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第24章 ギロチン

 ギヨタン医師は引き受けた責務を辛抱強く果たそうとしていた。極刑を執行する方式の平等を求めた提案に関して国民議会の承認を得た後、彼は棚上げされていたほかの提案に注意を向けた。犯罪は完全に個人的なものとして見なされるべきであり、処罰による不名誉は罪人の家族に及ぼすべきではなく、財産没収は廃止されるべきであるという提案であったと記憶されている。さらに処刑された罪人の遺体は要望に応じて親族に引き渡され、もし要望がない場合、死因に言及せずに埋葬されるべきであるという提案であった。

 こうした改革は国民議会によって好意的に迎えられた。しかし、ギヨタンの特別な目的は、そのほかの刷新を採用することであった。群衆の前で遺体を数時間にわたってさらす絞首台をこっそり観察しながらギヨタンは、これまでのすべての処罰方式を苦痛が緩和できるような処罰方法に代えることを決意した。その目的を推進するためには斬首以外にないと彼は考えるようになった。これまで斬首は特権階級に限られていた。そしてあらゆる点において、斬首は死を与える方法としてより男らしく自然な方法であった。しかし、その当時、処刑人の剣はしばしば斬首に失敗していた。手は震えがちなので、揺るぎない正確さを保証できるのは器械だけであった。これまで命を救うために努力してきた男が命を奪うための手段を工夫するのは斬新な探究であったが、彼はそれを弛まない熱情で追究した。時間を節約するために彼は、以下のような言葉でその原理に関する認識を示唆した。

「あらゆる極刑において処刑方式は同一にするべきである。罪人は器械的な装置によって斬首されるべきである」

 こうした提案は「器械的な装置」が王の血の洗礼を受けるちょうど3年前に出された。提案は7人委員会に送られたが、法として成立したのは1791年のことであった。その時、斬首が明示的に採用された。しかし、斬首が実施される過程については指示されていなかった。こうした欠落はわが祖父に強い懸念をもたらした。というのは、もし器械的な手段が工夫されなければ、重い責任が自分にのしかかってくると彼は予見したからだ。彼は司法大臣に意見書を送った。その中で彼は剣によって斬首することの難しさを列挙した。斬首には、罪人の固い意志と勇気が必要であり、それをあらゆる罪人が持っているとは限らない。それにあまりに頻繁に剣を使用すれば鈍ってしまって数多くの処刑を執行できなくなる。彼は以下のように意見書に付け加えた[以下の意見書は英訳では省略されているので仏原文から翻訳する。安達122頁~123頁では意見書の抄訳、ルバイイ45頁~47頁では意見書の全訳、アラス248頁~249頁では『斬首の方法について司法大臣に宛てたシャルル・アンリ・サンソンの報告書』と第して全訳が掲載されているものの、回顧録に引用されているものと異なる部分がある。なお本書で翻訳している部分は第3巻391頁~392頁の直接引用の部分である。直接引用の後半部分は安達、ルバイイ、アラスのいずれにも含まれていない。アラスはJules-Antoine Taschereauの『Revue Rétrospective』(1835)を参照したとしているが、確かにギロチンに関する文書群は採録されているものの、『斬首の方法について司法大臣に宛てたシャルル・アンリ・サンソンの報告書』は訳者が調べた限りでは見つけられなかった]。

「罪人が何人かいて連続で処刑される場合、流血の光景によって恐怖が生み出され、最も勇敢な者の精神でさえ怯えと虚脱に襲われる。そうした虚脱によって罪人は自分で体を支えられなくなってしまう。そうなると処刑にとって大きな障害になる。もし処刑をそのまま執行すれば、それは単なる虐殺になってしまうだろう」

「最後に、特筆すべき本質的に重要なことがある。罪人が告白する場合、市庁舎に行くことになって、しばしば夜になってしまう。そうなると、指定の期日に処刑を執行できなくなる。というのは松明の灯りで処刑を執行するのは不可能だからである。松明の明かりはちらちらと明滅しているせいで目を欺きがちである。したがって、処刑の執行を延期する必要がある。すなわち、不運な者たちの苦痛を引き延ばすことで死を待たせることはあらゆる死よりも非業の死よりも悪く、それは自然の願いに反している」

