介する日記には一貫性を欠く部分もあるがまったく修正の手を加えていない。筆者が間違ったと考えられる点についてのみ注で指摘するだけにとどめたい。私はその簡素な文体を変更しないように配慮した。それはもし書き手のことを思えば、それなりに感情に訴える点があるからだ[56]。

一つにして不可分なる共和国の第1年7月17日水曜日、国民公会議員にして愛国者マラーに対する陰謀を企てて殺害したカーンの市民コルデーが処刑された。同17日水曜日の朝10時、私は市民フーキエの命令を受けに行った。出廷中だった市民フーキエは、立ち去らずに待機しているように私に命じた。私は階段を降りて市民フルニエの家に食事に行った。午後1時頃、1人の市民が裁判所からやって来て、あの娘に有罪判決が下ったと言った。階段を登って証人控室に行くと、市民フーキエが市民モンタネとともにそこを通りかかるのが見えた。彼は私に気づかなかった。というのも彼はモンタネと激しく議論をしていて、あまりにもモンタネが被告人に好意的であると非難していたからだ[57]。彼らは1時間以上も執務室に閉じこもった。部屋から出てきた時、市民フーキエは私を見るなり「君はまだこんなところにいたのか」と怒って言った。私は、まだ何も命令を受けていないと言った。市民ファブリシウスが署名入りの判決原本とその写しを持って入って来た。我々はコンシェルジュリに向かった。私は市民リシャールに話した。話している時に私は彼の妻を見たが、すっかり青ざめて震えているようだった。私は体調が悪いのかと彼女に尋ねた。彼女は「しばらくすればきっとあなたの心は私の心以上にくじけることになるでしょう」と私に言った。市民リシャールは我々を被告人の部屋に導いた。廷吏の市民ティラスとモネが最初に部屋に入って、私は扉のところで立っていた。被告人の部屋には2人の人物がすでにいた。1人は憲兵であり、もう1人は彼女の肖像画を描いている市民であった。彼女は椅子に座って本の上で書き物をしていた。彼女は廷吏たちのほうを見ず、私に向かって待ってほしいと身ぶりで示した。彼女が書き終わると、市民ティラスとモネは判決を読み上げ始めた。その間、市民コルデーは書き終えたばかりの手紙を折りたたんで市民モネに手渡し、市民ポンテクランに届けてほしいと依頼した。それから彼女は部屋の中央に椅子を移して腰を下ろすと、帽子を脱いで淡い褐色の髪を束ねた。髪はとても長く美しかった。そして彼女は髪を切るように身ぶりで私に示した。ラ・バール氏以降、私は死に臨んでそのような勇気を持つ人物をついぞ見かけなかった。我々6、7人の市民はその責務から心を動かすわけにはいかなかった。彼女は我々の誰よりも心を動かしていないように見えた。彼女は唇の色さえ失っていなかった。髪が切り落とされると、彼女はその一部を自分の姿を描いた画家に与え、市民リシャールにその伴侶のために残りを与えた。私は彼女に赤いシャツを渡した。彼女はそれを身につけると身支度を整えた。私が彼女を縛ろうとした時、彼女は手袋をつけたままでよいかと聞いた。なぜなら逮捕された時にきつく縛られたせいで手首に傷がまだ残っていたからである。好きなようにしてもよいが、苦痛を与えないように縛ることができるのでそのような心配は無用だと私は彼女に言った。彼女は「よく考えてみると、彼らはあまり手慣れていないようでした」と微笑みながら言うと、剥き出しの両手を私に差し出した。我々は馬車に乗った。馬車には二つの座席があった。私は彼女に座るように勧めた。彼女は断った。私は、それはそれでかまわないし、そのほうが揺れで疲れることもあまりないだろうと言った。彼女は再び微笑んだが私に答えることはなかった。彼女はずっと立ったまま荷台枠にもたれていた。馬車の後部に座っていたフェルマン[58]が足置きを取ろうとした。私は彼がそうできないようにして、足置きを彼女の前に置いた。