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第43章 砲兵隊に入隊したわが父とその記録

 ここでわが家系の話に戻ることを許していただきたい。わが父は、砲兵部隊で働いていた頃に関する記録を私に遺してくれた。これから私はそれを紹介しようと思う。革命を推進する者たちが処刑人という職務にいかに重きを置いていたのか示す興味深い例だからである。わが父の記録には、処刑人に関して好意的な意見が増えてきたという変化に関する興味深い観察が含まれている。共和国は君主制よりも良い待遇を我々に与えてくれた。君主制は我々の奉仕によく頼っていたにもかかわらず、我々の窮状を救ってくれなかったこともあった。我々は避けられることも軽蔑されることもなくなった。人民の代表たちもクラブの雄弁家たちも過激な共和主義者たちも処刑人と親しく交わるようになった。我々の偉大な任務にふさわしい栄養ある名前を考案しようと検討されたこともあった。処刑人を「人民の復讐者[仏原文はVENGEUR DU PEUPLE]」と呼んで、国家の要職の1人だと誰もが認識できるような立派な服装を着用させる案が提出された。偉大なる画家であるダヴィッドは、わが祖父を訪れて衣装のデザインを披露した。それはダヴィッドが祖父のために特別に考案したものであった。シャルル=アンリは栄誉を辞退して、ほかの者たちと同じような衣装を着用したいという意向を示した。

 こうした恩典は、わが祖父に授けられた恩典の中でもささやかなものであった。人びとは処刑台に向かう祖父をしばしば歓呼で迎えた。処刑が終わると、多くの者たちが祖父に駆け寄って飲み物を差し出した。

 ここで私はわが父のペンを借りたいと思う。父による記録にさらなる説明は不要だろう[アンリ=サンソンの記録は原文では括弧書きになっているが、煩雑なので括弧を省略する]。

 召集を知らせる太鼓が打ち鳴らされ、わが地区の市民がいつもの集合場所であるサン=ローラン教会に急いだのは1793年10月のある日曜日のことだった。私もすぐにそこへ駆けつけた。座った後、私は数人の友人たちと話した。私はたくさんの労働者からなる一団から声をかけられた。その中の1人が私に向かって以下のように言った。

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