沖縄県が祖国復帰?何で日本が祖国なの?#37
(写真は辺戸岬にある「祖国復帰闘争碑」でこういうものは撤去されるべき)
5月15日は「沖縄本土復帰記念日」なのだとネット上で書かれていました。
記念日?
そういう日が沖縄県では制定されていたっけ?
気になって調べたのですが特に沖縄県の公式サイトなどにはないので、沖縄県庁に電話で問い合わせをしました。
そうしたら、沖縄県では5月15日を祝日として、公務員や公立校の生徒たちが休むということもないし、「沖縄本土復帰記念日」とか「祖国復帰記念日」という記念日を制定したこともないとの回答を得ました。
まあメディアなどがこの日を取り上げるために「記念日」と言っているのでしょうとも担当の方が仰っていました。
さて、しかしながら
1945年
(米軍の琉球諸島支配開始日は米軍上陸3月26日、第32軍司令官自決6月23日、ポツダム宣言受諾8月14日、第32軍降伏調印9月7日。1952年4月28日サ講和条約ともいえまちまち)
↕ (27年間)
1972年5月14日
上記27年間米軍に支配されていた琉球政府が1972年5月15日に日本へ沖縄県として復帰したというのは既成事実となっています。
「復帰」という語の定義ですが『精選版 日本国語大辞典』には
とあります。
本土「復帰」というのは、琉球政府が「もとの状態にかえる」のは日本国沖縄県?
この当時の琉球政府自体が米国に支配されているので琉球人の独自の政府ともいえないし、誰がどこに「かえる」のでしょうか?
そもそも琉球人の国、琉球国は舜天が即位した1187年が文献上最初にあらわれる琉球国の歴史といえ、それが下の写真、琉球国の正史『中山世鑑』(羽地朝秀 1650年)に書かれています。
1187年に即位した舜天は琉球国の初代王といえ、それを歴史の嚆矢とするのは上記琉球国正史などの文献にもあるように正当だといえ、その年を基準にすれば沖縄県が強制的に設置される1879年まで琉球国は692年間存続していたと言えるのです。
けれども、私は今でも琉球国は存続しているという立場です。
琉球国が現在も存続ということをいうと妄想だと思う人が殆どでしょうが、それについては琉球新報紙が2014年7月11日に一面トップで「琉球処分は国際法上不正」と報道した下の写真を見ていただきたいです。
国際法の専門家に新報社が取材したところ日本が琉球国を支配したことは国際法上不正で、これは現在でもそれを琉球人が本気で訴えれば琉球国の復国は可能とのことです。
いきなり復国などの話しを持ち出しても唐突過ぎると思う方が殆どだと思いますので日本が琉球国を支配する過程を下に記しましたので読んでいただきたいです。
まずは1879年の3月27日です。
この日、日本の軍と警察約600人が首里城を武力占拠しました。
上記写真は沖縄県公文書館ウェブサイトのものです。
遡れば1609年の薩摩が琉球国を侵略したことまで述べる必要がありますが、1879年までは薩摩と徳川幕府は表立って支配せずに裏から欧米諸国や中国にばれないように支配していました。
しかし裏支配はやめ、直接日本の領土にし、しかも沖縄県を作ると、実は1879年の数年前から琉球人を脅迫してきましたが、その脅迫に平身低頭でやめて下さいという我々琉球人に頭に来た日本は最後は武力を用い首里城を奪ったのです。
それが1879年3月27日で、この日から日本の直接支配の歴史が始まります。
ここで考えてもらいたいのが、もし、天皇が住む東京の皇居を琉球国の軍隊が奪ったらどう思いますか?
そして1879年4月4日に日本は一方的に「沖縄県を設置した!」と宣言します。
それのみならず我々の琉球国のトップである尚泰王に東京へ来いと脅迫します。
徹底的に拒否したのですが、尚泰王は1879年5月27日に日本の船に乗せられ東京へ拉致されました。
琉球国のトップである国王が外国である日本に拉致されその外国の首都である東京でその後亡くなったのです。
琉球人が東京から天皇を拉致し、天皇は首里で死ななければならなかったとしたらどう思いますか?