 シャルルーアンリ・サンソンは、罪人の体を水平の位置に保って、手作業よりもより迅速かつ円滑に作業進められる器械が絶対に必要であると主張して締めくくった。

 これこそギヨタン医師が求めていたものであった。そこで彼はわが祖父を訪問して助言を仰いだ。しかし、彼らの長い話し合いは満足できるような結果に至らなかった。彼らは、器械の構想を実現した例がないかと過去やほかの諸国のあらゆる例を調べてみたが無駄に終わった。パンツ、アルデグラーフ、ルーカス・フォン・クラナッハなどのドイツの版画や1555年のイタリアの[アキレ・ボッチ]による版画はいくつかの型を示しているが、どれもが不完全なものだった。イタリアの版画はマンナイア[仏原文はMannaïa。マンナイアについて詳しくはアラス31頁~32頁参照]と呼ばれる処刑器具を描いている。それはイタリア、特にジェノバでよく使われ、有名な陰謀家であるジュスティニアーニの処刑で用いられた。この器具は処刑台の上に立てられる。2枚の垂直の板の溝に刃が挟まれている。罪人は跪いて、頭を台に置く。処刑人は刃が落ちないようにしている縄を握っている。ドイツの版画はほとんどそれと同じである。

 ペルシアにおいて科された刑罰に関して詳細な情報が集められた。さらにスコットランドの刑罰に関する情報も集められた。マンナイアに比べるとそうした情報は役に立つものではなかった。器械による斬首は実はフランスでも実施されていた。モンモランシー元帥[ ルイ13世に仕えた軍人、リシュリュー枢機卿の影響力を排除しようと挙兵したが失敗して処刑された。]は1632年[英訳では1631年になっているが、仏原文は正しく1632年になっているのでそのとおりに訳出した]にトゥールーズで落ちる刃によって処刑された。

 ほかに最後の手法よりも良い手法が見つからなかった。罪人の姿勢は非常に重要であるので看過するべきではないとわが祖父が強く反対しなければ、きっとそれが採用されただろう。気が遠くなっている者が膝をしっかり保って自分の足で立ち続けることは不可能である。罪人を吊るしたり、刑車にかけたりすることは可能である。しかし、稀有な事例を除けば、死の一撃を受ける際に罪人にじっと動かずにいるように期待することはできない[以下、サンソンとシュミットのやり取りを仏原文から翻訳する]。

 シュミットというドイツ人の技師がわが祖父の家に時々来ていた。わが祖父はシュミットに自分とギヨタン医師が困っていることについて話した。このシュミットはクラヴサン[clavecin、ピアノのような鍵盤楽器]の製造者であり、祖国の大部分の人びとと同じく創意工夫に富み、音楽の熱心な愛好家であった。わが祖父といくつかの楽器を販売することで知り合って、クラヴサンを調律したり、ほかの楽器の用具を頼まれて持った来たりすることで交流を温めた。シュミットの音楽の好みはシャルル=アンリ・サンソンと合っていた。サンソンも音楽の愛好家でありバイオリンやチェロをとても上手に弾いた。2人はすぐにグルック[オペラの作曲家、マリー・アントワネットの音楽教師をウィーンで務めた縁でパリに移った]の上演目録でうまく合奏するようになった。

 シュミットがクラヴサンをしばしば演奏しに来る一方、シャルル=アンリ・サンソンはバイオリンを弾いたりチェロを奏でたりした。しかし、ある晩、『オルフェオとエウリディーチェ[グルックのオペラ作品、1762年、ウィーン初演]』のアリアと『オーリードのイフィジェニー[グルックのオペラ作品、1774年、パリ初演]』の二重奏曲の合間に、ひどい言葉遊びになるかもしれないが、楽器を交換した時にわが祖父はその形式をどのようにすればよいのか悩んでいる器具の話に戻った[instrumentsは「楽器」を交換するという意味と同時に楽器からギロチンという「器具」の話に移るという意味を表している]。

