第15章 一族の逸話
シャルル・サンソン2世の未亡人であるマーサ・デュビュに関して忠実に描写したいと思う。彼女は長生きして、自分がその家系の維持に貢献した職業に多くの子孫たちが就くのを見守っていた。しかしながら私は彼女の息子であるジャン=バティスト・サンソンの経歴についてまだ十分に説明していない。ジャン=バティストは、処刑人という職業でフランスに散らばった数多くの家系の祖になった。しかしながら私は、家系の長であるムッシュ・ド・パリとその家系における最も重要な役割を書くためにムッシュ・ド・ランスやムッシュ・ド・プロヴァン、そしてそのほかの者たちについてあまり書くことができない。パリの処刑人の一家は常に第一の地位を占めていた。パリの処刑人は一種の大司教であり、地方の処刑人たちは自分たちを属司教のように思っていた。我々[パリの処刑人]はしばしば処刑人たちを監督するために地方に派遣された。下位の者たちから定期的に助言が求められた。そしてパリと国中のほかの主要都市との間で絶えず通信が交わされた。同業者の中には、職務に必要な技術を学ばせるために自分の息子を助手としてしばらくの間、我々のもとに派遣する者もいたと付け加えたい。我々がそのような生徒の受け入れを拒むことはめったになかった。そして我々はそうした初心者が滞在している間ずっと我々と一緒にテーブルを囲むのを認めていた。
シャルル・ジャン=バティストの子供の数を覚えていれば、我々の家の食堂にどれだけ多くのものが集まったか想像できるだろう。シャルル・ジャン=バティストは彼の母の特異な考え方と奇妙な原理を共有していた。両者は、子供たちや彼らの家でもてなしを受けた見知らぬ者たちから非常に尊敬されていた。シャルル・ジャン=バティストの生活は多忙をきわめ、娯楽の時間はほとんどなかった。サンソン・ド・ロンヴァルのように彼は解剖学を熱心に学んだ。彼はわが祖先の中でも最も科学について造詣が深かった。彼はいつも朝早く起きた。軽食を摂った後、彼はサン・ローラン教会に行って家に戻った。彼は家で患者達を受け入れて、それぞれの病状に応じて治療を施した。診療は昼食の時間まで続いた。昼食の後、家族は庭を散歩した。それからわが曽祖父は研究室に戻った。彼はそこで薬を調合したり研究を深めたりした。夕暮れになると、夕食が準備されるまで彼は扉の前に座っていて新鮮な空気を吸った。彼はしばしば隣人の敵意ある目にさらされた。そのような軽蔑があっても彼は、彼の家で支援と助言をいつも受けている多くの貧困者や患者の挨拶によって十分な報いを受けた。
私がいつも反感を抱いてきた[処刑人の]職務と[医療という]最高の美徳の実践を結びつけるという心理的現象を説明することは難しい。ただ私は多くの例を引用することができる。レンヌ[フランス北西部にある町]の処刑人であるガニエは、彼の管轄地において貧困者の保護者であり、その地方の高等法院の構成員がしばしば彼を訪問して一緒に庭を散歩して助言を求めていたことで敬意を払われていた。私の家族についても言及しておこう。たとえ気休め程度の敬意や同情しかなかったとしても、一連の行為は感謝を受けるに値するものではないかと思う。パリ当局と処刑人のつながりは地方ほど密接ではなかった。フランス革命以来、そうしたつながりは徐々に密接になっている。フランスの法律が最下層の人びとのものだと規定している稼業が、父から息子へと優れた家系の品位を受け継ぐことを知っている高等法院やパリの裁判所の構成員に与えられることは決してなかった。しかし、わが先祖たちが住んでいた地域に関して残した記録を見ると、彼らに大きな敬意が払われていたことがわかる。彼らの職務に付随する反感にもかかわらず、彼らが墓場に赴く時に多くの貧困者が参列した。私が哀れな父を最後の休息の地にともなった時に同じようなことが起きたことを覚えている。
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