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第22章 ファヴラ侯爵

 3つの大きな裁判が1790年の世論を支配した。すなわち、練兵場に集まった兵士を買収するためのお金を宮廷に提供した嫌疑で告発された徴税請負人のオジェールの裁判、練兵場で指揮を執っていたスイス衛兵隊の佐将のブザンヴァル男爵の裁判、そして、主要官庁の幹部を追放して、国璽を奪取して、王とその一家をペロンヌ[フランス北部にある町]に逃亡させる目的で多数の兵士をパリに招き入れようとした嫌疑で告発されたファヴラ侯爵の裁判である。

 オジェール氏とブザンヴァル氏は無罪放免になった。そうした状況が怒りを誘ったせいで、ファヴラ侯爵の立場はとても危うくなった。

 ファヴラ侯爵トマ・マイは1745年にブロア[フランス中部、ロレーヌ川に臨む町]で生まれた。彼には、マイ・ド・コルメレ男爵とシトネ氏の2人の兄弟がいた。彼は1760年に銃士隊に入隊して1761年の軍事作戦に参加した。そして、王弟付きのスイス衛兵隊の士官になった。彼は1774年に結婚すると、退役してウィーンに行った。そこで彼は、妻がアンハルト=シャウボーグ公の一人娘にして正統な後継者であるという証明を得た。冒険精子を持つ彼はさらにオランダに行って、1787年のオランダ総督に対する反乱で部隊を指揮した。

 1789年、彼は45才の経験豊富な優れた貴族になっていて熱意に溢れ、危険な冒険を求めていた。ヴェルサイユで起きた革命の情景を見た後、彼は王を解放する計画を練った。そして彼はその計画を熟慮よりも熱意で実行しようとした。もし彼の計画が密偵のベルトラン・ド・モルヴィルが回顧録で記しているようなものであったら、それは完全に実行不可能なものであった。この計画の主要な目標は、秘かに募った3万人の王党派の軍隊を集結させることであった。そのような計画を実行するには莫大な資金と最大限の慎重さが必要であった。資金調達が難航したためにファヴラ氏は多くの人びとに計画を伝えたが、賞賛を得られるだけで資金を得ることはできなかった。雇われていた募兵係りのモレル、トゥルカティ、マルキエはファヴラ侯爵をすぐに告発した。12月25日夜、国民議会の命令によってファヴラ侯爵はパレ・ロワイヤルの自宅で逮捕された。

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