 シュミットは「待ってください。あなたの問題について私も考えていました。ちょっとやってみましょう」と言って鉛筆を握るとすばやく図を描いた。

 それはギロチンだった。

 ギロチンには、二つの柱の間に吊るされた鋭利な鋼鉄の刃がついていて、縄の簡単な操作で動かせるようになっていた。罪人は跳板の上に固定され、その板が下がると、罪人の首がちょうど落ちてくる刃に当たるようになっていた。困難は克服され、問題は解決された。ついにシュミットは、罪人を水平の体勢で処刑して執行を失敗しないですむようにする方法を発見した。

 シャルル=アンリ・サンソンは驚きと満足のあまり叫ばずにはいられなかった。

 [シュミットは]「私はそのことには踏み込みたくありませんでした。よろしいですか、それは同胞の死となるからです。しかし、あなたがとても困惑しているように見えたので助けることにしました[仏原文はmais che fous foyais trob ennuyé、翻訳が難しいのでさまざまな文献を参考に意訳した]。では先日演奏した『アルミード[グルックのオペラ作品、1777年、パリ初演]』のすばらしいアリアに戻りましょう」[と言った]。

 シュミットが苦痛に満ちた考えを払拭したいと見て取ったわが祖父は「ではそうしましょう、シュミットさん」と答えた。

 そして、クラヴサンとチェロの演奏がこれまでと同じように美しく開始された。

 シャルル=アンリ・サンソンは、この発明をギヨタンに伝えた。医師は喜びに我を忘れた。というのは並外れた活力と情熱で探究していたからである。伝記作家の中には、ギヨタンがこの問題に関する行動を後悔して、国家に自分が貢献したかどうか疑わしく思っていたと誤って断言している者もいる。最期までギヨタンは、責務を果たして大きな改革を始めたと確信していた。わざわざ繰り返す必要はないかもしれないが、もし人びとが処刑の新しい器具にギロチンという名前を与えたのであれば、医師がその本当の発明者ではないにしろ、それはまさに適切な行動だろう。というのは彼のおかげで斬首刑とそれを科すための器械が採択されたからである。

 1791年4月31日の審議で彼は新しい器具について説明した。激情に駆られて使った表現が大きな笑いを誘ったせいで、危うく彼の主張が通らなくなりかけた。彼は、ちょっとした冷たさを首に感じるだけだと言った。こうした表現は非常に独特であった。さらに彼が「この器械を使えば私は瞬き一つであなた方の首を落とせる。そうすればあなた方は苦しまずにすむ」と付け加えると、国民議会の代表たちは笑いを抑えきれなかった。ギヨタン氏と市会の検事総長であるロデレール氏、そしてわが祖父の間で書簡が交わされた。ようやく国民議会は、斬首の新しい方式について調べるようにアントワーヌ・ルイ医師を指名した。

 ルイは王の侍医であった。雇い主の王は、侍医が果たさなければならない仕事を耳にした。この王の錠前師としての器用さはよく知られている。彼はルイを手助けしたいと思って、彼自身の言葉によれば、君主として興味を持つべき問題に個人的な関心を抱いた。王と侍医は。ギヨタンが提案した器械の案について検証してみたいと思った。そこでルイ医師の要請でギヨタンがテュイルリー宮殿に招かれることになった。さらにギヨタンはわが祖父を同行させるように伝えられた[以下、テュイルリー宮殿の中の出来事は仏原文から翻訳する]。

 この会合は1792年3月2日に催された。テュイルリー宮殿は、崩壊しつつある君主制の未来の墓場のようになっていた。かつてはきらびやかな廷臣たちで溢れていたが、今となっては荒涼としていて、そこかしこにいくつかの青ざめて不安げな顔がのぞく玄関や長い回廊をギヨタンとともに横切りながらシャルル=アンリ・サンソンは、不吉な予感を覆い隠すような輝きを放っていたヴェルサイユ宮殿の壮麗な羽目板の下、感じていた[重々しい]思いよりも悲痛な思いで心が締め付けられるのを感じていた。

 彼らはルイ医師の執務室にたどり着いて、金の縁取りがある緑色のヴェルヴェットで覆われた机の前の椅子に座っているルイ医師を見つけた。2人の医師の間でていねいな言葉がいくつか交わされた後、アントワーヌ・ルイは器械の案を見せるように求めた。ギヨタンはシュミットの図をルイに渡した。わが祖父は、各部位にアルファベットを振って、その用途に関する説明書きを付け加えていた。ルイがそれを検討していた時、つづれ織りの間仕切りが引き上げられて、部屋に新参者が姿を見せた。

