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第42章補遺

[『ギロチンの祭典』でも本書と同じく、アンリ=クレマン・サンソンの記述の後に「シャルル=アンリ・サンソンの覚書」と題して処刑された人びとの一覧表が訳出されている(309頁~317頁)。原書では第5巻の481頁~517頁にわたって巻末注としてまとめられている]

 わが祖父の日記にあまりに長く無味乾燥な目録を詰め込まないようにするために、私は恐怖政治末期の日々の処刑一覧を巻末に移すことにした。あの血に塗れた日々の処刑台を歴史書が正確に総括する際にこの信頼に足る記録が役立つことを願う。

収穫月9日[6月27日]の処刑

 旧公爵で元元帥で元ヴェルサイユ管轄司令官のフィリップ・ド・ノアイユ・ド・ムーシ(79歳)、旧公子で元旅団長で制憲会議の一員のシャルル=ルイ=ヴィクトール・ブログリ、旧伯爵でラ・クローヌ連隊の元大佐のジョゼフ=フレデリク・ガスパール・ド・ポラストロン[仏文原注:ポラストロン氏はポリニャック夫人の父親であった]、旧子爵でラングドックの総督のマリー=ジョゼフ=エルネスト・ギニャール・ド・サン=プリエスト、文士のシモン=ニコラ=アンリ・ランゲ[仏文原注:ランゲは1736年に[フランス北東部の]ランスで生まれた。彼は雄弁な弁護士であり、優れた著述家であったが、激しく揺れ動く精神を持っていて、名声を求めて自由を賞賛したかと思えば、専制を賞賛した。彼は名声を貪欲に求めたが、それが彼にとって命取りになった。秘密裏に進めていた策略が露見して彼は革命裁判所に連行された。彼は最期まで気丈であった]、フルダ大司教領[現ドイツ中部にあった領邦国家]の元公使のロベール・リエジャール・ド・リグニィ、旧侯爵のエクトール・ジュネステ・ド・ネレスタン・ド・サン=ディディエ、102連隊の元大佐のジャック・シャルトン、元判事のフランソワ=レオン・ピトワ、ヴィギエ・ド・サン=ルミ、第7砲兵連隊の旅団長のジャン=バティスト・ヴァノ・ド・モンペロー、旧近衛擲弾兵部隊の大尉のエティエンヌ=フェリシテ・ヴァノ、旧ロアン公爵の管財人のジャン=バティスト・ド・ソメルー=プレフォンテーヌ、旧侯爵でブルボン竜騎兵連隊の大佐のアレクサンドル=コンスタンタン・ド・ラギーシュ、元元帥のビロン公爵の未亡人のフェリシテ=ポーラヌ・ド・ロワ、旧ビロン公爵の未亡人のアンヌ・ド・ブフレール、旧貴族のクロッサンの未亡人のオーガスティーヌ=マルティーヌ・ノルマン、ノアイユ=ムシーの妻のアレクサンドリーヌ=カロリーヌ=ルイーズ・ダルパジョン、ドゥルダンのルイ女子修道院[仏原文はex-abbesse de Louyeだが、おそらくex-abbesse de l'Ouÿeの誤り]の元院長のポーラヌ=ナタリー・デュポルタ、ヴァノの妻のテレーズ=エリザベート・デュモン、ジュネステ・ド・ネレスタンの妻のマリー=ルイーズ・ブッセ、ヴェルブリーの元主任司祭のニコラ・ウルデは国民主権に対する陰謀に加担したことなどなど[で有罪になって処刑された]。旧貴族のジャン・ヴォクレ・ド・ギトネー、執行官のピエール・サーヴ、ティヨーレの行政官のピエール・ロシェ、召使いのマチュ・リーマン、人夫のレオン・マティス、豚肉屋のエティエンヌ・コシェー、馬具屋のジョルジュ=バンジャマン・ゲランは亡命貴族と通謀して、狂信主義を煽動して、ラファイエットとデュムーリエの陰謀を賞賛して内乱を誘発した[ことで有罪になって処刑された]。農夫のジョゼフ・シャプロンとその姉妹のマリー=エリザベート・シャプロンはヨンヌ県で武装して集会に参加した[ことで有罪になって処刑された]。

収穫月11日[6月29日]

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