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「二次書籍」としての私家版
12月19日(木)記
上梓し、すでに版元に増刷の予定がない自作の決定稿を、データとして返してもらう要請を、あちこちの出版社にしている。その反応というか回答が出版社によって大きく違うので、驚いている。
あっさりと返却してくれるところが多い。ただし「実費」を払わなければならない。原稿をデータにするのは楽でない作業だろうから、これは自分の書いたものであっても仕方がないと思う。ただその「実費」の金額がまちまちだ。出版社によって請求してくる額が大きく違う。無料で送ってくれるところもあるが、それは著者への特別な配慮、あるいは善意があってのことだ。
20年前から書いているから、そもそもデジタルのデータがない、という場合もある。
原稿用紙に書いて渡し、それきり返却されていないものもある。
決定稿のデータは、いかなる形でも社外に渡せない、と断られることもある。これは、ちょっとなんか、おかしいのではないか。データを出さないというのは、その出版社の商習慣みたいなものだろう。僕の原稿は僕のものじゃないだろうか。違うの?
紙も値上がり、輸送費も値上がり、おまけに在庫は資産として課税対象になる。出版社は対応に迫られている。それは一時的な対応で済むことだろうか。求められているのは「対応」ではなく、「変容」なのではないか。書店も減る一方だし。
といって、もう既存の出版社には頼れない、イチから十まで自分で何とかしなければいけない、というのも違う。事実上そんなことは無理だという以前に、それは間違ったストラテジーなのだ。少なくとも小説にとっては。
表現芸術は絶えざる競争の中にある。時間と評価のふるいにかけられて、果てしなく浮沈をくりかえす。作者がどんなに苦心してものを創り出そうと、完成品に絶対の自信を抱こうと、他者に認められなければ生き残ることはできない。求められることは必ずしも必要ではないが、いつか、誰かが、どこかで、認めてくれなければ、表現は存在しないのと同じである。
小説にとって出版社からの上梓というのは、その「認可」(おかしな言い方だが)を与えられるのに近い。少なくともそれは、作者の自己満足によってだけ成立しているわけではないと、上梓自体があかししていると言えるからだ。
自費出版や私家版や「文フリ」は、その「認可」を代替しない。しないから魅力的なのだ。「他人が認める・認めない」の埒外にある。これを「自由」という。
仲俣暁生さんの提唱している「軽出版」は、この自由を獲得するために出版のコストを抑えるという名案の上に立脚している。出版社に依存せず、世に問いたいテキストを自分で編み、印刷・製本する。これ自体は以前にもあったアイディアだが、仲俣さんはこれを資本主義下にある出版状況(「重出版」)に書き手が個人として対応するための武器として、具体的・即物的に提唱し、実行した。
いま「個人として『対応する』」と書いた。これは「対抗」の誤記ではない。軽出版は、重出版を敵視しているわけではないからだ。
軽と重とは相補的である。実際、僕がデータを求めた出版社の編集者の多くは、著者が私家版を出すことに肯定的、とまでいかなくても、同情的であった。時代の趨勢としてそういうことも起こるでしょう、という感触が、メールの文面にはある。
ある編集者は僕のやろうとしていることに「二次書籍」という表現をした。これは小説にとって適切であるばかりでなく、僕が上に書いた小説(を含む表現芸術)についての考え方を言い当てた言葉だと思う。
小説の私家版は「二次書籍」なのだ。一次の書籍が諸般の事情で命脈を断たれたために生じる、窮余の一策なのである。「認可」は一次書籍によって済んでいる。作品の質を保証しているのは作者一人ではない。そうなって初めて私家版は成り立つのではないか。
職業小説家が特権的なことを書いている(ように見えるだろう)ことは意識しているし、先に書いた「自由」からも若干はじかれたところにあるとは思う。どこまでいっても僕は僕の目で自分や世界を見るしかない。
結びの言葉もない。書き疲れた。この先を考えなければいけないと判っているから、続きはいつか書くかもしれない。今はここまでです。