
私は変身するかもしれない
おかしなタイトルをつけてしまったが、正確には「小説家として書くものが変わっていくかもしれない」ということだ。
今年は比較的、執筆の注文をいただけたが、来年の話はひとつしかない。それはエリック・サティの没後100年を記念するべく書かれる小説で、タイトルも仮に『エリック・サティの小劇場』としてある。初稿はもうすぐ書きあがる。
新人賞が毎年、各誌で選ばれている以上、小説家は年々増加する一方だし、私のような売れない老齢作家が求められなくなるのは自然なことだろう。収入のことを考えると暗澹となるが、それ以外についてはなんだか気分はのびのびとしている。自由を感じる。
私はもともと書くものに何かを期待される小説家ではなかった。それが面白い小説であれば、特に編集者から制約を受けることもなかった。
しかし今や私は、さらに自由なのを感じる。肩から力が抜けていくのを感じる。
それはおそらく「軽出版」のおかげもあるだろう。「軽出版」のおかげは大きい。年齢のおかげもあるだろう。若い時の苦労は買ってでもしろというけれど、それは歳を取ったら軽出版があるからだ、と、若い時の自分に言えるものなら言いたい。
軽出版は軽薄出版ではない。「どの出版社も振り向いてはくれないが、自分にとってこれは」というものを、軽量にして、簡便な手法で、軽やかに作るのが軽出版だ。私家版『世界でいちばん美しい』は、軽出版ではなかった。軽量ではないから。さいわい、あんなに大きな小説は数作しかないし、あんなに大量に印刷する予定もないから、今後は印刷代もさして負担にはならない。と思う。
そういうこととは別に、私は、私の小説は、変容するかもしれない。
最近、これは完全に年齢のせいだと思うが、藤枝静男や小島信夫、ヘンリー・ジェイムスやデイヴィッド・リンゼイに惹かれる。いずれも好き勝手なことを書き綴っていた小説家だ。小説家は全員、好き勝手なことを書いているはずだし、今までの私だってそうだったのだが、これらの作家は「好き勝手」の概念が突き抜けたところまで行っている。彼らの小説を読んでいると、こういう小説を書いたって誰に迷惑かけるじゃなし、悪いことなどひとつもない、という力強い・それでいて肩ひじ張ってない、反逆を感じる。
といってそれが彼らの小説観とか小説理論にのっとっているとも思わない。そこが彼らの信奉者が書く小説と違うところだ。無意識がでかい。勝手な感じが強い。
そういう小説に、私のものもシフトしていくような予感がある。ただ、彼らの小説はえてして退屈なものになる。私は退屈なものは書かないだろう。
するとどういうものができるのか。それは今の私にも判らない。楽しみである。
新時代はもう始まっているのだ。変容は必須ですらあるだろう。