そうすれば彼女が片膝をおけると思ったからだ。我々が川岸に到着した時、雨が降り、雷が鳴っていた。しかし、道中、群衆はすさまじい数になっていて、いつものように散らなかった。我々がラルカード[通り]から出た時、多くの叫び声が上がった。しかし、我々がさらに進むと、叫び声はまばらになった。我々の周りを歩いていた者たちを除けば、罪人の女を侮辱してマラーの死を責める者はほとんどいなかった。サン-トノレ通りの窓を見ると、市民ロベスピエール、カミーユ・デムーラン、そしてダントンといった国民公会議員たちの姿があった。市民ロベスピエールは非常に興奮した様子で同僚たちに盛んに話しかけていたが、彼ら、特に市民ダントンはロベスピエールの言うことをほとんど聞いていない様子でじっと罪人の女を見ていた。私自身も絶えず振り返って彼女を見ていた。彼女を見れば見るほど、私は彼女をさらに見たくなった。それは彼女が美しいからではなく、彼女が偉大だからであった。しかし、彼女がこれまでと同じく最期まで静穏で毅然としていられるとは私には思えなかった。彼女がほかの者たちと同じく弱さを持っているか私は確かめたくなった。ただ理由はよくわからないが、彼女に目を向けるたびに私は彼女が失神してしまうのではないかと心配になった。しかし、私が思いも寄らないことが起きた。2時間にわたって彼女は私のそばにいたが、睫毛一つ震わせず、その表情を見てもいらだちや怒りがつゆほども浮かんでいなかった。彼女は何も話さなかった。彼女はただ見ていた。馬車の周りを囲んで罵声を浴びせている者たちではなく、家々に沿って人垣を作っている市民たちを。通りにあまりにも大勢の群衆がいたせいで我々はゆっくりとしか進めなかった。彼女がため息をついたので、私は何か言わなければならないと思った。「長くかかりそうですね」。すると彼女は「私たちはいずれ到着することになります」と私に答えた。彼女の声は牢獄にいた時と同じく落ち着いていて柔らかく澄んでいた。革命広場に出た時、私は立ち上がって彼女の前に身を置いた。彼女の目にギロチンが入らないようにするためである。しかし、彼女は前に身を乗り出して言った。「私が興味を持ってもよいでしょう。これまで一度も見たことがないのですから」。しかしながら、興味を示したせいで彼女は青ざめたように思えた。しかし、それは一瞬だけで彼女の顔はすぐに明るい色を取り戻した。馬車を降りた時、見知らぬ者たちが関係者の間に混じっていることに私は気づいた。私は憲兵たちのもとへ行って、広場を空ける手伝いをするように求めた。その間に罪人の女は処刑台の階段をすばやく登った。彼女が処刑台の上に至ると、フェルマンが荒々しく彼女からフィッシュー[59]を剥ぎ取った。そのせいで彼女は跳ね上げ板に転げ落ちて縛り付けられてしまった。まだ持ち場についていなかったものの、私はこの勇敢な女の苦痛を1秒でも引き伸ばすことは野蛮なことだと思った。そこで私は、右手の柱のそばにいたフェルマンに装置を始動させるように合図した。私はまだ処刑台の下にいた。その時、自分とは関係ないことに干渉したがる者たちがいるものだが、そういう者たちの1人であるルグロという名前のギロチンの修復を手掛けていた大工が市民コルデーの首を摘み上げて群衆に見せた。私はそうした見世物には慣れていたが恐ろしく感じた。開いたままの瞳が私を見据えているように思えたし、それに私を感嘆させた心に染み透るようなたまらなく魅力的な静穏が瞳の中にまだ見いだせたように思えた。それゆえ私は顔をそむけた。悪党が彼女の首を平手打ちしたと知ったのはざわめきのおかげだった。彼女はその侮辱に顔を赤くしたと人びとは私に断言した。帰宅すると、市民リシャールの妻の予言が現実のものになった。私がテーブルにつくと、私の妻が「どうかしましたか。どうしてあなたはそんなに青ざめているのですか」と言った[60]。

