Ado - 過学習の歌詞についての偏見評論

皆様は、Ado 2022年リリースの『狂言』に収録されている、
過学習」という曲をご存知だろうか。
恐らく、聴いたことがあってもスルーしている人が多数だと思う。
だが、このアルバムの中では紛れもなく、
「私にとっては」マスターピースであり、歌詞も楽理も凝っている。
今回は、あえて専門外の歌詞について言及する。


・イントロ

「救ってよアナタが 見えないものが見えて」
何を救ってほしいか、の何は、見えないものが見えることから救ってほしいこと。
すなわち、幻覚や妄想などの病的状態に近いことを示している。
果たして、そのアナタという対象は誰なのか。

「気づいていく頭が」
これは、一般的な統合失調症とは異なり、「見えないものが見えている」という病識がある。
見えないもの、すなわち幻想・妄想に惑わされているという自覚があるゆえに、「気づいて」しまう。
これに果たして「病名」はついているのだろうか。
それに、この「病気」は患者数が多い=共感性が高く「ポップ」なのである。

「頭が誰にでもなろうとする」
幻想に惑わされ、情報過多で「憧れる人」の模倣、逆に言えば情報やツールが豊かなゆえに、
"作り手”側のサイドにユーザー側がなってきている。例えば、絵描き、作曲、Youtuberなどなど、本職のクオリティを超える人もいて、
それゆえにアマチュアが驕り、有名人と同一化したがるプリミティヴな欲求に惑わされているわけである。
聞き手が作り手化し、プロの神聖化が薄れてきている。これは、本来商業芸術にとっては敵である。それをA Virgin Musicからリリースしたわけである。

「それは自供か? "口ばっか愚痴ばっかか"? "憂いて泣きそう"か?」
自供は罪を認めること。すなわち、文頭の「それ」とは、
何か、これはこの歌詞の最大難関である。
なぜならば、この時点では"主人公"は他者に向かって言葉を発する描写がない。
すなわち、脳内警察に、自らの罪(行いの重さ)を軽くしてほしいと懇願し、
脳内の自分での自責状態を描写しているとも言える。
つまり、「見えないものが見えて苦しい自分を、自らの行いによって招いている状態」の罪と罰を、
少しでも軽くしてほしいという叫びでもありながら、
その後の歌詞でも、日本人的な過剰な自責、セルフ泣きっ面に蜂状態で、
「口ばっかで行動を起こさない自分」や、
「そのくせ、愚痴ばっかり垂れている自分」への、
"自己嫌悪"の描写だと、ここでは前提として話を進める。
「憂いて泣きそうか?」はもはやオーバーキル自己嫌悪で、
この現状に思い悩んで泣くくらいまで追い込まれている自分を、
さらにメタに見て、自己嫌悪が止まらないという、一種の鬱病的描写に感じる。

「眠らずに至って逃げられん内省」
これはまさしくうつ病そのもの。
気が滅入りすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃになって眠れない、
ゆえに「意識」があるからいつまで経ってもこの「呪縛」から逃げられない、
逃げる方法は「死」だけなのか?という限界状態が垣間見れる。
これがポップミュージックという基盤で描写されるのは、
同様の境遇の人が多く、マス・マーケティングとして成立するくらいの、
病的状態に日本がなっているという証左であろう。

ここで、パステル調の脚の長い女の子が、球体のような街を歩くような、
ガーリーなインスト曲調のインターバルが入る。

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