1879年5月27日に琉球国はトップが拉致されたけれども、残された琉球の家臣団、役人たちは日本には絶対服従しないとお互い誓いあいました。
沖縄県を設置したからその行政を始めてくれと日本侵略軍は琉球人に伝えます。
誰が、そんなことを聞きますか。
考えて見て下さい。
琉球国の皇居といえる首里城を奪い、琉球国王は東京へ拉致、692年も続いてきた王制度は廃止し、沖縄県を作るから協力しろ。
誰がそんなめちゃくちゃな要求を聞きますか?
そのめちゃくちゃな要求はエスカレートしていきます。
それが同年1879年8月18日(旧暦7月1日)から9月14日(旧暦7月28日)まで続いた日本軍による琉球役人拷問事件です。
日本軍はいうことを聞かない琉球役人へ勝手に年貢を取りやがってと難癖を付け、年貢を取る琉球国の物奉行、つまり琉球国の大臣ですよ、今でいえば財務大臣を拉致し当時の首里の役所「砂糖座」へ連れて行き拷問したのです。
拉致され拷問されたのは安室親方(あむるうぇーかた)という方です。
それのみならず日本侵略軍は他の琉球役人たちの家まで行き、その妻や子どもの前でも容赦なく拉致し拷問したとその当時の第一級の資料である『琉球見聞録』(喜舎場朝賢 1914年)に書かれています。それが下の写真です。
そして、その拷問は当時の琉球国の王様の次に偉い三司官(さんしかん)という位にあった富川親方(とぅみがーうぇーかた)と浦添親方(うらしーうぇーかた)が謝罪する旨の「嘆願書」を日本軍に提出し琉球役人はなんとか解放されました。その嘆願書の内容は下の写真にあります。
肝心の拷問された琉球役人数ですがこの『琉球見聞録』では百人余りとありますが、日本側の資料では300人余りとあるので、300人拷問されたと考えるのが妥当でしょう。
上記琉球役人拷問事件についての詳細を知りたい方は下記リンクも参照下さい。もっと分かりやすくその当時の歴史を知ることができます!
https://note.com/fijabyron/n/n6958dd3a0768
はい、首里城は奪う、692年間存続した琉球国は廃止し勝手に沖縄県という植民地を作る、それのみならず我々の王様を拉致し東京で軟禁状態に置く、そして沖縄県という訳の分からない行政に就けといい、それに従わない琉球役人300人余りを拷問し、強制的に沖縄県行政に就業させる。
沖縄県は1879年に日本に暴力を振るわれ強制的に置かれたのです。
1879年以降はもっと悲惨で、我々の言語は「方言」だとされ、日本人に差別されたくないと苦しんだ琉球人は、何と琉球人自ら「方言札」というものを作り学校現場で同じ琉球人に罰を与え692年も続く誇り高い我々の言語を話すことを否定する教育を行ったのです。
1879年からの悪影響は現在でも続き、2021年現在50代以下の世代は外国語である日本語しか話せず自らの母語、692年間も続いてきた琉球諸語は殆ど話せないし、悪い言葉だと思い込まされています。
言語どころか、我々琉球人は1879年以降は日本という外国の兵隊として徴兵され、日本の侵略戦争に強制加担させられました。
そして1945年にはおきなわ島で、20万人近くの琉球人が日本が勝手におこした戦争に巻き込まれ亡くなりました。
1879年から1945年までの66年間は琉球人の言語や文化、もちろん人権も全否定ですし、何より琉球国という692年間も続いた琉球人の国が奪われたのです。
琉球人に取って最悪な66年間の日本支配の歴史がある沖縄県に、1972年5月15日は「復帰」?
しかも日本は琉球人に取って「祖国」?
琉球人の皆さん、1972年5月15日は復帰ではありません。
日本が琉球国の支配を再び始めた日で、それは現在も続いています。
ですから私は大学での講義の際に1972年5月15日は「日本復帰」ではなく「日本の再支配」と定義し教えました。
我々琉球人は琉球国を復国すべきで、その際には王制が良いか民主制が良いかと琉球人同士で議論し決め、宮古などの南琉球や、奄美諸島などとも琉球国が良いのか琉球連邦が良いのか話しあうべきでしょう。
いずれにせよ、米軍と日本軍(自衛隊)は琉球国には全く必要ありませんし、世界には軍隊を保有しない国が25ヵ国存在するので、琉球国は26番目の国になり世界に軍隊をなくしましょうと平和を訴える国になるべきです。
その際には、米国や日本とも友好条約を結び、もちろん中国やロシアとも結ぶべきです。
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