からっぽの世界で愛を叫んだおんな
とりあえずタイトルの由来を片づけておこう。
谷崎はあまり関係がない。
序の奇妙な冒険
映画が始まる時の、照明が暗くなるにつれ、普段は開かない自分の心の扉がスクリーンに向かって開かれていって、さあ来い、と待ち構えるような感覚が好きだ。
念願かなって戸田真琴監督の映画『永遠が通り過ぎていく』を見ることができた。
の、だ、が。
僕程度の感性で消化するのは難しいぞこれは。何しろCGと爆発と武器が出てこない、〈活動写真〉でない〈映画〉を最後に劇場で見たのは、たぶん監督が生まれる前のことだ。
初め戸惑い、しかし「アリアとマリア」冒頭の会話があまりにも「少女は僕らの知らないところでこのくらいめんどくさい存在であってほしい」という勝手なイメージそのままでありすぎて、そこで自分なりにアジャストできた気がする。
Collage
愛の話であることはわかった。
誰とも断絶しているのに独立できない魂、信じられるものは世界のどこにも自分の中にもないことがわかってしまっていて、その空虚に耐えられなくなった魂どうしが、ぶつかったりすれ違ったりしていって、たぶん交わっていない。
それなのに、これは愛だ、と天啓のような何かが下りてくる。
求めているものが安らぎなのか苦痛なのか、破壊なのか創造なのか、生きることなのか死ぬことなのか、そもそも何かを求めているのか、何も求めていないのか、わからないままそこにいる。
どうしようもなく存在している。そのどうしようもなさに苛立ちながら。
そして、赦し。ぬるま湯のような全肯定ではなく、否定ごと受け止める意思。
ああ戸田真琴さんの映画だなと納得する。愛、怒り、苛立ち、赦し・・・それらはすべて戸田真琴さんだから。
矛盾を矛盾のまま抱え、どこかに突進していって、たまに事故りながら生きている。そんな戸田真琴さんが映画を撮るなら、こういうものにならなかったら嘘なのだ。
これしかやりようがないじゃないか。
諧謔も外連もない、表現者としての誠実な不器用さ。
出会い・幸せ
小説家に書かなければいけない物語があり、写真家に撮らねばならない光景が、音楽家に奏でなければいけない音があるように、映画作家にも撮らなければいけない映画がある。第一作でそこにたどり着けた戸田真琴さんは、幸せな映画作家の一人だ。
それらは受け手にもある。読まなければならない物語を読み、聴かなければいけない音楽を聴き、見なければならない映画を見る。そういうものに出会うことが受け手の幸せであり、そういうものにどれだけ出会えたかで、受け手は死の床で己の人生の価値を決める。
いわゆるリアル書店が好きなのは、個々の書籍はそれぞれの作家が主役あるいは語り部として己の表現力のすべてでもって記したものでありながら、それらが集まって受け手に向かって開かれたフロアは受け手のステージとなり、さあワタシの読まなければならないものはどれだ? と偶然の出会いを期待して胸躍るものがあるからだ。
僕の人生にはそういうものがそこそこあった。
『永遠が通り過ぎていく』も、僕にとって見なければならない映画の一本だった。それがわかっていたから、「決して無理はしないで」という監督の言葉は聞こえないふりをして、いそいそと電車を乗り継いだ。
来月のカードの支払いを考えて頭を抱えようと、帰宅できる電車はとっくに終わり個室DVDで短くて浅い眠りにつくことになろうと、自分は幸せな受け手であると満足している。まだ死ぬ予定はないが。
いつか
見ている間、脳裏に早川義夫さんの歌がいくつも流れてきた。
早川義夫さんは〈いやらしさは美しさ〉と歌う。いやらしさ、そして美しさは、これまで戸田真琴さんについて回ったもの、活動のなかで表現したり追求したりしてきたものではなかったか。
僕の中で、二人の天才が出会った。こういうのも受け手にしかない幸せ、特権と言っていいものかもしれない。
戸田真琴さんは叫ぶ。誰かの叫びを受け止めて。誰かに届くことを祈って。たとえ届かなくても。
その叫びのような、いくばくかの剣吞さを湛えた文章や映画は、きっと愛せる。慄きながら。
自分で切った手首の傷のような、ヒリヒリとする、ときどき疼く、どこかはっきりと愛おしい、そんな映画だった。
今回の余談
ここまで読んでいただきありがとうございました。
ここからはいつもの無駄話。有料かつ自己責任。読む価値は・・・たぶんない。
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