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パット・ギャレットの生涯―第一〇章

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流血行為の歴史

領域の狭さと人口の少なさにもかかわらず、リンカン郡は1875年から1882年まで合衆国でおそらく最も血なまぐさい場所であった。その間にニュー・メキシコ南西部で約200人の男たちが殺害された。ほとんどの殺人はリンカンで起きた。無法行為が猖獗をきわめ、牛泥棒たちが君臨していた。ここは牛泥棒たちと牧牛王たちが集まる場所であり、南北戦争の終結後の20年間で合衆国の他のいかなる場所よりもひどい無法地帯になった。ペコス渓谷は西に向かう牛の群れが最初に通る場所であった。その当時、「マヴェリック」産業、すなわち焼き印のない牛を盗む仕事が蔓延していた。ただ焼き印がなくても仕事には差し支えなかった。牛を育てるよりも盗むほうが簡単だった。1,000人から2,000人の兵士たちに食料を供給しなければならないフォート・スタントンと牛肉を配らなければならないメスカレロ・インディアンの居留地は良い市場であった。(現在は放棄されている)フォート・スタントンとペコス川の間には、牛の群れがいて、最も肥沃で美しい自然景観の一つである曲がりくねったボニート渓谷を移動していた。当然ながらそれは善良な人物よりも悪党を引きつけた。多くのカウボーイたちは蔓延する牛泥棒熱に罹って泥棒になってしまった。地元の牧牛王であるジョン・チザムは約8万頭の牛を所有していた。彼のカウボーイの多くは「牛泥棒」になってしまって、給料をもらって守っていた牛を盗んでしまった。チザムとその他の牧牛王の間、そして、マーフィー一味とマクスウィーン一味の間で「戦争」が起き、非常にそれが執拗であったせいで合衆国政府軍が戦争の鎮圧に駆り出された。

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