ポーランドが戦後街並みを復元したように首里も復元を#38
トップの写真は約90年前の那覇市の中心部といえる西町周辺の街並みです。
写真の中央に見えるのは1922(大正11)年に建てられた石屋(いしやー)と呼ばれた劇場です。
1944年10月10日の10・10空襲で内部は消失し、外壁は残っていましたが戦後区画整理のために撤去されました。
そうするとこの写真は戦前(1922年から1944年の間)に撮影されたものだといえます。
今年2024年から数えると約90年前の那覇市中心部の風景だといえるでしょう。
なんとも美しい街並みだと思いませんか?
けれども、現在の那覇市西に、この写真に残っている建物は何一つ残っていません。
上の写真は現在の那覇市東町の風景で西町もほぼ同様のコンクリート建造物のみが建ち並んでいます。
トップの写真の伝統的家屋群は1944年から45年の沖縄戦により焼失、消滅し上記写真の風景に置き換わりました。
ただし、同じ様にヨーロッパでも、第二次世界大戦で焼失した街は多いですが私たち琉球とは事情が異なります。
例えばポーランドの首都ワルシャワですが、かつては「北のパリ」と呼ばれるほどの美しい首都が、第二次世界大戦によって、首里や那覇と同じ様に跡形もなく破壊されました。
その写真が以下です。
しかし首里や那覇とは違って、古い街並みを愛する市民によって忠実に復元され、世界遺産に登録されるまでになりました。
こういうことは何もポーランドのみならず、ヨーロッパでは当たり前のことです。
ヨーロッパではそうでも、なぜ我々琉球人は美しい伝統的な家屋の立ち並ぶ街並みを再現・復元しなかったのでしょうか?
かなり辛口でいうと、これは日本の拝金主義のせいで、金さえ儲ければ伝統的家屋や景観などどうでもいいという、戦後日本人の文化や伝統を軽んじる傾向が、我々琉球人に大きな影響を与えてしまっていると思います。
本来日本は2000年もの歴史があり、伝統的家屋の価値を欧米人以上に知っているはずです。
そうであるにも関わらず、米国先住民から土地を奪い作った歴史的建造物など殆どない米国を真似てしまったのは、戦争に負けたからなのでしょう。
戦前までは、琉球王国時代の伝統的な家屋が残っており、今なら世界遺産ものだったはずなのに、日本が起こした戦争に巻き込まれ、米国に破壊されてしまいました。
戦後も美しい琉球の街並みは復元されることもなく、何百年も続いてきた琉球家屋は突然1945年に消えたまま、現在は全くその面影はない姿になっています。
飯が食えればいいんだ、暮らせればいいんだ、雨風をしのげればいいんだ、マンションなど金儲けのために琉球の伝統的家屋などは考えなくていいんだ、と今の首里や那覇の街は声高に主張しているように感じます。
琉球の伝統的家屋を再現し、街並みを再現しようとすれば、今なら何兆円というお金が必要になるでしょう。
しかし何兆円かかってもやるべきです。
米軍基地や自衛隊などは勝手に基地を作り我々琉球人の国、琉球国に居座り、中国の脅威から守ってやると一方的に主張し、さらに日本は文明開化させてやるから日本語のみを学べ、そして英語も学べと、教育も一方的に押し付け、我々琉球人の言語や歴史や文化、音楽でさえも学校教育では全く教えさせてはくれません。
それに異を唱えない我々琉球人。
もういい加減に気付きましょうよ。
我々琉球人の国、琉球国は1879年以降日本という外国に支配され、1945年以降は米国支配も加わり現在に至ります。
日米支配を終わらせ琉球国として独立し軍隊を保有しない平和な国にする。
そして我々の母語は琉球諸語で、日本語や英語は外国語として学ぶ。
さらに首里・那覇の街並みは90年前の伝統的家屋群にすべて戻す。
実は琉球王国時代は首里・那覇以外、要するに平民は茅葺家に住む事が義務付けられていましたが、しかし今日は、それを赤瓦にするかどうかはその地域の琉球人が決めれば良いと思います。
いずれにせよ、現在の琉球諸島は北から南まで、伝統的家屋は特に市街地は殆どといって良いほど失われています。
我々琉球では、観光が産業だと言われますが、琉球諸島はただ海と空が青いというだけで、琉球家屋は市街地ではほぼゼロです。
さらにリゾートホテルが林立していますが、それはハワイの真似です。
けれども、ハワイのリゾートも実は米国に支配され作られた虚像で、本来のハワイの姿では無いのです。
要するに資本家、それも米国人の価値観を持った人たちのやりたい放題の姿が現在の琉球諸島の姿です。
本来の琉球の姿は約90年前のトップの写真にある通りです。
取り戻しましょう、本来の琉球の姿を。
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