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『ロラン夫人回顧録』第一部⑧

政治的激動がわが国で荒れ狂い、私にとって大事なものをすべて一掃している中、囚獄の底でどうすれば静寂と歓喜の時代を思い出せるだろうか[ここから草稿のインクが(より白いものに)変わっていて、筆跡が明るくなっている。それは8月31日に[フランソワ・]ビュゾーに送られた手紙を書くのに使われたインクである。こうしたちょっとした見解は、これらの頁が書かれた時を特筆するのに少しは役立つかもしれない]。感受性の強い心を持ち、幸福を求め、天性の資質が目覚めて神を受け入れようとする若者の甘美な感情をどうすれば鮮やかに描けるだろうか。私は修道院で過ごした最初の夜は不安なものだった。もはや私は父の庇護の下になく、私のことをいつも気遣ってくれる優しい母からも遠く隔たっていた。同じ年頃の4人の子供たちと一緒に私はぼんやりとした明かりで照らされた部屋で眠った。私はゆっくりと起き上がると窓のところへ行った。 窓は庭に向かって開いていた。月のおかげで庭がよく見えた。深い静寂が漂っていた。もしそのように言い表せるとすれば、私は一種の畏敬とともに静寂を受け入れた。高木がそこかしこに大きな陰を投げかけていて、黙想のための隠れ家になりそうであった。私は目を天に向けた。天は清澄で静穏だった。神が私の犠牲を嘉納して、天国のような棲家での慰めとなる平安を報いとして授けてくださったのだと思った。随喜の涙がゆっくりと私の頬をつたった。私は神聖な熱情とともに祈りをくり返し、選ばれし者のまどろみに落ちて行った。

到着したのが夜だったせいで私は学友たちを全員見たわけではなかった。6歳から17、8歳まで生徒は34人いて一つの組にまとめられていた。しかし、食事時になると寄宿生は二つのテーブルに分けられた。昼間に修練に勤しむ時も二つの区画に分けられた。少女にしては大人びていたので私は年長者の中に入れるべきだと一目で判断された。年長者のテーブルで私は12番目になった。そして私は自分が年長者の中で最も年少だと知った。母が私に教えてくれた礼儀正しい所作、私が常としていた落ち着いた雰囲気、穏やかで正確な話し方などは、少女たちの騒がしく浮ついた感じとはまったく似ても似つかなかった。子供たちは一種の安心感を抱いて私に接した。なぜなら私は彼女たちに嫌な思いをさせないようにしていたからだ。年長者たちは一種の敬意を抱いて私を扱った。なぜなら慎みのおかげで私はあまり馴れ馴れしくせずに彼女たちの間で一目置かれるようになったからである。これまで早くから薫陶を受けてきたおかげで、年長者であろうと学友たちの中で私よりも高い教養を持つ者がいなかったのは驚くべきことではなかった。

修道女たちは私の教育に誇りを感じたようだった。私が寄宿舎にいたおかげで彼女たちは教育を難なく続けることができた。彼女たちが与える教材を私はすでに知っていたり、すぐに習得してしまった。私は彼女たち全員に気に入られた。彼女たちは競って私に気遣いを示したり賛辞を送ったりした。寄宿生たちに書き方を教える担当の修道女は70歳であった。彼女はなにかの不幸のために50代で修道女になったという。彼女は高い教育を受けていて、そうした利点に加えて育ちが良く世知に長けていた。彼女は教育における自分の技術に誇りを抱いていた。彼女は美しい筆記術を持っていて、修飾法に優れ、正書法をうまく教えることができ、歴史にも詳しかった。サン=ソフィー修道女は騒がしい生徒たちに然るべき教育を施そうとしたが、小さな体に年齢、そしてもったいぶった感じのせいであまり尊敬されていなかった。そして私の記憶が正しければ、修道女たちは彼女の才能に嫉妬していたせいで好んで彼女を嘲笑の的にしていたようだ。この優れた修道女は学問の資質を持った私にすぐに愛着を抱くようになった。生徒たちに全体授業をした後、彼女は私を個別指導して、文法を復習させ、地図をなぞらせ、歴史の一節を抜粋させた。彼女は私を個室に招く許可も得た。そこで彼女は私に本を読み上げさせた。これまでの教師たちの中で私が続けて指導を受けたのは音楽教師だけだった。修道女の監督の下、ほかの2人の生徒とともに私は応接間で指導を受けた。さらに私は修道院への立ち入りを許可された女教師から絵の指導を受け続けた。規則正しい生活はさまざまな修練で占められ、私の精神活動に適しているだけではなく、秩序と勤勉を好む私の性格にも合っていた。私は何事も率先して行動したが、十分な余裕があった。私は勤勉であり、時間を一瞬たりとも無駄にしなかったからだ。

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