 これまで座っていたルイ医師は立ち上がった。やって来た男は、深々とお辞儀していたギヨタンに冷ややかな一瞥を投げると、出し抜けにアントワーヌ・ルイに言った。

「やあ先生、あなたはそれをどう思うかね」

 医師は「私には完璧に思われます。ギヨタン氏が私に言ったことにはすべてきちんとした根拠があります。ではご自身でお確かめください」と答えた。

 彼は、問いかけてきた者に図を手渡した。その者はしばらく黙って図を見ていた。それから最後に疑わしそうに頭を振った。

「この三日月の形状の鉄はこれでよいものなのだろうか。このように切り出された鉄がすべての首に正確に当たるものだとあなたは思うのか。傷つかない首もあれば、まったく食い込まない首もあるだろう」

 この人物が入って来て以来、シャルル=アンリ・サンソンは判断力を失っていたわけでもなく言葉を失っていたわけでもない。その男の声の響きからサンソンは、第一印象が間違っていなかったとわかった。彼の前にいたのはまさしく王であった。王は黒っぽい服装をしていて、胸には勲章がなく、その物腰によって今回はお忍びでありたいということを正体を見破った者に悟らせていた。

 シャルル=アンリ・サンソンは王の観察眼の正確さに感動した。そしてサンソンは、薄いレースのネクタイで覆われている王の首を無意識に見ると、非常に強健な王は筋肉質の首を持っていて、シュミットの鉛筆で描かれた三日月の形状から大いにはみ出してしまうことに気づいた。我知らず身震いに襲われたサンソンが空想に耽ったままでいると、王がルイ医師に目つきで示しながら「この男かね」と言うのが聞こた。

 医師は身振りで肯定を示した。

 ルイ16世は「では彼の意見を聞いてくれ」と続けた。

 王の侍医は「この方のご指摘を聞いたでしょう。刃の形状についてどのような意見がありますか」と言った。

 わが祖父は「この方は確かに正しいです」とわざとらしく「この方」という言葉を強調して答えた。「刃の形状のせいで何か問題が起きるかもしれません」

 王は満足そうに微笑んだ。それから王はルイ医師のテーブルから羽ペンを取ると、三日月の代わりに斜線を描いて訂正した。

 王は「もっとも私も間違うことがある。実験する場合は二通り試してみなければならない」と付け加えた。

 それから王は立ち上がって手を振りながら退出した。彼は、わが祖父が数年前にヴェルサイユで見た若き王ではもうなくなっていた。その時、王の表情は穏やかな落ち着きを湛えていた。実年齢よりも老けた君主になっていて、そのすっかり変わってしまった表情には疲労と耐え難い不安が刻み込まれていた。時々、陰鬱な閃きが彼の目をよぎった。抑えきれない苛立ちのせいで彼の額に皺が寄っていた。彼の本質である温厚さを取り戻すにはかなり長い時間が必要であった。ヴァレンヌから帰還して以来[ いわゆるヴァレンヌ逃亡事件のこと、国王一家は国外逃亡を企てたが失敗してパリに連れ戻された。]、ルイ16世は人民と国民議会の虜囚であり、チャールズ1世[17世紀のイングランド王、清教徒革命で処刑された]の運命を一度ならず思わずにはいられなかった。シュミットの図を手直しした時に、いったいどれほど苦い思いが彼の脳裏をよぎったのだろうか。

 この会合から5日後の3月7日、アントワーヌ・ルイは国民議会に意見書[アラス250頁~252頁に『斬首の方法についての意見書』と第して全訳が収録されている]を提出した。その中で彼は、単純な器械を採択するように提案した。それはシュミットが描いた図に別の刃をつけたものだった。3月20日、意見書を採択した。そして、ルイ医師は最初の斬首用の器械の製作を監督するように命じられた。その作業を請け負うことになったギドンという大工は代金として5,500フラン[仏原文はcinq mille cinq cents francs、安達126頁、レヴィ89頁~90頁、アラス44頁によれば5,660リーヴルである。請求額があまりに高額だったので代わりにシュミットが960リーヴルで請け負うことになった]を請求した。ギロチンが完成した時、わが祖父と2人の兄弟は、3体の遺体で実験するためにビセトール監獄[パリ中心部から南にある監獄]に赴いた。その実験は1792年4月17日に牢獄の中庭でアントワーヌ・ルイ医師とフィリップ・ピネル医師、そしてカバニス医師の立ち会いでおこなわれた。囚人たちが窓からその様子をしきりに見ていた。

