アラビアのお話
β版提出後で仕事があまりにヒマなので、ちょっと生まれた国の話でも。
私はサウジアラビアのカフジという場所で生まれました。
理由は父の仕事の関係です。
ただ、アラビアで生まれたといっても、うなるほど金を持ってる方々が集まるドバイとかああいうゴージャスな都市を思い浮かべてはいけません。
カフジは、いわば日本の会社が油田採掘のためだけに作った村。金網で囲まれた居住区にはキャンティーン(生協)や幼稚園・小学校、病院などの最低限の施設があるのみで、あとは広大なペルシャ湾と、これまた広大なアラビア砂漠が広がっている、今思えばマジで不毛な土地でした。
とは言うものの、子供の適応能力とはすごいもので。
日が暮れるまで海で泳いだり、塀に上って近所の家になってるザクロやブドウを盗んだり、船便で送られてくる半年遅れのアンパンマンを見たりと、それなりに楽しい生活を送っていました。
しかし子供は良くても、大人はそうはいきません。
人間として文化的な生活を送るため、どうしても必要なものがひとつだけあります。…察しの良い方ならすぐにお分かりいただけるかと思いますが、それは…
酒です。酒。
※なおここからはフィクションです。
ウチの両親は共に秋田県民でして、毎日晩酌するほど酒が大好きでした。
でもアラビアってすごく真面目なイスラム国家なので、例え日本人でも空港でアルコールが見つかると 即刻牢屋行き⇒強制送還 なんですよね(今はどうかわかりませんが)。もちろん輸入も禁止。
ならどうするか。
そう。
密造すればいいのです…!(悪
治外法権まではいかないんですけど、私達家族が住んでいたのは会社の居住区なので警察とか入ってこられないんですよね。
なので、当然お酒は作りたい放題。
日本人の家庭では主に砂糖を原料に焼酎みたいなのを作ってました。
浴室に置いたデカいタンクの中で作るんですが、これ発酵する時の匂いが子供の時分はものすごくキツく感じて『大人はなんでこんなものを…』などと当時は思っていました。発酵が完了すると父が会社に行っている間に母が蒸留する、というのが日課だったようです。
その名も『カフジ正宗』。
ウチではこのカフジ正宗をソーダ割りにしてました。
いわゆる焼酎ハイボールですね。人によってはチェリーの缶詰を使って、ハイボールにシロップで色を付けたりチェリーを入れたりして楽しむこともあったようです。ピンク色のシロップでグラデーションに染まったカフジ正宗は光り輝いていて、子供心にとても興味をそそられる飲み物でした。今思えば、それがカフジに赴任した大人達の数少ない、けれど最大の楽しみのひとつだったのだと思います。
さて。このカフジ正宗を囲むため、我が家では夜な夜な 10人以上のお客さんが来て宴が催されます 。というのも、カフジは単身赴任者がとても多かったんですよね。我が家はファミリーで暮らしていたので、そういう家族が単身赴任者を家に招いてごちそうするっていう風習が、当時はあったんです。
元々サウジアラビアのビザ申請が厳しいため、家族のビザ取得が大変…というのもあったんですが、そもそもカフジには幼稚園と小学校しかなかったため、それも理由で日本に残る家族が多かったようです。カフジに家族で来ても子供の通う学校がないんじゃあ仕方ないですよね。
…ただまぁ正直、そんな理由があろうとなかろうと日本離れて砂漠しかない不毛の地に行きたいなんて言う女性…、そういないでしょうけどね!
そんなワケでカフジでは、週7日のうちの4日とか5日は宴会。ウチの母の作ったおひたしやら冷奴をアテに、毎晩のように単身赴任者が集まり宴が催されてたワケです。
帰ると会社の人が必ず一人くらいはいて、子供の頃は「家族だけでご飯が食べたい…」なんていう思いを抱いていた私ですが、今ではすっかり呑兵衛の仲間入り。あの頃の大人達の気持ちが、わかりすぎる程の歳になりました。
あの頃のカフジ正宗。ちょっと呑んでみたいナァと思ったこともあったのですが、母から『カフジ正宗なんかもう二度と見たくも呑みたくもない!』と言われたので、その機会は恐らくやってこないものと思っております(笑