個性のジレンマ
一部の人を酷く苛立たせるかもしれない、と思いながら、文章を紡いでいくことにします。たまにはこういうものも書いてみたいな、と思い立ちました。
さて、シェイクスピアの言うように、「非凡を求めることほど、平凡なことはない(Nothing is more common than the wish to be remarkable.)」
それを、「個性」に敷衍すれば、「個性を求めることほど、没個性的なことはない」ということになるのではないか、と僕は思います。
上記文句について、もう少し踏み込んで書いてみようと思います。
ここから先は、独りよがりの文章になっているかもしれませんが、僕はそもそもこの場所を独りよがりの文章を書く場所だとしているので、気にせずに書いていくことにします。
まず、僕にとって、「個性」というものは「求めるもの」というよりも、「おのずから在るもの」です。そして、そうした「個性」を抱えた人は、えてして周囲に理解されず、疎外感を抱くものです。
そして、そうした疎外感に向き合い、鍛錬を重ね、表現力(それが音楽なのか、映像なのか、文章なのか、学問なのか、というのはさておき)を習得した人が、「アーティスト」として周囲から羨望の眼差しを受けるようになるのだと思います。その途中過程にある人はただ、「ぼっち」「頑固者」「変人」といった人たちでしょう。(僕もその一人だと自負しております。)
一年に六十冊程度しか売れない小説を苦心惨憺して十年以上も書き続けている僕(それは、非常に孤独な試みです。)に言わせていただければ、個性なんて、「無い方が楽」に決まっています。
つまり、人が何かを羨ましいと思う時は、その対象の良い面しか見えていないことがほとんどです。個性にも同じことが言えるかと思います。個性のみを得て、それに見合った表現力を獲得することができなければ、あとはただ、寂しいだけ。
それでも「個性」とやらを求めるのでしょうか?
(^^)
とはいえ、「個性」をある種の”ファッション”として、手軽に身につけたい人も多いかと思いますので、私なりに「個性」を身に付けるために必要まステップを書かせていただこうと思います。ただ、ご注意いただきたいのは、私は”ファッション個性”なるものを”個性”だとは思っていないので(ごめんなさい。こういった狭量さもまた、個性の悪い側面です。)、この方法を実践した先にあるのは、表現を求めてのたうち回る、”売れないアーティストもどき”かもしれません。(ちなみに、”ファッション個性”を身につけたいのなら、その本質は演技だと思うので、演技スクールにでも通われたらいいのではないでしょうか?)
(~~)
まず、個性を手に入れるための第一ステップとして、「外界からの隔絶」が必要になるかと思います。これは、進化生物学的な立場からは当たり前のことです。
もちろん、ジーン(遺伝子)が個性化することによって起こる生物種の進化と、ミーム(知伝子)の個性化(による個性の獲得)をなぞらえるのは、とても乱暴な類推です。しかし、こういった「強引な類推に耐えられないような学問は学問として十分に体系化されていない」という、僕が個人的に知る教授のお言葉に寄りかかりながら、この先を書いていこうと思います。
種分化が起こるためには、まず、外界からの隔絶が必要です。昆虫を観察するとよく分かるのですが、「空を飛べない虫の進化は速い」です。
これは、空を飛べない虫は外界から容易に隔絶されるので、個性の習得が早くなる、ということです。裏を返せば、空を飛べる虫は、様々な領域の虫同士で交配できてしまうので、遺伝子が攪拌されやすく、特徴的なプールが形成されにくい、という特徴があります。
これを”個性”に当てはめれば、インターネットにせよ、TVにせよ、井戸端会議にせよ、様々な情報に接する機会が容易に与えられた現代の私たちは、さながら「空を飛べる虫」なわけです。様々な人たちの情報に触れ、常に中身が攪拌され、均一化されていきます。個性の習得は遅くなるでしょう。
さて、次のステップは「淘汰圧を自らに課すこと」です。つまりは、苦しい状況に身をおけば、あとは自然に「個性」とやらが芽生えます。自分の中にある様々なものの見方、考え方のうち、自分に適したものが生き残り、より洗練化されて行くからです。
そうして、ある時、自らを振り返ってみれば、自分が随分と「個性的」な人間になっていることに気づくかと思います。そこから先は、僕が先に述べた苦しみと対峙することになります。
(^^)
さて、これで僕の考える「個性の獲得ステップ」の乱暴な説明は終わりです(たったコレだけ)。
もし、ここに書かれていることが”本当”だっとして、いったいどれほどの人が本当に「個性的になりたい!」と願うものだろう?と僕は思います。
僕に言わせていただければ、彼らが「個性を得たい」と願うことの根本的な動機として、「孤立したくない」「無視されたくない」「注目されたい」というものがあるように感じます。であれば、永遠に彼らは個性を獲得することができないんじゃないかなって思います。彼らはそもそも、「外界から隔絶」に耐えられないんじゃないかな、と思うからです。
今回、僕がこの記事で書きたかった「個性のジレンマ」はそのことです。言い換えれば、「個性を強く求める人ほど、孤立を恐れるので、個性を獲得できない」
最後に、もう一度繰り返しておきますが、ここに書いた内容は僕の独りよがりなフラジャイル論です。様々な感想を抱く方がいらっしゃって当然だと思います。
また、僕は「没個性的」な在り方をこれっぽっちも否定する気はありません。むしろ、そうした在り方を(それこそ)羨ましく思います。どう考えても、そういう人たちの方が情報過多な現代においては適応的だろうと思うからです。
つまり、「個性なんて、求めなくていい」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。