 3体の遺体は次から次へと斬首された。斜めの刃を使っておこなわれた最初の2回の実験は成功した。三日月の形状の刃を使っておこなわれた3回目の実験は失敗した。したがって、斜めの刃が採用された。

 1週間後、わが祖父は窃盗と殺人未遂で死刑判決を受けたペルティエという名前の男で新しい仕組みを試す機会を得た。新しい処刑器具を見たら群衆がどのような反応するのかに関して不安があった。ロデレールがラファイエットに宛てた手紙には次のように不安が吐露されている。

「拝啓。新しい斬首の方式はグレーヴ広場にかなり多くの群衆を確実に引き寄せるでしょう。器械を破壊しようとする試みを防止する特別な措置が必要です。したがって、器械が撤去されるまで執行に付き添うように憲兵に命じてほしいのです」

 刑車の歴史の終焉に関する出来事が思い起こされたのだろう。そのような出来事が、ルイ医師の名前を由来とするルイゾン、あるいはルイゼット、もしくはギヨタン医師の名前を由来とするギロチンの歴史の幕開けとなるのではないかと恐れられた。最後の名前が一般に流布した。しかし、混乱は何も起きなかった。処刑が執行されることになったが、わが祖父の懸念が正しかったことがわかった。処刑台に連行されたペルティエは卒倒しそうだったので、彼を剣で斬首することは不可能に思えた。[ギロチンによる]処刑は完全な成功を収めた。

 ギロチンが本当に最も残虐ではない処刑方式であるか否か問うことに興味があるかもしれない。ギロチンは発明者たちの人道的な見地に合ったものなのか。もしくは何人かの解剖学者が断言しているように、斬首は場合によっては死後のひどい苦痛をともなうものなのか。私自身の個人的な感想を述べる時が来るまで、私はこうした重要な問題を吟味して、職歴の中で培った見解について述べるのを延期したいと思う。これから驚くべき話に注目しようと思う。その話は後回しにすべきではない。

[訳者による付記]

 ルイ16世がギロチンの設計図に改良を施したという話はAlexandre Dumasの『Le drame de quatre-vingt-treize』(1851)でも描かれている。サンソンは「50才から55才で背が高く、親切そうな微笑みを浮かべた開けっぴろげな顔つき」をした男として登場するが、名前が「シャルル=ルイ・サンソン」となっている。ビストール監獄の中庭でサンソンは、ギヨタン、ルイ、ギドンなどが立ち会う前で遺体を使った実験をおこなった。ギドンがギロチンの製作費として5,500フランという金額を提示する場面もある。実験に関する記述の後、次のように話が展開するが、サンソンは登場しない。なお『サンソン家回顧録』の記述と比べると、テュイルリー宮殿での会合とビストール監獄での実験の順番が逆転している。以下は仏原文から翻訳した。

 国王ルイ16世はビストール監獄の中庭で実験がおこなわれたことを聞いた。ギヨタン医師が経験した難点をルイ16世から隠すことはできなかった。

 先述のように王は手先が器用であり熟練した錠前師であった。

 ルイ医師と最初に会った機会に王は器械の仕組みについて説明を受けた。

 ルイ医師は羽ペンを取って、できるだけうまく器具の図を描いた。

 図を丹念に吟味していた王は刃に注目して「欠点はここだ」と言った

「三日月の形状の刃の代わりに三角形にして鎌のように斜めにするべきだ」

 そして、その言葉をわかるように示すためにルイ16世は羽ペンを取ると、思うとおりの器具を描いた。

 9ヶ月後、不運なルイ16世の頭はまさに彼が描いた器具で落とされることになる。

―『サンソン家回顧録上巻』より

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