はたらくこと

 「ヒモであること」について書いてみた次の日に、「はたらくこと」について書くというのは随分と気の引けることだけれど、それでも多少の気まずさを覚えながら、「はたらくこと」について書こうと思う。

 小説を書くのを趣味とする人間は、物事の本質を考える際には何かと語源に頼りがちになる。いつもいつも、この必殺技というわけにはいかないけれど、大体の場合にはうまくいくので、いつもここに立ち返ってしまう。
 数学の難解な定理を理解する際は公理にまで立ち返って、そこから組み立てるべし!という、ユークリッド幾何学宇宙(何それ笑)の哲学を、自身の内的な宇宙にも当てはめようというわけです。(つまり、数学の定理が”公理”から組み立てられるように、僕の認識もまた、”言葉”から組み立てられるわけでありまして)

 そんなわけで、話があさっての方角にブレる前に、「はたらく」の語源について考えようと思う。以下は語源由来辞典からの引用。

はた(傍)をらく(楽)にするからという説が広まっているが、これは言葉遊びで語源ではない。働くの語源は「はためく」と同様に、擬態語の動詞化であろう。本来は、止まっていたものが急に動くことを表し、そこから体を動かす意味となった。労働の意味で用いられるのは鎌倉時代からで、この意味を表すために「人」と「動」を合わせて「働」という国字が作られた。
——語源由来辞典より——

 「はたらく」の第一要件として、「動き続けること」があるのだろう。これは、胸に手を当てて考えると、数学の公理のように、しっくりと来る感覚がある。身体全体を動かすのでもいいし、手先を動かすのでもいいし、(抽象的な意味で)頭を動かすのもいい。とにかく、動いて何かしらの役割を果たしていることが「はたらく」ことなのだろう。

 その一方で、「傍(はた)」を「楽(らく)」にすることが「はたらく」の語源であるという俗説もまた、僕の胸を素直に打つ。これまた、本質を捉えているような感じがするのだ。だから、僕は、その”しっくりとくる感覚”を大切にして、はたらくことを「動き続けることで、自分以外の誰かを楽にすること」と捉えようかと思う。

 では、誰の何を楽にするのか、という段階に入っていくことになる。ここで、その方法が無数にあることにめまいがする。例えば、数学者。彼らは数学の美しい定理を発見し、そこに至るまでの道筋を見事なまでに整備する。それは、さながら密林の奥地に舗装道路を引くような物。それを、ほんのわずかな人数でやってのける。
 あるいは、シナリオライター。彼らは、人々の持つ「冒険欲求」を楽に叶えられるよう、現実によく似たモデルを作り出し、椅子に腰掛けたまま波乱万丈のもたらす興奮を味合わせてくれる。

 考え出すとキリがないので、僕はもう少し、「はたらく」ことの本質をデフォルメして考えることにする。「はたらく」とは、「他者の欲求を満たすことなのだ」と。

 そこでやっと、マズローの欲求段階仮説を持ち込むことができる。マズローの欲求段階仮説は、あれこれの科学的反論があるにせよ、”欲求の分類”という点に関しては非常に優れた物だと僕は思っている。(それらが段階的にクリアされねばならないものか?、と問われると首を傾げずにはいられないのだけれど。)

自己実現欲求
承認欲求
社会的欲求
安全の欲求
生理的欲求

 これらのうち、他者の何を満たすことを仕事にしようか、と考えるわけだ。ここから先はもう、個人的な好みの問題になるのかな。

 他者の”自己実現欲求”を満たすことを仕事にするなら、コーチや先生になればいいと思うし、”承認欲求”を満たしたいなら、ブランドものを作ればいい。ソーシャル・ワーカーとして働いて、はぐれ者になりそうな人に社会参加の契機を用意する、というのでもいいし、警察官になって市民の安全を守るのもいい。

 僕が現時点で「これかな?」と思うものは、これらの中で最も分かり易い(そして、移ろいにくい)他者の”生理的欲求”を満たす仕事である。さらに具体化すれば、それは「農業」だ。

 さて、そうやって農業の世界を見渡しに行ったわけだけれど、この話はまた今度、別の記事に書こうかな。



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