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わが祖父は、言語道断な侮辱をおこなった者が助手の1人であったと掲載した新聞に抗議した。革命裁判所は大工のルグロを収監して公衆の面前で厳しく糾弾した[61]。

最後に一言述べておきたい。

シャルロット・コルデーが低俗な動機で行動したと指摘することによって、その偉大な人物像を貶めようとする試みがあった。彼女の英雄主義は愛のための復讐に貶められた。さらに愛の対象まで探り出された。それはバルバルーであったり、1790年にカーンで喉を掻き切られたベルスンセ伯爵であったり、亡命者のブワジュガ・ド・マングレであったりした。そのどれもが真実からほど遠いものである。シャルロット・コルデーの魂はあらゆる地上の穢れを払って清らかな天上に昇った。彼女の心臓は祖国の地で二度と脈打つことはなかった。彼女は自由の受難者であっただけではなく、民主主義のジャンヌ・ダルクであった。


[1] 前章の訳注11参照。
[2] 現在のパリ8区にあった墓地。
[3] 次の段落ではマラーの台頭と恐怖政治に至る政治的変動が説明されている が、煩雑なので省略する。簡単にまとめると、マラーがジロンド派を激しく攻撃することで頭角を現し、まるで「山の老人Vieux de la Montagne[イスラムの暗殺教団の指導者]」のように恐怖政治を推進するようになったと指摘されている。
[4] フランス北部ノルマンディー地方の海岸にある町。
[5] フランス北部ノルマンディー地方にある町。
[6] フランス北部ノルマンディー地方にある村。
[7] 17世紀フランスの劇作家であるピエール・コルネイユのこと、『ル・シッド』はキリスト教の擁護者としてイスラム勢力と戦ったスペインの国民的英雄シッドを題材にした詩劇。
[8] 11世紀にカーンに創建されたベネディクト会修道院。
[9] 古代ギリシアの歴史家、さまざまな歴史人物の事績をまとめた『英雄伝(対比列伝)』で有名。
[10] 古代ローマを題材にしたコルネイユの作品に登場する人物。
[11] この頃、コルデーが支持するジロンド派に属する多くの議員はいわゆる5月31日-6月2日事件で追放されカーンに身を寄せていた。5月31日-6月2日事件については安達正勝『暗殺の天使 シャルロット・コルデの生涯』(1983)43頁~59頁参照のこと。
[12] 仏原文はL'Ami du peuple、マラーの発行していた新聞の名前でもある。
[13] 1791年、ダム修道院が閉鎖され、コルデーはいったん父親の家に戻ったが、その後、カーンにある父方の親戚の家に身を寄せていた。安達『暗殺の天使』15頁~17頁参照。
[14] 仏原文はrue des Vieux-Augustins, n° 17とあるが、オテル・ド・ラ・プロヴィダンスの所在地は正確には19番地。
[15] ジロンド派の議員、カーンに逃亡した議員の1人でありコルデーがジロンド派に接近するきっかけを作った。
[16] ジロンド派の議員、カーンに逃亡せずにパリに残っていたせいでマラー暗殺事件の側杖を食って処刑される。
[17] フォルバン嬢は1782年から1788年までコルデーとともに修道院で過ごした親友。コルデーは、当時、スイスにいたフォルバン嬢に代わって年金をもらえるように陳情するという名目で紹介状を受け取ってパリに出ていた。安達『暗殺の天使』94頁・99頁参照。
[18] 内務省はデュペレがカーンに逃れたジロンド派の追放議員たちと連絡を取り合っているのではないかと疑っていた。安達『暗殺の天使』99頁参照。
[19] 山岳派は議場の高い位置に座っていたことがその名前の由来だと言われている。
[20] 1通目の手紙については安達『暗殺の天使』110頁参照。内容は2通目とほとんど同じである。
[21] 安達『暗殺の天使』では30番地。マラーの家の間取り図は各種文献に掲載されているが、G. Lenotre, Paris révolutionnaire (1895)で紹介されているものが最も有名である。マラーの家の番地は各種文献で異なるが、間取り図を19世紀前半の土地台帳と比較対照すると、Rue de l'Ecole de Médecine(旧コルドリエ通り)18番地であると考えられる。
[22] 経糸に綿糸、緯糸に羊毛を縒った糸を用いた一種の綾織り。
[23] 仏文原注:ロラン夫人はその回顧録の中でコルドリエ通り20番地(現レコール-ド-メドサン通り18番地)の住居について記している。彼女によれば、その住居の少なくとも一室は豪華に装飾されていたという。ルイ・ブラン氏が信頼できると言っているロラン夫人の記述をミシェル氏は好意的に見ている。マラーの取り巻きはとても数が多く、少なくとも彼の家には3人の女、すなわち情婦のアルベティーヌ・マラーとしてよく知られているカトリーヌ・エヴラール、その姉妹のシモーヌ・エヴラール、そして料理人のジャネット・マレシャルがいたことは確かだと思われる。
[24] フランス北部ノルマンディー地方の県、県庁所在地はカーン。
[25] フランス北部ノルマンディー地方の県、カルヴァドス県の東にある。
[26] 1680年に創設されたパリにあるフランス国立劇場、俗称コメディ-フランセーズ。
[27] パリ中心部、シテ島から見て南西にあった監獄。
[28] 安達『暗殺の天使』138頁~147頁にもコルデーの手紙の翻訳が掲載されている。
[29] その穏健主義からジロンド派の党首と目されたが、過激派が勢いを増す中、1793年6月に逮捕され、コルデーの処刑から約3ヶ月後に処刑された。
[30] 求婚のために父親を訪問するということ。
