見出し画像

第6章 チェッラマーレの陰謀

 サンソンの息子の洗礼名は父と同じくシャルルであった。1703年9月8日、彼は最近5年間果たしてきた職務を正式に受け継いだ。彼は穏やかで心優しい性質であり、性格と外見は母のマルグリット・ジュアンヌとよく似ていた。1707年4月30日、彼は継父の姉妹のマーサ・デュビュと結婚した。父と息子が2人の姉妹と結婚したことは特に驚くべきことではない。サンソン・ド・ロンヴァルが晩年に結婚したこと、そして、彼が老齢になった時の同伴者として妻を娶ったことを思い出してもらいたい。さらに今の機会に言っておきたいのだが、我々の悲しい状況において我々は自分たちの領域の外側から女をほとんど選ぶことができず、あらゆる呪われた種族と同じくわが家系は恒久的に互いに結び付き合って、同じ人物が通常であれば互いに除外されるようなさまざまな血縁関係を持つまでに至っている。したがって、こうした結婚によってサンソン・ド・ロンヴァルの未亡人はすで継母となった者の義姉となり、シャルル・サンソンが結婚した若い女はすなわち以前は義理の叔母だったということになる[この二文は英訳が不明瞭なため仏原文を翻訳した]。

 結婚式に出席した者たちを列挙することでこうした異常な点をより明らかにすることができる。一方の側は、まず2番目のマルグリット・ジュアンヌ[初代サンソンの妻マルグリットと区別するために「2番目seconde」と付けていると考えられる]である。マルグリット・ジュアンヌは処刑人のジャン・バティスト・モランとニコラ・ルヴァシュルの未亡人であり、結婚によってわが先祖の母方の叔母となった。ジャンヌ・ルネ・デュビュはシャルル・サンソン・ド・ロンヴァルの未亡人であり、花婿の継母であり、花嫁の姉妹である。ニコラ・ルマンシャンはマント[パリから見て北西に位置する町]の処刑人であり、妻のマリー・ルヴァシュルを通じて花嫁の従兄弟である。そして、友人のノエル・デスマシュルはシャトレの獄吏である。マーサ・デュビュの側はまず父のピエール・デュビュと後妻のエリザベス・ボワゾンである。八百屋のジル・ダルボーシェはデュビュの前妻の姉妹と結婚していたのでマーサの叔父になる。そして最後に、王の官吏の1人であるアンドレ・ギロームの未亡人のマルグリット・ギロームである。

 2番めのマルグリット・ジュアンヌは、処刑人の中からしか夫を見つけられなかった。マリー・ルヴァルシュルも同じ運命をたどった。そしてマーサ・デュビュも姉たちよりも条件が良い結婚を望めなかった。哀れな女たちが結婚する時の持参金は絞首台と斧であった。

 シャルルはマーサ・デュビュの生活を明るくする努力を怠らなかった。当時、処刑人の稼ぎはかなり多かった。稼ぎは主にアヴァージュ権[droit de havage、商人から商品の一部を受け取れる権利。処刑人は忌避されていたことから特別な道具を使って商品の一部を得ることが多かった]によるものであり、6万リーヴルほどになった。したがって、わが2代目の先祖は若妻に安楽で洗練された生活を与えることができた。

 結婚からほどなくして彼はヌーベル・フランスの古い家を離れた。彼の書記のトゥヴァノ氏はプワソニエール通りとランフェル通りの隅にあるすばらしい家を彼から購入した。フォブール・プワソニエール通りとランフェル通りは今はフォーブル・プワソニエールとブルー通りになっている。古い家はパピオン通りとブルー通りがなす一角にあったが、さまざまな改修のせいでその特徴を判別するのは難しくなっている。その当時、中庭と庭園の間に大きな邸宅が1,200平方トワーズ[約4,600平方メートル]ほどの敷地に建っていた。建物の背後には絵に美しい大きな庭園があり、その一部は木立とクマシデの並木道になっていてまさに公園のように見えた[この二文は英訳が不明瞭なため仏原文を翻訳した]。

 この地所はポール・アントワーヌ=カイネ氏とシャルル=オーギュスト・アンジェノン氏の持ち物であった。シャルル・サンソンはトゥヴァノ氏を通して地所を購入した。祖父が1778年にパピヨンとリブットという名前の2人の紳士に売るまでその地所は一家の持ち物であった。2人の紳士は、わが先祖たちの庭の小さな道が通っていた土地に2本の通りを作って自分たちの名前をつけた。そうした通りに住む者たちは、パリの処刑人が血塗れの仕事をした後に徘徊していた場所に自分の住居が建っているとはきっと思いもしないだろう。

 1778年には土地の価格がかなり高騰していたので、祖父はシャルル・サンソンが6,000リーヴルで手に入れた家屋と土地を売って10万リーヴル以上を得た。祖父の時代においてそれは堂々とした屋敷であった。建物は3階建てであり、前に大きな中庭があって、小屋、厩舎、馬車置き場、温室など隣接するあらゆる種類の建築物に囲まれていた。1階には玄関があって二重階段で庭園に出ることができた。玄関の右側には台所があった。左側には食堂と応接間があった。2階にはわが先祖の居室があった。3階には召使いの部屋があった。

ここから先は

5,602字

¥ 100

サポートありがとうございます!サポートはさらなる内容の充実によって読者に100パーセント還元されます。