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ビリー・ザ・キッドと西部

2018年7月14日(東京)と7月29日(大阪)で開催された勉強会「ビリー・ザ・キッドと西部」の資料です。来場者には同じ内容のものが配布されています。ビリー・ザ・キッド研究の泰斗フレデリック・ノーランの研究を参考に『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』の内容を補足しています。

目次

 「民衆的ヒーロー」ビリー・ザ・キッド

 ビリーの生い立ち

 放浪生活

 リンカン郡戦争

 逮捕と逃亡

 ビリーの死


「民衆的ヒーロー」ビリー・ザ・キッド

なぜビリーは「民衆的ヒーロー」として受容されたのか。『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』でギャレットが書いているようにビリーには一定の支持者がいたが、大部分の人々は無法者としてビリーを恐れていた。死後に出された『ラス・ベガス・デイリー・ガゼット』(1881年7月22日)によれば、「この狡猾な盗賊で大胆不敵な殺人者の死に関する喜びの声がこの地方に広く伝わった。『素晴らしい仕事をしたパット・ギャレットに神の祝福を』という言葉が多くの口から漏れ、人々はその偉大な業績の故に彼を愛することを決して止めなかった」と報じている。

ただしばらくすると「英雄の崇拝者たち」について報じる記事が登場している。『ザ・デイリー・アメリカン』(1881年9月29日)によれば、「英雄の崇拝者たち」がビリーの骨と称する見世物に集まっているという。ビリーの骨は『ザ・リオ・グランデ・レパブリカン』(1881年9月17日)によれば、ラス・ベガスの医師によって死後5日後に掘り返されて見世物にされているという。その点についてはギャレットが『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』の補遺で明確に否定している。『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』は23章と補遺から構成されるが、16章以降と補遺はそれ以前と比べると文体が違うので代筆ではなくギャレット自身が書いていると考えられる。

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