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第20章 わが祖母マリー=アンヌ・ジュジェ

 前章で私は死刑の道具として刑車が最後に使われたことについて述べた。この刑罰の起源は定かではない。イクシオン[ゼウスの怒りを買って永遠に回転する地獄の火の輪につながれる罰を受けた王]の伝説によるものだと一般的に信じられているが、それが後にキリスト教社会における処罰の中で目立つようになったとすれば、冒涜を恐れずにすむように磔刑の代わりとして採用されたからである。

 高等法院がこの処罰を異様に好んでいた例について私はすでに述べた。フランスの古い刑法体系が刑車を115種類の犯罪に対して科していたことを知っていれば、高等法院がいかに頻繁に刑車を科していたか容易に想像できるだろう。度を超えた野蛮さの責任はフランソワ1世[16世紀前半のフランス王]と宰相のデュプラ枢機卿にある。フランソワ1世の統治の下、刑車は追い剥ぎや強盗に対する特別な処罰として使われ、絞首台は殺人者に対して使われた。その当時、財産は人命よりも尊ばれていたので、財産の侵害は人命の侵害よりも厳しく処罰されていた。そうした異常事態は長く続かなかった。後に続いた統治の下、盗賊、殺人者、父殺しは、犯罪の性質によって手心が加えられたものの、刑車にかけられるようになった。絞首台は主要な処罰ではなくなり、我々の有名な前任者であるトリスタン・レルミット[15世紀の軍人、同名の詩人とは別人である]の監督の下で迎えた全盛期に比べればほとんど使われなくなった。

 1770年から1780年の祖父の記録によれば、絞首刑に処された罪人よりも刑車にかけられた罪人の方がはるかに多かった。1769年1月18日にエティエンヌ・シャルルとフランソワ・ルグロが殺人罪で、21日にアンドレ=エティエンヌ・プティが窃盗で、4月27日にフランソワ・ブサンが窃盗と殺人で、8月27日にジャン・ブルアージュが亜麻布を盗んだ罪で、9月22日にジャン・ルモワンヌが殺人で、1771年8月19日にフランソワ・アランが殺人で、1772年1月16日にルイ・フランソワ・ドーが殺人で、29日にフランソワ・アブラアム・ルセルフが窃盗で、8月4日にジョゼフ・サヴェルが窃盗で、12月7日にマリー・ピカールとその息子の17歳のピエール、そしてニコラ・ロズがミシェル・モレに対する強盗殺人で、1775年1月14日にエドム・ブロシャールが窃盗と殺人で、5月16日にシャルロット・ボトンが殺人で、9月27日にポール・ダレルが窃盗で、1777年7月11日にJ・B・カンパニャールが殺人で、1778年7月21日にジャック・ヌイエが窃盗で、9月2日にマチュラン・バルサゴールが同罪でそれぞれ刑車にかけられた。

 私は数少ない例を示しただけである。そうしなければ刑車にかけられた罪人の名前だけで本の半分が埋まってしまうだろう。刑車は民衆に反感を抱かせた。1789年の三部会の代表たちの請願はすべて刑車の廃止を求めていた。

 革命期に入る前に、わが祖母とその家の管理に関して少し言及することを許してほしい。マルト・デュビュの死とジャン=バティスト・サンソンの引退によって家は寂しい雰囲気に包まれた。それをすぐに感じるようになったシャルル=アンリ・サンソンは結婚を考えるようになった。彼は優雅な生活習慣を続けて狩猟を情熱的に愛好していた。しばしば家を空けたせいで家の中の管理がうまくいっていなかった。そこで彼はできるだけすぐに妻を見つけたいと思うようになった[以下、サンソンとマリー=アンヌが結婚に至るまでのやり取りは仏原文では7頁にわたる。しかし、英訳版では一段落に短縮されているので仏原文から翻訳する]。

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