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「ケルト」は現代の人種主義

「ケルト」の名前を使うぐらい個人の自由でしょう、と私も少し前までは思っていました。ところが、歴史学者が「ケルト・イデオロギー」を警告しており、アメリカの新大統領が、ヘイトや人種差別を堂々と叫ぶ分断の時代といわれている中、音楽においても、人種やエスニックグループを想起させるような言葉をわざわざ使ったり、広めたりするのはよくない、と思うようになりました。


「ケルト」を用いて音楽の説明はできない上に、そもそも、「ケルト」は歴史でもない

アイルランドの伝統音楽は、「ケルト語」や「ケルト文化」では説明がつきません。音楽の起源も古代「ケルト」まで遡りません。「今に息づくケルトの文化」なども存在しません。アイルランドの文化がどのような国から流入を受け、どのように発展していったのかについては、もっと複雑です。「ケルト民族」ではなく、アイルランドの国を構成する人々は、さまざまなルーツの人々で成り立っています。(詳しくは→「アイルランド音楽の歴史」)。

そもそも、アイルランドとイギリス諸島の「ケルト」は史実ではないそうです(「「ケルト」は歴史ではなかった」をご覧ください)。歴史学者の認めない「偽りの歴史」を音楽関係の人たちが広める理由はなんでしょう。それがかっこイイからですか。なぜ、「ケルト」がかっこイイと思うのでしょうか?


名前を使っている限り、人に問われ続ける

「ケルト」を単なるファンタジックなイメージとして使っている人もいるかもしれません。自分はそれでOKなつもりでも、そのイメージとするものが他人と共有されるとは限らず、人から「ケルト」ってなんですかと聞かれることになります。そのとき、アイルランド音楽のことを知らない人にどのように説明しますか?


古代エスニックグループを持ち出すとなぜいけないのか

「ケルト賛美」というものがあります。勇敢で、高邁な精神を持っていて、高い文明を持っていて、音楽や芸術に優れていて、想像力が豊かだったと。それでいて、どこにいても他の民族に追いやられ、常に虐げられた歴史の被害者であったと。

人はこういう単純なストーリーにコロッと参りやすいのです。こうした分かりやすい話を人は好みます。

よく考えてみれば、世界中の多くの古代エスニックの中で、どうして「ケルト」だけが高潔な弱者なのでしょうか? どうも話がうまく出来すぎていると思いませんか。まるで作り話です(実際そうなのですが)。私は、戦前のドイツのアーリア人説をすぐに思い出しました。


実は、「ケルト」は人種主義となじみがいい

実際に、ナチ・イデオロギーと「ケルト研究」は近いものでした(詳しいことは文末に記しましたのでご覧ください)。

「ケルト」は現代の人種主義(人種差別)ではないか、と警戒している学者がいます。それはどういうことかというと、ある民族が特に優れていると言えば、他は劣っていると言っているのと同じで、そういうところが、政治的、思想的に利用されやすく危険だというのです。

常に被害者であった、という主張はどうでしょうか。今まで虐げられていたから、今度はやりかえしてもいいのだ、というヘイトや暴力の正当性を導きやすいのです。その証拠に、「ケルト」を好んで用いる教師の中には、あたかもそうすることが正義であるかのように、イギリス人ヘイトを公言しています。

「我々はケルトの末裔である。では、ケルトではない人はいったい誰だ」という排他的な考えが引き起こした過去の出来事については、みなさんも歴史をひもといてみてください。そして、こうしたことは過去にとどまらず、現代に思いもかけないことを引き起こす可能性はゼロではないわけです。


「分断の時代」といわれる現代に古代エスニックが甦る危うさ

「ケルト」の旧説では、「ケルト人」はヨーロッパ人(つまり白人)の始祖である、という考えがあります。始祖であるから先住権を主張できるという理屈です。昨今、ヨーロッパで移民が問題になっていますが、「ケルティック」を冠した音楽祭のような集団の熱狂に、移民排斥を主張する極右が入り込まない可能性はないでしょうか。

また、「ケルト人」は文脈によっては、カトリック系住民を指します。そうすると北アイルランド問題では「ケルト人」はどのような意味を持つでしょうか。現地の音楽家は、日本の音楽関係者ほど、ケルト、ケルトと言いません。当事者の人々は、この概念について私たちが考えている以上に慎重です。(参照記事:『現地ミュージシャンが「ケルト」を使わない訳とは』)

こちらは、アメリカのボストンでのセントパトリックスデーのパレードに、ネオナチが入り込んだというニュース記事です。白人至上主義が「ケルト十字」のマークが入った黒い旗を掲げています。『アイルランド系アメリカ人のネオナチの出現は驚きではない』アイリッシュタイムズ2022年


音楽の持つ力

音楽はイメージ作りに大きく貢献し、人々の情熱に働きかける力を持っています。

「ケルト」は定義することが難しいゆえに、これまで、いろんな時代にいろんな場面でいろんな人たちによって、そのときどきの都合のよいように使われてきました。今後、楽しいはずの音楽が、何か全く違うことに利用されることは、誰も望んでいません。


ナチ・イデオロギーと「ケルト研究」は近いものだった(論文):

「20世紀はじめ・・・おそらくこの時期がヨーロッパにおけるケルト研究の最盛期だった・・・両大戦期間のケルト学は、その中心地のひとつがドイツだったため、人種主義の影響を大きく受けることになるがこの間の経験については、ケルト学研究者のあいだでは蒸し返すべきでないタブーとして、長らくヴェールに包まれたままだった・・・1936年にケルト学講座の教授となったミュールハウゼン(1888-1956年)は、ナチ・イデオロギー的観点からゲルマン先史・ドイツ民俗学研究をおこなうナチ親衛隊「研究・教育振興会」である「祖先の遺産」(アーネン・エルベ)のメンバーだった。こうしたナチ・イデオロギーとの結合により、ベルリンの『ケルト言語研究雑誌』は戦後10年あまり休刊を余儀なくされる。」 原聖『ケルト概念再考問題』 京都大学 p298


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Tamiko/ フィドラー
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