[31] 18世紀フランスの著述家。
[32] レイナールのHistoire des deux Indesにある言葉。
[33] コルデーはマラー殺害を決行する前に計画について秘密にしながらもデュペレにパリをすぐに去ってカーンに行くように勧めていた。
[34] カーンの司教にして国民公会のジロンド派議員、デュペレと親しかったせいでマラー暗殺事件への関与を疑われて拘束された。安達『暗殺の天使』134頁参照。
[35] マラーのこと。
[36] マラーはスイス生まれである。
[37] コルデーの手紙の原文と比較対照すると、『サンソン家回顧録』の引用は順番が異なっている。もともとは以下のような順番で引用されているが、おそらく手違いと思われるので本文ではコルデーの手紙の原文どおりの順序で訳出した。
「フォーシェが私の共犯者として[以下略]」
「私はシャボーとルジャンドルによる尋問を[以下略]」
「でも人びとは、取るに足らない女だけが偉大な人間のために[以下略]」
[38] ウール県の県庁所在地。
[39] サン-ファルゴーは高等法院の一員として改革に対して穏健な姿勢を保っていたが、しだいに急進的な傾向を示すようになった。1793年1月20日、ルイ16世の処刑直前に王党派によって暗殺された。暗殺された理由はサン-ファルゴーがルイ16世の処刑に賛成票を投じたからである。サン-ファルゴーの死は革命の受難者として神聖化された。コルデーがここでサン-ファルゴーに言及しているのは皮肉である。もし本当にサン-ファルゴーを神聖視するのであれば、司法省がその言葉を金文字で記録してもよいはずなのにそうしていない。したがって、サン-ファルゴーに対する賞賛は実は空虚なものである。マラーの死も賞賛されるかもしれないが、同じく空虚なものにすぎないとコルデーは訴えたかったのだろう。サン-ファルゴーとマラーの名前が並んでいるのは奇異なことではない。なぜならマラーの葬儀を演出しただけではなく「マラーの死」を描いたことで有名なJacques-Louis Davidはサン-ファルゴーの死を題材にした絵も描いているからである。
[40] この部分は皮肉である。カーンに逃れていたジロンド派は義勇兵を集めて決起しようとしたが、集まったのはわずかに30人程度であった。安達『暗殺の天使』76頁~77頁参照。
[41] 元パリ市長、カーンに逃れたジロンド派議員の1人。
[42] コルデーの手紙の原文と比較すると一部欠けている部分があったので補って翻訳した。
[43] マラーの殺害後に現場に駆けつけた国民衛兵のこと。
[44] コルデーの手紙の原文と少し表現が異なるが、おおよその意味は同じである。
[45] 7月9日にパリに向けて出発する前にコルデーは父に手紙を書き残した。安達『暗殺の天使』94頁参照。
[46] 「や友人」はコルデーの手紙の原文から補った。
[47] コルデーの手紙の原文にない表現、この部分は原文によると「それがどれほど激しいものか示しましたが、私には彼を憎むよりもずっと強く愛している人びとがたくさんいます」である。
[48] 16世紀にイタリアで創設された修道会。
[49] 宣言書については安達『暗殺の天使』102頁~105頁参照のこと。
[50] 18世紀末以降、偉人の霊廟となっている建物。安達『暗殺の天使』154頁によれば、マラーの遺体は1794年9月21日にパンテオンに移されたものの、1795年2月の反動の嵐の中でパンテオンから引きずり出されたという。
[51] 手紙の内容については安達『暗殺の天使』152頁~153頁を参照のこと。
[52] 裁判に関する詳細は安達『暗殺の天使』155頁~169頁を参照のこと。
[53] パリの国民衛兵の一隊。
[54] 上巻第25章参照。
[55] 1793年11月21日~12月20日。上巻ですでに訳出したが、シャルル-アンリ・サンソンの日記は革命裁判所が設立されて6週間ほど経った1793年5月末から始められている。
[56] 以下はシャルル-アンリ・サンソンの日記である。仏原文は括弧がついているが、煩雑なので表記しない。
[57] 仏文原注:1793年7月20日、公安委員会は、シャルロット・コルデーの裁判において「犯罪的かつ反革命の意図を持って計画的に犯行に及んだのか」という五つ目の質問を「計画的な意図を持って犯行に及んだのか」と変えた革命裁判所の裁判長を拘束した。プルシネール『革命裁判所の歴史』第1巻。
[58] パリの執行人の助手、ジロンド派の処刑に携わった。
[59] 女性用の三角形のスカーフ。
[60] シャルル-アンリ・サンソンの日記はここで終わっている。なおルバイイ71頁~76頁には全訳が掲載されている。安達『暗殺の天使』175頁にも部分訳がある。
[61] Dictionnaire Historique et Anecdotique des Bourreauxによると、このルグロという人物はルイ16世の処刑にも登場した助手のフランソワ・ルグロのことであり、コルデーの首を平手打ちしたことでシャルル-アンリ・サンソンから処刑日の夜に叱責を受け、後に8日間の禁錮に処せられたという。またLouis-François Du Bois, Recherches historiques et physiologiques sur la guillotine, et Détails sur Sanson (1843)でも「ル・グロ、すなわちフランソワと知られる助手の1人」だと指摘されている。

コルデーに関心がある人にお勧めのサイト⇒Sur les pas de Charlotte Corday

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