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アメリカ人の物語4 建国の父 ジョージ・ワシントン(上) 連載12号

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物語の舞台

人間が人間を支配する。それはこの世に人間が存在する限り、決して消えることのない真理である。その真理から人間は一つの問いを生む。ではより良い統治とは何か。

フィラデルフィア、一七八七年夏。その年の夏、独立後、山積する国家の課題を解決するために、アメリカ全土から各邦の代表たちが一堂に会した。今、連邦は崩壊しようとしている。誰もが危機感を抱いていた。誰もが国家の命運を変えようという使命感に燃えていた。

そして、フィラデルフィアの一夏で世界は変わった。なぜならこれまでにない革新的な政体が考案されたからだ。それは男たちの試行錯誤を経て生み出された。そして、近代憲法の精髄となって現代にまで脈々と受け継がれている。


開かれた扉

一七八七年五月五日、フィラデルフィアのマーケット通りを黒づくめの小柄な男が足早に歩いていた。雨が降っているせいで路上の物売りはどこかに姿を消している。きっと屋根のある市場に行ってしまったのだろう。農夫が玉石を弾き飛ばしながら荷馬車を駆って家路を急いでいる。農産物を売りに来た帰りだろうか。それにしてもひどい雷雨だ。ずぶ濡れになった男は一軒の家の前で足を止めた。

煉瓦造りの瀟洒な家はメアリ・ハウスの下宿屋だ。家に駆け込んだ男の顔を見ると少しくたびれた様子が見て取れる。実は一日半かけてニュー・ヨークから駅馬車でフィラデルフィアに到着したばかりである。この当時、駅馬車はようやく普及し始めた交通機関だった。新聞広告に主要都市を結ぶ路線が開設された旨が告知されているが、まだ「路線網」と言えるようなものではない。運賃も決して安くはない。近距離ならともかく誰もが気軽に遠距離で使えるようなものではなかった。

玄関でしずくを拭った後、男はまるで勝手知ったるわが家のように室内に入って行った。無理もない話だ。なにしろ男は一七八〇年に大陸会議の代表として招集されて以来、事あるごとにここを定宿にしている。家の住人とは家族も同然である。住人との挨拶もそこそこに男は一室に籠もって灯りのもとで猛然と羽ペンを走らせ始めた。

五月十三日、フィラデルフィアの街は悪天候にもかかわらず活気に溢れていた。教会の鐘が高らかに鳴っている。通りに群衆が出ている。このような熱気は二年前にベンジャミン・フランクリンがヨーロッパから帰還して以来だ。やがて騎兵隊に誘導された馬車がやって来た。そして、マディソンが逗留しているメアリ・ハウスの下宿屋の前で停まった。馬車からワシントンが降り立った。ワシントンも下宿屋に泊まる予定のようだ。そこへロバート・モリスが顔を見せて豪奢な自宅に招いた。ワシントンは厚意を受け入れてモリス邸に荷物を移す。

会議の開始日は五月十四日であったが、その三日後になっても揃ったのはヴァージニア邦とペンシルヴェニア邦の代表たちだけであった。当時の交通事情からすれば遅参が目立つのは珍しいことではない。そこでヴァージニア邦の代表たちは、ジョージ・メイソンに言わせれば「適切な見解の交換」をおこなった。マディソン、ランドルフ、メイソンの三人を中心に毎日午後三時から数時間にわたって協議がおこなわれた。

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