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『ロラン夫人回顧録』第一部④

 私の教師たちは私に対してより情熱を注ぐようになった。教師たちは私に膨大な課題を与えた。そうした課題は興味がわくものだったので私もより熱心に励むようになった。教えを受けている私が満足していると自負できるような教師は1人もいなかった。というのは私を数年間教えると、教師たちはもはや自分の教えは不必要であり、お金を払ってもらうのは申し訳ないと言って、両親を時々訪問して私と話す許可を求めるだけになってしまったからだ。私は善良なマルシャン氏に関する記憶を大切にしている。マルシャン氏は、私が5歳の時から書き物を教えてくれた。それから地理学も教えてくれた。私が歴史を習ったのもマルシャン氏からであった。マルシャン氏は思慮深くて辛抱強く頭脳明晰で理路整然とした人物であり、私は「ドゥセ氏[「穏健さん」といった意味]」と呼んでいた。彼はネル家[フランス北部ソワソンを根拠地とする名家]に連なる立派な女と結婚していた。私は彼を訪問して最期を看取った。痛風の発作で胸部に不適当な瀉血をおこなったせいで彼は50才で亡くなった。その時、私は18才だった。

 私は音楽教師のカホンを忘れることができない。カホン[CP注:1786年12月18日、ロラン夫人はパリにいるボスクに「エコール広場にあるサロモン未亡人の店でカホンの歌唱法」を買ってほしいと依頼している]はマコン[フランス中東部のソーヌ川沿いにある町]生まれの快活でおしゃべりな小男だった。マコンで聖歌隊に所属した後、兵士になったが脱走してカプチン派修道士や事務員になったが流浪者となって妻と子供たちともに無一文でパリに流れ着いた。誰にもめったに真似できないようなすばらしいカウンター・テノールの持ち主だったので、若者に歌を教えるのにうってつけであった。誰から紹介されたかわからないが父はカホンを紹介された。私はカホンの最初の女子生徒になった。カホンのせいで私はいろいろと心配事を抱えることになった。カホンは私の両親からしばしばお金を借りた。彼はすぐにそれを使ってしまった。それにボルディエ[CP注:ボルディエ(1700-1764)は『歌唱法』の作者である]の教本を私に返さなかった。カホンはボルディエの教本からいろいろと抜き取って『音楽の要綱』という本を自分の名前で出版してお金がないのに贅沢をして借金を作って15年後にパリを去ってロシアに移った。ロシアで彼がどうなったのか私は知らない。ダンス教師のムゾンは善良でとても無器量なサヴォイ[現フランス南東部にあった地方]人だった。大きな瘤が右の頬にあって、鼻ぺちゃのあばた面を左側に傾けて飾りハンカチで隠していた。それについていろいろと不愉快なことが言われていたのを私は知っている。同じくギター教師の貧しいミナールについてもいろいろ言われていた。ミナールはエサウ[旧約聖書に登場する人物、毛深い手を持つ]のような手を持ついかにも大物っぽいスペイン人であり、真面目で礼儀正しいにもかかわらずその大言壮語は同国人の誰にも引けを取らなかった。恥ずかしがり屋のワトランと私の関係は長く続かなかった。ワトランは50才であり、鬘をかぶり、眼鏡をつけていた。パル=ドゥス・ド・ヴィオル[15世紀から18世紀に使われた弦楽器であるヴィオルの中で最も小型のもの]に指を置かせて弓の持ち方を女子生徒に指導する時にワトランは動揺して顔を赤くしたように見えた。かつて宣教師であり修道院の監督者であり私の母の聴罪司祭であった75才のバルナバ会のコロン神父は、私にパル=ドゥス・ド・ヴィオルを諦めさせる代わりとしてバス・ド・ヴィオル[低音が出る中型のヴィオル]を私の母の家に送った。我々に会いに来ると、ワトランは私にギターを演奏するように求めて自分はバス・ド・ヴィオルを演奏した。私がバス・ド・ヴィオルを手に取って秘密に練習しておいた曲をいくつか披露すると、ワトランはとても驚いた。もしコントラバスが手元にあれば、きっと椅子の上に乗ってでもなんとか挑戦していただろう。

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